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善と悪の物語

掲載日:2018/07/13


 



 「物語」を作るにはいくつかパターンがある。エンタメ作品においては、基本的に主人公は善玉であるので、善玉は、それ自体では能動的ではない。良き常識人は平凡に暮らして終わりである。だから、エンタメ作品では、理不尽に「世界を壊そうとするもの」を作品に組み入れたりする。


 例を上げるまでもないだろうが、「シュタインズゲート」などもそういうストーリーで、自分は基本的にシュタゲが好きだし、評価もしている。しかし、シュタゲが、作品を進ませる動力として、「世界支配をもくろむわけのわからない集団」=「X」を式に入れたというのは、エンタメ作品として仕方ない事だったのかな、という気もしないではない。


 ガンダムの初代作品では、敵と味方は相対的に出来ている。ジオンの側にはジオンの事情がある。自分が、良い描写だと思ったのは、主人公のアムロが実家に帰った時、実家が兵隊に荒らされているのだが、荒らしているのはアムロと同じ連邦側である。そこでアムロは激怒するわけだが、基本、善である連邦が実家を荒らしているというエピソードを挿入するのは、監督の戦争というものに対する洞察があったと自分は考えている。今や、戦争は時間的に遠いものとなったので、ロマンティシズムが溢れる場所になった。


 その後のエヴァンゲリオンも、まどか☆マギカも、敵と味方の相対性は失った。これは物語性としては後退としたと見てもいいが、今の時代を反映しているとも言える。「シン・ゴジラ」などはあまりに単純な善悪にシフトしていて、ここまで割り切れればさぞ「気持ちいいだろう」と思ったが。


 自分が疑問だったのは、優れた古典作品の主人公は大抵、悪人だったり狂人だったりする事である。これは非常に不思議に思えた。


 例を上げれば「罪と罰」のラスコーリニコフ、「ドン・キホーテ」のドン・キホーテ、「源氏物語」の主人公も女たらしのクズであるし、「ライ麦畑」の主人公は狂人の類に含まれるだろう。オイディプス王の主人公は罪を背負った状態で出てきて、シェイクスピアの悲劇の主人公は悪人だとか、歪んだ人物が多い。「嵐が丘」のヒースクリフも悪人だ。


 もちろん、この場合、例外もある。しかし、なぜだろうか。ゲームなどをしていても、主人公がマッチョな正義感の持ち主で、ただもうピンチになっても体育会系的に「がんばれ! まだ助かる!」なんて延々やっていると、何の人間味も感じないというのは。


 人間の不思議さーー善悪というのは、もっと考える必要があるが、ナチスドイツの内部から見れば、それは善だったわけだろう。色々な理由で善と言えたのだろう。だが、戦争に負ければ、それは悪となったのか。とすると、戦争で戦っていたのは、善と善の戦いだったのだろうか。


 例えば、主人公が「悪」であっても、主人公が苦悩する人物、葛藤する人物、それが紛い物でないのであれば、そこに我々はおそらく共感する事ができる。その一方で、「君の名は。」や「シン・ゴジラ」のような極めて単純な作品が大受けするというのは、我々の本性について何事かを語っているのだろう。何が言いたいかと言えば、我々が善の物語を作り、それをエンタメとして享受し、現実そのものもそういう指向に取ったとしても、それが本当に善であるかはその内部では裁けないという点である。小説家はこの善ーー悪の外に出なくてはならないのではないか、という気がしている。


 罪と罰のラスコーリニコフは、改心する悪人として描かれているが、あれを善人と描く方向性も考えられなくもない。老婆を殺し、その金で妹と母と自分を救う。老婆をもっと醜く描いて、悪人として描けば、段々と我々の持つエンタメ作品に似てくる。しかし作者はそれとは逆の方向に筆を取った。なぜだろう。


 自分はこんな事を書きつつ、今の世の中で炎上しないように、かなり注意しているのだがーーおそらく、悪とか善とかいうのはある種の断面図であって、そのプロセスを見ていけばそこに善悪はなくなる…つまり、善悪の彼岸に到達するだろうと見ている。


 こう言うと「じゃあ、人殺しは悪くないのか」とか、わけのわからない人が言ってくる人がいるが……とここまで、書いて、随分と自分を制限しているのに気づいた。この先の答えも自分なりに出ているのだが、この先の答えは、この世界に対して話したくないので、黙っておく事にする。それは、小説形式として表現する事にする。


 おそらく、この世界そのものが完全な「善」となった時、まさにその時、「地下室の手記」に出てくるあの紳士がまたやって来るだろう。そうして完全なる善を嘲笑するだろう。例えば、シュタインズゲートにおいて出てくる「悪」は全て、オカリンの中二病妄想と考えてみる事はできないだろうか。隣の部屋の住人が怪電波を出してきて眠れないからやむなく包丁で殺したという精神の病んだ人間……我々は彼を異常と呼ぶのだが、彼の内面に入った時、それは善に見えてくるだろう。彼の内部において、論理的な間違いはない。間違いは彼の外部にある立場に立って初めて見えてくる。


 僕は、自分達がそういうものになる可能性は十分あると見ている。そうなった時、単純化した善悪の物語は氾濫するだろうし、そこで人は繰り返し繰り返し、自分の正しさ、強さ、誇らしさを証明し、悪は繰り返し繰り返し、敗北し続ける。無限に続く勝利、栄光。敵は敗北し、頭を下げる為にやってくる。美少女達が、ゲームやアニメやライトノベルの中で飽く事なく繰り返し主人公に寄ってくるように、繰り返し繰り返しそれは行われる。それはある種の無限であるが、我々の人生は無限ではない。


 自然も歴史も、我々の存在を越えて、我々の物語を越えて続いていくだろう。仮に人類が消滅しても、また夏はやってきて冬もやってくるだろう。僕にはその光景が目に浮かぶ。あるいは僕が本当に望んでいるのは……その光景だけなのかもしれない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 相手の視点に立たないの善悪の物語が繰り返し描かれ語られるということが与える影響について考えると少し怖いのでした。
[一言] 物語で項羽や曹操が悪役にとして出てくるということは古代から人々に思想があってその基準で善悪の判断をしているということでしょうか?作家にとっては合理的な曹操や無敗の項羽に心を惹かれるということ…
[良い点] とても面白い内容でした。 [一言] 娯楽的善悪は、簡単であるが故に語れる物です。語るまでが、娯楽となっているのでしょう。だからこその繰り返しであり、だからこそのオルタナティブだと思います…
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