表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

白夜の星(2)



               2


 キシムは、ばつの悪い思いで、ラナの家を出た。

 泊まるように誘われたが、とても、そんな気持ちになれなかった。長の家のうしろの森、ベニマツの巨木の陰に、自分用のチューム(円錐住居)を建てた。ユゥク(大型の鹿)をつなぎ、スレイン(狼犬)と並んで腰を下ろす。

『どういうことだ……?』

 スレインに干し肉を与えながら、キシムは、ぎりりと奥歯をかみしめた。


 テティ(神霊)となったビーヴァの霊力は強く、彼の(たす)けがあれば、キシムは、赤いキノコの薬を使わなくとも、身体から霊魂を離すことが出来た。セイモアに憑依しているビーヴァがラナの傍にいて、キシムが己の氏族(シャナ族)とともに離れた土地にいても、幽体になれば、逢うことが出来る。

 二人は、そうやって、しばしば逢瀬を重ねてきた。

 キシムは、ラナもそうだと考えていた。

 血によって受け継がれるラナの巫力は、キシムより強い。ビーヴァがセイモアに憑依していることを、彼女は知っているのだから、当然、言葉を交わし、逢っているはずだと。

 事実は違っていた。

 ビーヴァの死後――ニチニキ邑の門の前でセイモアと再会して以来、ラナは、彼のすがたを()ていない。声も、聞こえていなかったと知り、キシムは実に、じつに気まずい思いを味わった。

 ラナは、すっかり(しお)れてしまった。

 彼女はそれを、自分の所為だろうと言った。おのれがシャム(巫女)として、未熟なためだと……。キシムを責めはしなかったが、心中穏やかでないことは、容易に察せられた。

 キシムは、彼女を慰められなかった。


「…………」


 日暮れたのちも薄明るい夜空を、キシムは仰いだ。スレインの金赤毛に指をさし入れ、掻きながら、意識を拡げる。

『帰っている』と、分かった。喚ばれている、とも……。

 キシムは溜息を呑み、チュームの入り口をおおってなかに入った。毛皮の外套を敷き、スレインとともに臥床する。


「お前はいいよな、気楽で……」


 甘えて顔を舐めるスレインの耳の後ろを、指をたてて掻いてやると、キシムは、改めて眼を閉じた。



 ビーヴァは、昼間セイモアが狩りをしていた場所に近い、山の中腹にいた。湖畔の森と、アロゥ氏族のナムコを一望できる高さだ。氷河にけずられた斜面に咲く黄色いヒナゲシの花のなかに、佇んで、ぼんやり(そら)を眺めていた。

 額帯(ひたいおび)をつけ、一本に編んだ長い黒髪をゆらし、炎の紋様の縁どりのある衣のそでを、夜風にふうわり拡げている。テティ(神霊)の彼は、狩人の装束も、ムサ(人)としての外見すら、とる必要はない。ロカムでも、ルプスでも、自由に容貌(かたち)を変えられるはずだが、キシムの観るビーヴァは、いつもこの姿だった。


 青年の肩で、ロカム(鷲)が羽を休めていた。翼をひろげれば、彼の身を隠してしまえるほど巨大なテティだ。あわい紫の夜空を背景に、ふたりの輪郭は重なり、白く輝いていた。

 ビーヴァの脚絆(きゃはん)に隠れて、動くものがあった。キシムが眼を凝らすと、キツネのテティだと判った。蒼白く、透けている。リスのテティが彼の上着をよじ登り、チコ(皮靴)の上で、ウサギがくつろいでいる。ツグミやゴジュウカラといった小鳥たちが、ロカムを恐れることなく、周囲を飛びまわっていた。

 たくさんのテティ(動物霊)に囲まれていても、ビーヴァは淋しげだった。……さびしくて、哀しくて、夜にとけて消えてしまいそうに観え、キシムは息を殺した。


《……キシム》


 キシムが声をかけるのを躊躇っていると、ビーヴァの方が、彼女に気づいた。ほっと、表情を和ませる。

 彼の肩にいたロカムが翼をひらき、音もなく舞い上がった。蒼白い(ほのお)さながら揺れていたキツネやリスのテティたちが、淡く光って、青年の身体に吸い込まれるのを、キシムは目で見送った。

 ビーヴァはキシムに近づくと、両腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。どちらかと言うと、しがみつく、といった風情だった。幽体どうしなら、触れることが出来る。重さもぬくもりもないからだを、キシムは受けとめた。


「どうした?」


 ビーヴァは、ひどく疲れていた。身体がないのだから、疲労というのはおかしい。消耗、と言うべきか。


「マシゥ、と言っていたな……。あいつが、また、()いたのか?」


 キシムの肩に顔をうずめていたビーヴァは、無言で、少し身をはなした。キシムは舌打ちした。


「まったく……。誰か、あいつに、テティ(神霊)に対する礼儀を、教えてやる奴はいないのか? オレが、言ってやろうか」


 エクレイタ族のマシゥは、ビーヴァの親友だ。

 森を勝手に伐り拓いたエクレイタの開拓民は、ならず者の集団だった。特に、団長のコルデは、残忍きわまりない男だった。アロゥ氏族の集落を襲い、ラナを含む女性たちを凌辱し、子ども達を殺したのだ。

 しかし、彼らの王は違っていた。エクレイタ王は、コルデ達の行為を知らず、森の民と友誼をむすぶために、使者を送っていた。マシゥは、王の使者としてやって来たのだ。

 ビーヴァとエビと親しくなったマシゥは、森の民の味方をしたため、コルデに殺されかけた。王の許へ還り、争いを止めるために尽力した。

 ビーヴァはマシゥを援け、そのために、命を落としたのだ。

 今、マシゥは、エクレイタ族の開拓邑にいる。彼がとどまる限り、森の民との友好は続き、将来、共存することも出来るのではと、期待している。


 ――それはいい。そのこと自体は、とてもありがたい。

 ところが、だ。

 マシゥは嘆くのだ……。ビーヴァの死に責任を感じ、己を責めているのだろう、と思う。とにかく、その嘆き方が(キシムに言わせれば)尋常でない。冬の間じゅう、昼も夜も、ことあるごとに哭きつづけた。

 森の民も、死者を悼む。だが、(もがり)を終え、魂喚(たまよ)びの期間を過ぎれば、嘆くのは控える。数年間は、名前を呼ぶことも憚らなければならない。

 彼らの信仰では、死んで霊魂となった者はムサ・ナムコ(現世)を離れ、テティ・ナムコ(神霊の世界)へ旅立つことになっている。生者がいつまでも悲しみ続けては、死者は旅立てなくなってしまう。

 まして、ビーヴァはセイモアに憑依し、テティとなり、この世のちかくに留まることを選んだ。それを、マシゥは知っているはずだった。

 毎日、毎日。己の死を嘆いて泣かれたら、本人がどんな気持ちになるか、想像できないのだろうか……。はじめは申し訳なさそうにしていたビーヴァだったが、やがて、すっかりひるんでしまった。これでは、逢いに行くことも出来ない。民族が違い、文化が異なる、とは言え――


「最近は、すこし落ち着いたと思っていたのになぁ」

《……違うんだ、キシム》

「違うって?」


 ビーヴァは、項垂れたまま、呟いた。


《マシゥは、俺を探していたんだ》


 キシムは、ぎくりとした。


「探すって……。お前の遺体を、か?」


 ビーヴァは、うなずいた。


「それは……まずいな」


 ビーヴァは、もう一度、肯いた。

 キシムの口の中に、苦いものがこみ上げた。


 エクレイタ族の王都から帰還する途中、病に倒れ、凍死したビーヴァは、ルプス(狼)たちの餌食となった。マシゥとソーィエ(ビーヴァの犬)を、助けるためだった。

 のちに、彼の遺体を見つけたキシムとカムロは、ビーヴァの希望に従い、その地に彼を埋葬した。ロマナ湖畔の、美しい土地だ。いずれ、土に還り、木々を育むだろう。

 しかし、マシゥとソーィエは、そのことを知らない。


「ソーィエは、分かっちまうよなあ……」

《ああ。だから……止めて来た》


 低く低く、ビーヴァは応えた。キシムは、彼の横顔を観た。


「マシゥに会ったのか?」

《いや。ソーィエと、話をした。俺を探すのを、やめてくれるように。何とか、解ってくれたよ》

「…………」


 キシムは、半信半疑だった。

 森の民の習慣では、狩人の男が死ぬと、最も親しい犬は(ほふ)られて、一緒に葬られる。

 ムサと犬は近しい。特に、橇の(かしら)となり、狩りの(とも)をする犬は。主人のために働き、時には命を懸けて守り、主人の死後、一緒にテティ・ナムコへ送られる。

 そうしなければ、犬は、あるじの死を受け入れられず、魂を()び続けてしまうからだ。

 ビーヴァは、ソーイエを遺して逝かなければならなかった。死の間際、マシゥを護れと命じた。その命令を守るため、決死の面持ちでマシゥについて行った赤毛の犬を、キシムは憐れんだ。

 ビーヴァは、己に言い聞かせるように繰り返した。


《ソーィエには、俺が観えないから、声だけだったけれど……。わかってくれた、と、思う。たぶん……》

「そうか」


 キシムを腕のなかに入れ、訥訥(とつとつ)と呟くビーヴァは、まるで、幼子(おさなご)が今日の出来事を母親に報告しているかのようだった。キシム自身には子どもを育てた経験はないが、そう思えた。

 キシムは、彼の胸をそっと押して身を離すと、ビーヴァの顔を覗きこんだ。


「大丈夫か? ……もう一度死んだみたいな顔をしているぞ」


 ビーヴァはこれを聞くと、ぎこちなく微笑んだ。眉尻を下げ、困ったような、自嘲しているような苦笑を浮かべる。

 キシムは、軽く嘆息した。――気苦労の多い奴だ、と思う。ムサ(人)がテティ(神)になるとは、こういうものなのだろうか。

 伝説となっているシャムやシャマンは、天神の許へ行ったり、月へ登ったりして、そこで暮らしているという。ラナの母巫女は、祖先の霊たちと一体となり、生前のことはあまり覚えていないと言っていた。

 ビーヴァは、神霊となって日が浅いからかもしれないが……。死んだあとのことは放っておいて、さっさとテティ・ナムコへ逝ける一般の死者たちの方が、よほど気楽だと思えた。


 キシムは、ビーヴァに同情した。気の毒だとは思うが、訊くべきことは、訊かなければならない。


「ラナ様にも、お前は観えないのか?」

《え?》


 キシムの問いに、ビーヴァは、一瞬、目をみひらいた。それから、ゆっくり瞬きをする。


《ラナ?》

「そうだ。今日、ロコンタ氏族長の話が出たときに、オレが訊いたんだ。『ビーヴァは、何て言っているんです?』と。そうしたら――」


 キシムは、じっとビーヴァを凝視(みつ)めた。ビーヴァは、彼女から視線を逸らした。横顔にうかんだ戸惑いを、キシムは見逃さなかった。


「――ラナ様に、言われたぞ。『キシムは、ビーヴァと話をするの?』って」

《…………》


 ビーヴァは、再び項垂れてしまった。やはりと、キシムは思った。


「説明してもらおうか」

 

 キシムは、胸の前で腕を組み、じろりと彼を睨んだ。


「どういうことだ? なんだよ、あの気まずさは」

《……ごめん。キシム》

「謝るな。っていうか、説明しろ。お前たち、いつから逢っていないんだ?」


 しかし、ビーヴァは口をむすび、答えるつもりはなさそうだ。

 青年の抵抗を意外に感じたキシムは、質問を変えることにした。


「ラナ様の巫力に、問題があるのか?」


 ラナは一時期、巫女のちからを制御できず、テティの声が聴こえなくなっていた。またそういうことが起きても、不思議ではない。

 ビーヴァは、首を横に振った。キシムは、舌打ちしそうになり、堪えた。


「契約の問題か? お前は、オレと契約している。オレのマムナ(真の名)も知っている……。その所為か?」

《……そうじゃない。俺は、ラナを守護している。マムナも契約も、かかわりがない》

「じゃあ、何だ?」


 キシムは、苛々してきた。自分が苛々していると、ビーヴァが理解しているのが、腹立たしい。


「逢えると知っていれば、ラナ様は、お前に逢いたがったろう。話をしたいだろう。そのちからもあるのに、出来ないのは変だ。お前……わざと、避けているのか?」


 ビーヴァは、さらに深く面を伏せた。図星だったらしい。

 キシムは、溜息をついた。……まったく。この二人は、どこまですれ違うのだろう。


「どうしてだよ……」

《……俺は、死んでいるんだ》

「その理屈はおかしいぞ」


 やっと反応がかえって来た。小声で答える青年に、キシムの追求は容赦なかった。


「シャム(巫女)がテティ(神霊)と逢えないなんて、何のための巫力だ……。オレとは、逢っているじゃないか」

《キシムは違う。俺が、望んだからだ。……そうじゃない。ラナは――》


 答えかけて、ビーヴァは、にわかに混乱した様子でかぶりを振った。

 途方に暮れた口調になった。


《ラナは……今でさえ。セイモアが狩りに出掛けただけで、取り乱すんだ。俺がいたら、どうなるか……。ますます、離れられなくなるだろう。……だけど、俺は、死んでいるんだ》

「…………」

《俺がすがたを見せて、話をしたら……ラナは、四六時中、俺を呼ぶだろう。セイモアを。……でも、俺は、普通は観えない。死んだムサ(人間)だ。そういうのは、よくないんだ……》


 キシムは、眉間に皺を刻み、この言葉について考えた。すぐには、かえす言葉が見つからない。


 キシムの脳裏に、昼間のラナの姿がうかんだ。セイモアを探して、右往左往していた。若狼の傍をかたときも離れず、世話を焼いていた。

 あれは、ビーヴァがセイモアに憑依していると、知っている所以なのだろう。

 たしかに……ビーヴァの姿がラナに観えたなら、どうふるまうか、予想できなくはない。だが、慣れるのではないか? 今の自分たちは、幽体にならずとも、言葉を交わしているのに――


「勝手だな」


 ――キシムの口調は、自分でも驚くほど暗く、冷たかった。


「お前の望みで、オレとは逢い、お前の都合で、ラナ様からは隠れるのか」

《……悪かったと、思っているんだ》


 ビーヴァは、片手で顔を覆い、ゆっくり首を振った。額帯からこぼれた髪が、頬を隠した。


《死ぬ間際(まぎわ)に、セイモアに憑依なんて、本当は、するべきじゃなかった。でも、間に合わないと思って……。マシゥを救けたかったんだ。ソーィエを》

「…………」

《それをすると、俺は、ケレ(悪霊)に堕ちてしまう。セイモアを巻きこんでしまう……。でも、》

「…………」

《どうしても……キシムに、逢いたかったんだ……》


 話しながら、ビーヴァの声はどんどん小さく、か細くなり、遂には消えてしまった。

 キシムは、小さく嘆息した。それから、彼に近づき、そっと抱きしめた。

 ビーヴァは、きょとんと、眼を瞬いた。


《キシム?》

「ごめん……。お前が、死にたくて死んだわけじゃないってことを、忘れていた」

《…………》

「どんな形であれ、還って来てくれて嬉しかったって。伝えるのを、忘れていたよ……」


 ビーヴァは、何もいわず、彼女を抱きかえした。しがみつくように。

 そうだ。――キシムは、考えた。ビーヴァがケレ(悪霊)にならなかっただけでも、稀有なことなのだ。


 現世につよい思いを残した死者の霊、テティ・ナムコへ旅立てない霊魂は、ときにケレとなる。特に、未練や恨み、憎しみといった負の感情は、(のこ)りやすい。

 ビーヴァは若かった。ラナよりは上でも、キシムより年下で、カムロやエビより、ずっと若い。結婚もしていなかった。過去より未来が多く、将来への夢も、希望もあったはずだ。

 故郷を、母を失い、乳兄妹(ラナ)を捕らわれた。シャマン(覡)の責を負い、(つい)には、自分の生命すらも失う羽目になった。

 巫力のあるビーヴァが、理不尽なできごとに怒り、憎しみ、ケレに堕ちていても、不思議ではなかったのだ。


 ――いまさらのように、キシムは気づいた。

 テティは、本来、自らムサ・ナムコにはたらきかけるものではない。巫覡が霊魂になって身を離れ、やっとまみえることの出来る存在だ。

 テティ・ナムコへも地下の世界へも行かず、ムサ・ナムコを彷徨い、生者に影響をおよぼす霊魂を……ケレ、という……。


「…………!」


 ビーヴァの腕のなかで、キシムは、ぞっとして眼を瞠った。

 マシゥの礼儀どころの話ではない。自分と逢う度、ソーィエと話をする度に……青年がケレと化す可能性に、思い至ったのだ。


「ビーヴァ。お前……大丈夫なのか?」


 改めて、彼に問うた。その声に含まれる不安に、気づいたのだろう。


《…………》


 ビーヴァは顔をあげ、彼女を見た。かすかに、泣きだしそうな微笑を浮かべる。

 そして、すうっと薄れ、消えてしまった。

 キシムは、呆然と立ち尽くした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ