第3章 砂漠の民 その2(舞台:アスタナ)
ベナーは砂漠の民の家を訪れた経験がなく、ゲオル達の住居が気になってついキョロキョロと辺りを見渡してしまった。
そんなベナーの様子に気づいたゲオルが家を案内してくれた。
住居は3つあり、その内2つが寝室で一番大きな住居がリビングとダイニングを兼ねているようだった。
「いつもは私たちの妻が食事を作るのですが」とゲオルは説明したが、男たちは慣れた手つきで料理を作り上げた。
食卓には5人の男と4人の子どもたち、そしてベナーが着席した。
実のところ、彼らにとっては夕食だが、地球からやってきたベナーには朝食の時間だった。
アスタナに着いてから一睡もしていないベナーは、正直時差ボケと言う名の睡魔と戦っていた。
だから食事が佳境に入った辺りで、若い男たちがベナーに馬の乳を発酵させた酒を進めてきた時は困ってしまった。
「いいえ、私はお酒を飲んだ事がないんです」
と言って断ろうとしたが、
「俺たちは皆、乳離れする前からこれを飲んでるんだ」
と言ってベナーの手に発酵乳が入った器を押し付けてきた。
周りを見渡せば確かに年端もいかない子どもたちが発酵乳を飲んでいるし、ゲオルに助けを求めて視線を移せば、
「飲んでごらん。そんなに強くないから」
と言われてしまった。
仕方なく一口飲んでみたところ、確かにアルコールは強くなかったので、つい調子に乗って器を空にしてしまった。
「どうだ、美味いだろう?」
若い男たちはベナーの飲みっぷりが嬉しいらしく、もっと飲めと進めてきたが、
「彼はまだ子どもだから、その辺にしておけ」とゲオルによって制止された。
「発酵乳の味はどうでしたか?」
「思ったよりも飲みやすいですね」
ベナーはそう言ったものの、わずかなアルコールで火照った身体の熱を外に出そうと、無意識に胸元の服をつまみパタパタと扇いだ。
今ベナーが着ているのはゲオルから借りた服で、彼と彼の兄弟が子どもの時に着ていたものだ。
光の道を通る時、29歳のベナーになってアスタナに降り立つ可能性に気付き、大人の身体に子供服では脱ぐのが大変だろうと考え、一度は裸になった。
でも、その状態で街中に降り立ったら公然わいせつ罪で逮捕されるだろうと考え直し、布地を腰に巻きつけた。
そうして、アスタナに降り立ったベナーではあったが、幸いと言うべきか10歳の姿のままだった。
とはいえ、再び地球から持ち込んだ服に着替えるのもどうかと思い、大きめな布を纏い何とか現地の人に溶け込めないかと試行錯誤してみたのだ。
そんなベナーの様子に気付いたゲオルがこの服を貸してくれた。
「おや、なにやら楽しそうですね」
大荷物を抱え、全裸でアスタナに降り立つ29歳のベナーを想像して可笑しくなって、無意識に笑っていたベナーを訝しんだゲオルの言葉に、
「慣れないお酒の所為ですよ」
と、大したアルコール度数ではない乳酒を言い訳に使い
「ところで、夕食を食べ終わったことですし、私の商品を見てもらえないでしょうか?」と話題の転換を図った。
「ふむ、なかなか上等な生地ですね。珍しい色合いの物もありますし、市場で売るよりも専門の卸問屋に持って行った方がいいかもしれませんね」
「そうですか。その卸問屋は市場の近くにありますか?」
「卸問屋自体は市場近くの問屋街にあります。問題はその問屋街までラクダを使って片道1週間程掛かることです。私たちは今日帰ってきたところで、次に市場に行くのは早くても2週間後です」
「そうでしたか…」
参ったな、この調子だと市場に着くまでに3週間は掛かってしまう。
ジョンとシンシアには置手紙を書いたけど、夏休み中に戻るのは無理そうだな。
そうベナーが自分の見通しの甘さを痛感していると、
「しかし、心配には及びませんよ。貴方は私たちの大切な客人です。出発までゆっくりと休んでください。私たちもなるべく早く貴方が出発できるよう調整してみましょう」
「ありがとうございます。このご恩は忘れません。必ずお礼をさせてください」
とベナーは言いましたが、
「いいえ、貴方が礼を述べる必要はありません。私たちは既に掛け替えの無い宝物を貴方から頂いています。ですが、その話は明日しましょう。もう夜も遅いので寝る時間ですよ」
とゲオルは言いました。
確かに周囲を見渡すと先程まで男たちに纏わり付いてアクロバティックに遊んでいた子どもたちも、一人また一人と船を漕ぎ始め、男たちに促されてお休みの挨拶をして寝室へと移動して行った。
ゲオルの言葉の意味を図りかねたベナーが、
「わかりました。では明日話しを聞かせてください」
と同意すると、ホッとした様子のゲオルが、
「我が家には客間が無いのでここで寝てください」
と言って布団と毛布を用意してくれた。
まさか3つある住居の中で一番大きな場所を割り振られるとは思わなかった。
慣れない場所に、疲れているはずなのに寝付くことが出来ず、ベナーは手探りで懐中電灯とジップロックに入れた写真を取り出し懐中電灯で照らした。
それは家族3人を始めて写したもので、某国の家庭裁判所で養子縁組の手続きが完了した後で撮ったものだった。
1歳になったばかりのジュニアを抱っこしたシンシアを、さらに大きな腕でジョンが抱きしめているその写真はジュニアのお気に入りだった。
ジョンは自分の事を泣き虫じゃないと言い張っていたが、その写真に写る彼は確かに泣いていた。
家族が恋しかった。
まだ半日も経っていないのに。
これ以上感傷的になるのが嫌だから、懐中電灯と写真を仕舞って今度こそ眠りについた。
暗闇の中、わずかな明かりを手にした一人の女が寝ているベナーに近づいた。
オレンジ色の明かりに照らされたベナーの幼い寝顔を見た女は、毛布からはみ出た左手を手に取り手の甲に口付けた。
そして女は音を立てる事なく涙を流し、
「陛下、貴方の帰りをお待ちしておりました」と言った。