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白夜の星(5)



               5


 声にならない悲鳴をあげて、ラナは目覚めた。

 鼓動が耳にひびく。心臓が、とびはねている。全身に冷や汗をかいていた。仰向きで眠っていた彼女は、衣の襟をかき合わせ、肩で息をついた。

 身体の奥に、大きな亀裂があいている。底のない闇から、ふいに、恐怖と絶望が忍びでて、氷のように冷たい手で、ラナを捕らえるのだ。安心しているときに限って。

 生命を吸い取られるような心地がした。

 セイモアは、身体を丸めて眠っている。

 震えながらその姿を眺めたラナは、心の底から、自分を情けないと思った。


 いったい、何がおそろしいと言うのだ。あの男は死に、トゥークは去った。ニレも、キシムも、いたわってくれる。セイモアにも、マグにも護られて、もはや、何者にも傷つけられることはないはずなのに。

 いつまで、これが続くのだろう。くやしさに、涙がにじんだ。眼をかたく閉じ、唇を噛む。抑えきれない嗚咽が、胸の奥からせりあがった。


「ビーヴァの、ばかっ!」


 突然、ラナは叫んだ。セイモアが、びっくりして跳ね起きる。

 ラナは、両手を握りしめ、天を仰いで抗議した。


「どうして、何も言ってくれないの? 姿を見せてくれないの! ビーヴァの、ばかばかばかばかあっ!」


 少女の声は、天井に吸い込まれて消えた。炉のなかで、薪のもえさしが、乾いた音を立てて崩れ落ちる。

 ラナは、顔を覆って泣きだした。イラクサを編んで作られた茣蓙(ござ)の上に、くずおれる。長い黒髪が、背中をすべり落ち、板敷の床でうねった。

 セイモアは、クンクン鳴いたが、どうすればよいかわからず、耳をたらした。


 理不尽な要求だと、ラナは承知していた。子どもが甘えているのと同じだ。でも、誰よりも、ビーヴァは甘えさせてくれた。

 いつも。いつだって……。

 彼は、決して、彼女を独りきりにはさせなかった。ともに笑い、ともに泣き、ともに悩んで成長したのだ。

 それなのに。

 最も必要としているときに、彼に逢えない……。彼のいない世界で、これ以上、苦しみながら生きていくのは、耐えられないと思った。


 すすり泣くラナの前に、ぼうと、蒼白い光が現れた。煙のようにたなびき、ひとところに集まる。気配に気づいたラナが、涙にぬれた眼で瞬きをすると、光は人の形をとり、青年の姿になった。

 ビーヴァは、困りはてた様子で、彼女の前に立っていた。


「……ビーヴァ」


 ラナは、茫然と呟いた。半年ぶりだ。ほんとうに出てきてくれるとは、思っていなかったのだ。


《ラナ》


 ビーヴァは口を開けて喋ったが、懐かしいその声は、直接ラナの頭のなかに響いた。


《ラナ。……俺はもう、死んでいるんだ》


 死者は、生者の行く末に、口をだせない。ラナの将来は、今を生きる者たちで決めるべきだ――と、ビーヴァは言いたかったのだが。


「そんなこと、解っているわよ!」


 ラナは、がばと身を起こし、勢いよく首を振った。


「解っているわよ、兄さん!」


 ビーヴァの眼と口が、ほかっと開いた。


「ここに居てちょうだい、ビーヴァ」


 ラナは、きっ、と彼を見据え、目の前の床を指さした。セイモアと彼女の間だ。


「お願い!」

《わかった……》


 泣きながら叫ぶ口調は、駄々をこねる幼児のようだ。ビーヴァは、仕方なく腰を下ろした。

 ラナは、彼が手のとどく距離に居ることで満足したらしく、ぺたんと寝そべった。衣の襟を、寄せあわせる。身振りで、彼にも横になるよう指示した。

 ビーヴァは、ゆっくり胡坐をくずし、彼女と向かい合う形で寝そべった。幼い頃、夜毎、そうしていたように。

 二人は、しばし見つめあった。


 ラナは、ビーヴァが居心地悪くなるほど真剣に、彼を凝視(みつ)めた。うるんだ黒曜石の瞳が、正面から彼を映す。両腕を伸ばし、やや透けている幽体の顔に触れた。


《…………?》


 現身(うつしみ)の人の手が、霊魂に触れることはできない。突き抜けてしまうはずだった。それでも、輪郭をなぞるように、ラナは指を動かした。ビーヴァの両のこめかみから、頬、顎に、触れるか触れないかの距離で。眉と眼の形をたどり、鼻から唇へと……。ビーヴァの側からみると、眼前をやわやわと十本の指が(うごめ)く状態となり、きわめて奇妙だった。

 ビーヴァは、じっとしているのが辛くなってきた。いったい、これはどういう遊戯だ?


《何……?》


 ラナは、音のない吐息とともに答えた。


「こんな顔だったんだ、と思って」

《ええ?》


 ビーヴァは、目を()いた。ラナは、拗ねて唇を尖らせた。


「ちゃんと見せてくれないのが、いけないのよ」

《あれは――》


『礼儀じゃないか』と言いかけて、ビーヴァは言葉を呑んだ。ラナの目から、ぼうと涙があふれだす。


《……泣くなよ》

「だって」


 いつしかビーヴァも、昔の、乳兄妹の口調に戻っていた。


《本当に、よく泣くんだから、ラナは》

「ビーヴァが悪いのよ」


 右手を彼の頬にかざしたまま、ラナは、左手で、自分の眼をこすった。


綽名(あだな)が悪いんだわ……。貴方のせいじゃない。」


 ビーヴァは、彼女の涙をぬぐいたいと思ったが、それが出来ない己の境遇を自覚しただけだった。

 ラナは、小さくしゃくりあげながら、ひたと彼を見詰めた。


「痩せた?」

《……さあ》

「これが、死んだときの姿なの?」

《分からない》

「どうして死んじゃったの?」


 ラナの問いは直截(ちょくさい)で、胸を刺した。ビーヴァは眼を伏せ、短く答えた。


《病気だ》

「病気……」

《体に皮疹が出て、熱が出た。吐いて……そこから先は、覚えていない》


 ラナは、するどく息を吸い込んだ。そっと問う。


「苦しかった?」


 ビーヴァは、溜息をついた。


《ああ。死ぬかと思った》


 痛まし気に彼を観ていたラナは、この返事を聞くと、どう反応すればいいか分からない、という顔をした。

 ビーヴァは唇を歪めたが、苦笑はいまひとつ頼りないものになってしまった。


「ビーヴァ」

《はい》


 ビーヴァは、もう、逆らわないことにした。ラナは、彼から目を逸らさない。瞬きすら惜しむかのように。


「兄さん。私、貴方のとむらいを、していないのよ」

《……そうだっけ?》


 こくりと、ラナは頷いた。ビーヴァは思い出そうとしたが、死の前後の記憶は、あいまいな部分が多かった。そのうえ、セイモアの関心の外の出来事は、なかなか意識にのぼらないのだ。


「エビは弔ったのよ。ロキも……。父さまとタミラも、弔っていないわ」

《母さんは、キシムがしてくれた》


 あの時、ラナ達は、コルデに攫われていた。ビーヴァは、淡々と教えた。


「キシムが?」

《王が頼んでくださったんだ。俺も、ちゃんと、送ったよ》


 ラナは、少し考えてから訊ねた。


「貴方は? 貴方も、キシムが送ってくれたの?」

《いや》


 ラナが問おうとしていることを察して、ビーヴァは口を閉じた。


「貴方はどこにいるの? ビーヴァ。貴方の、身体は」

《…………》

「ビーヴァ」


 ラナの声に、苛立ちがただよう。ビーヴァは、吐息を呑んだ。


《……探さない方が、いいと思う》

「どうして?」

《その……あんまり、いい状態じゃあ、ないから。俺は。ちょっと》


 まさか、ルプスに喰われたあげく、腐って骨になりかけている、とは言えない。

 ラナは、黙り込んだ。ビーヴァの答えに納得はしていないが、彼にくわしく話すつもりのないことを理解した。

 それから、ラナは手を伸ばし、幽体のビーヴァの外衣の襟に触れるしぐさをした。魔除けの縫いとりの上で指先を動かし、呟く。


「きちんとお別れも出来ないのね、私たち……」


 ビーヴァは、胸を刺されるような痛みに、片方の眉をひそめた。


《ラナ。俺は……。その》


 セイモアに憑依してから身体を喪い、テティ(神霊)になって、キシムと契約を結んだ。――そんなもろもろの事情を、説明しようとしたのだが、


「いいの。知っているわ」


 ラナは、彼の言葉を待たなかった。


「キシムでしょう? 解っているわ。キシムなら、いいのよ」


『いいのか?』 ビーヴァは、にわかに混乱した。『そういうものなのか?』 

 話がかみ合っていない。理解されている気がしないのだが……。意外なほどさばけたラナの口調に、拍子抜けした。


「だって、貴方、死んでいるじゃない。誰と居ようと、問題がある?」


 ラナは肩をすくめ、左頬の刺青をビーヴァに向けた。瞬きをくりかえし、眼にうかぶ涙を消そうとした。


「問題は、私の方……。どうしたらいいのか、解らないのよ」


 ビーヴァは、漠然と、キシムの言っていたとおりだと思った。

 頭では分かっている。それでも諦められないから、苦しいのだ……。


「ビーヴァ」


 ラナは眼を閉じ、ふるえる長い息を吐いた。その息にのせ、囁いた。


「兄さん。お願い。そばにいて」


 ビーヴァは黙っていた。

 セイモアに憑依していると伝えても、ずっと見守っていると告げても、意味がないと理解していた。ラナが望んでいるのは、そんなことではない。

 (ことば)どおりに。生前と同じく、彼が観え、その声が聞こえ、触れられる存在として常に傍にいるよう、望んでいるのだ。

 ラナは眼を開け、まっすぐに彼を観た。


「お願い」


 そして、それが出来ないのであれば――ビーヴァが最もおそれている(ことば)を、ラナは続けた。


「私を、連れて行って……」


 憎しみも、悲しみも、届かないところへ。未来はなくとも、二度と傷つけられない場所へ。永遠に、彼とともにいられる世界へ。

 彼女がずっとそれを望んでいると……ビーヴァは、知っていた。


 彼は、無言のまま、右手を差し伸べた。ラナは、一瞬、びくりと肩を揺らした。

 ビーヴァは表情を変えず、そうっと、彼女の頬に手を添えた。勿論、決して触れられはしない。ラナは、そろそろと息を吐いて、体の緊張をといた。

『綺麗になったな……』 と、ビーヴァは思った。

 記憶のなかの童女は、すっかり成長し、娘になっていた。蒼白いほど(しろ)い顔のなかで、黒い大きな瞳がきらめいている。唇は紅を刷いたように艶やかで、頬から肩の線はほそく、折れてしまいそうに(たお)やかだ。その輪郭を、火明かりを受けて輝く黒髪が、しっとりと覆っている。(はかな)い、清楚なうつくしさだ。

 ラナだけでなく、ビーヴァの方も、彼女をこんな風に見詰めたのは久しぶりだった。同じ氏族の者は、成人してからは、目を合わせることすら禁忌なのだ。

 ラナは、羞じらうかのように眼を閉じ、ビーヴァに差し出していた手を、己の胸にあてた。


「リングゥンの気持ちが、解るわ」


 伝説の恋人たちの片割れの名を呟く。閉じた瞼の先で、睫毛がふるえた。


「貴方と一緒にいられるのなら……首を吊って、死んでもいい……」

《やめてくれ》


 ビーヴァは、暗い声で応えた。眉間に皺を刻む。

 ラナは、はっとして彼を観た。ビーヴァは、彼女に横顔を向け、苦しげにつづけた。


《ラナが死んだら、一緒にいられなくなる》

「そうなの?」


 ビーヴァは頷き、ためらった後に、つけ加えた。


《……ラナが死んだら、先代の巫王が、迎えにくるんだ》

「母さま、が?」

《歴代の、巫王のテティ(神霊)だ。母巫女であり、祖母でもある。ムサ(人)を護るテティだ》


 ラナは、口を開きかけて閉じた。ビーヴァは、ひとではない――テティのみが知り得ることを語っている。

 ビーヴァは、半ば眼を伏せ、己の(うち)にとどく声を聴いていた。


《祖先の霊たちと、ラナはひとつになる。そうしたら、ラナではなくなる……。俺のことも、忘れてしまうはずだ》

「そんな」


 ラナは息を呑んだ。しかし、すぐに思い出した。『母であった記憶はない』と、母巫女は言っていた。父王の首級を見ても、『汝の父か?』と――。

 絶句する彼女に、ビーヴァは、ぼそりと言った。


《俺も、いずれ、そうなる》

「…………」

《今は、意識を保っていられるけれど……。俺のなかには、すでに、数十のテティ(動物霊)がいる。これから、もっと増えていく。……俺たちは、互いに融けて、ひとつになる。ラナやセイモアのことを、考えられなくなる》


 ビーヴァはラナに向き直り、やや厳しい口調で告げた。


《それに……自殺したら、霊魂は、地下へ落とされる。何年も彷徨って罪を清めなければ、テティ・ナムコ(神霊の世界)へは行けない……。そうなったら、いくらラナでも、俺は、たすけられないよ。だから、首を吊るのは、ダメだ》

「ビーヴァ。貴方は――」


 ラナは囁いた。今では神霊となっている青年の役割に、思い至ったのだ。

 ビーヴァは、うなずいた。


《俺は、森のテティ……。霊魂をテティ・ナムコへ送るのが、俺の役目だ》



「テティ・ナムコへ?」


 ラナは、繰り返した。すぐには、意味を理解できない。

 ビーヴァは、説明する代わりに、右手を伸ばした。今度は、彼女の現身(うつしみ)ではなく、(うち)に宿るたましいを、たぐるように引き寄せた。


「あっ……!」


 ぐるりと視界が回り、気づくと、ラナは、彼の腕のなかにいた。幽体の腰を抱きかかえられ、王の家の天井ちかくに浮いている。眼下に、横たわっている己の身体が見えた。

 セイモアが、こちらを見上げ、尾を振っている。


《セイモアは、ここにいろ》


 不思議にひびく声で、ビーヴァは言った。セイモアは、承知したというように、鼻を鳴らした。


 ラナが眼をまるくしていると、ビーヴァの背に、銀青色の翼が現れた。ロカム・テティ(鷲神)の翼だ。ばさりと音をたてて風をとらえ、ぐんと舞い上がる。屋根を突き抜け、森の木々の梢を越え、ナムコ(集落)全体を見渡せる高さまで、一気に上昇した。

 ラナは、思わず、ビーヴァの肩にしがみついた。広場で燃える緋色の篝火をみおろしていた彼は、彼女に囁いた。


《しっかり、つかまって》


 翼が、背中に吸い込まれるように消えた。とみるまに、ビーヴァの顔が、前へと伸びた。髭が生え、口が裂け、耳が三角にとがる。前方へ倒れる動作とともに、首から腕が銀色にかがやく毛におおわれ、ゆたかなたて髪と太い尾をなびかせたルプス(狼)の姿に変わるまで、二秒とかからなかった。

 ラナは、慌ててかれの首に腕をまわした。銀のルプスの左頬から肩にかけて、見慣れたビーヴァの刺青と同じ紋様がある。

 ルプス・テティ(狼神)は、彼女を背に乗せて走りだした。


 密生するモミの枝をかすめ、人々の集まる広場へと、(そら)を駆けくだる。祭壇の篝火のそばをすり抜け、火の粉を散らした。

 ラナは呼吸を止めたが、むらびと達の目には、二人のすがたは観えておらず、風と思ったらしい。

 炬火を掲げて踊る男たちの頭上を跳びこえ、ナムコの端まで行くと、走りながらルプスの首が伸び、脚が伸びた。かれは、今度は、枝角をもつ牡のユゥク(大型の鹿)へと変化した。

 白銀色のユゥクは、眠る湖の(おもて)すれすれのところを、滑るように駆けた。ときに蹄の先が湖面に触れ、濁りのない水面(みなも)にうつる森と空の境界に、音もなく、いくつもの波紋を描く。

 ラナは、うっとりその様子を眺めた。

 氷の彫刻のような枝角をかかげ、金の瞳を煌めかせるユゥクの身体には、やはり、ビーヴァの紋様があった。

 ラナは、かれの頬に、掌をあてた。


「ビーヴァ」


 かぎりない愛しさをこめて、呼ぶ。『――わたしのビーヴァ』

 また、かれのすがたが変わった。首はさらにほそく長く伸び、枝角は吸い込まれて消え、(くちばし)が生える。四肢を折ると、代わりに、巨大な白い翼が現れた。ラナの前後で力強くはばたく翼は、四枚もあった。

 ラナをのせた大鵬(おおとり)は、湖の端までくると、急旋回して向きをかえ、ななめに大きく円を描きながら、空へと昇っていった。高く……高く。湖と森をかこむ山々の、雪をいただく尾根の高さまで。紫色に染まってなお淡くかがやく空の、果てがうかがえそうなところまで昇り、ようやく止まった。

 白鳥は、またたく間に、狩人の姿に戻った。片方の腕でラナを抱いて宙に留まり、森の向こうで揺れる焔を見詰めている。

 彼は、息を弾ませていた。


「ビーヴァ」


 ラナは、もう一度、呼んだ。

 ビーヴァの闇色の瞳から流れだした透明な滴が、頬を伝い、顎の先でふるえていた。耐えきれず、ひと粒、ふた粒と、落ちてゆく。きらきらと煌めいて、濃い緑の森の底へ消えていくさまは、星のようだった。

 ラナは、両手で彼の顎をささえ、瞳をのぞきこんだ。


「どうして、貴方が泣くの?」


 ビーヴァは眼を閉じ、ふかく息を吸い込んだ。ふるえる吐息とともに、答えた。


《ラナが、これから先もずっと、死にたいままだったら……。俺は、どうしたらいいんだろう、と、思って》


 ラナは、眼を瞠った。

 ビーヴァは、幽体の袖で、目元をぐいとこすった。彼女から目を逸らし、鋭くとがった峰の向こうを見遣る。ぎりりと、奥歯を噛む音がきこえた。


《俺は死んでも、みんなには、生きていて欲しいと思ったんだ。ラナには……。幸せに、なって、欲しいんだ》

「…………」

《それなのに。ラナが死にたいのなら、俺は、どうすればいい……。俺に出来るのは……このまま、ラナをとりこんで……一緒に……ケレ(悪霊)になる、だけだ……》


 話しながら、ビーヴァの姿は、再びルプスへと変化していた。ロカムの翼をもつルプスだ。唸るような、くぐもった声で呟き、黒い瞳から涙を流しつづけている。ラナを見ず、山稜のかなたを見据えていた。

 ラナは、かれの首に腕をまわし、その顔を凝視した。銀灰色のルプスの毛の奥に、うずまく闇が観えた。

 すでに、ルプスではなかった。アンバ(虎)にも観え、いずれとも違う、異形の存在だった。牙が伸びて唇がめくれ、緋い舌がのぞいた。翼の根元に、ごつごつとした筋肉の瘤が現れる。肩の皮膚が裂け、闇と骨が突き出した。ゴーナ(熊)よりも大きく、マモント(マンモス)のように膨れ上がり、みしみしと音をたて、次から次へと形態(かたち)を変えていく。

 それでも、冬の夜空さながら澄んだ瞳は、ビーヴァのまま、涙を流している。

 闇をまとう翼が、彼女を包もうとしていた。


《おれは、生き……レ、ない。らな。い……、ケレに……。デも……い、タい?》


 言葉の大半は、遠雷のような唸り声に変わり、聴きとれなかった。

 ラナは、凝然と、かれを見詰めた。

 恐怖はなかった。どんな姿であれ、ビーヴァを恐れる理由などない……。魂をかれにとりこまれれば、肉体は死ぬのだろう。

 そして、ムサ(人)を殺せば、ビーヴァは神霊ではいられなくなり、悪霊となる。


『私の、ため?』

 ラナの唇がふるえた。

 ビーヴァは、ラナを、仲間たちを守るために、命を落とした。今も、彼女のために現れてくれた。

 この上、彼女のために、ケレに堕ちようというのか――。


「……ごめんなさい」


 ラナは呟き、かれの肩に顔をうずめた。今にも彼女をとりこもうとしていたケレの動きは止まり、ビーヴァの瞳が、彼女を映した。


「ごめんなさい、ビーヴァ。……お願い。ケレに、ならないで……」


 ラナは、かれの胸にすがりつき、声をあげて啼いた。

 ケレは、するすると縮んで、青年に戻った。編んだ黒髪を尾のようになびかせ、夜風に衣の袖をひろげたビーヴァは、片方の腕で彼女を抱き、悄然と佇んだ。




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