-3 ユラ
男の子をデイシアに預けたベリトは、鍬を片手に再び土砂の始末に出た。
妻の前ではああして豪快なふうを装ったベリトだが、いざ一人になるとあの子のことが気にかかってしまう。
外傷はなくても、子供は病気に弱いと聞く。
数日前まで元気に遊んでいた子供がカゲロウのように儚く命を散らした、という話は小さなダルブ村でも何度も耳にしていた。
押し潰されそうな不安を振り払うように、ベリトは一心不乱に鍬を振るった。
ベリトが帰宅したのは日が暮れる寸前だった。
薄暗がりの中で目を凝らしながらランプに火を灯す。
真っ先に目に飛び込んできた光景に、ベリトは胸をなでおろした。
助け出されてからまだ半日と経っていないのに、男の子は意識を取り戻していた。
泣きも騒ぎもせず、ただ不思議そうにしている。
大人しいその子供はデイシアの布団のそばにちょこんと座っており、ベリトの帰宅に驚いたのか辺りを見回した。
暗い室内に置かれた少ない家具をひとつずつ視界にとらえ、ベリトと妻にも一瞥をくれた。
感情の抜け落ちたようなその瞳は、家具と人を同様に捉えているかのようだった。
「目ぇ覚めたんだな」
ベリトが呼び掛けるも男の子は返事をせず、くりくりとした大きな瞳で彼を見つめる。
男の子はこの辺りでは見たことのない金色の目をしていた。ゆるくウェーブを描く黒い前髪の間から覗く瞳は、闇夜の月のようだ。
「どっか痛いとこはねぇか? ……腹はどうだ? 減ってないか?」
まくしたてるように聞くと、子供は首をかしげた。
再度同じ問いかけをしても反応は変わらない。
言葉を理解していないのかと思い茶碗を見せる。
すると、ぐぅ、と腹が鳴った。
言葉よりも素直な反応に思わず笑みが零れる。
子供はその笑みの理由がわからないのか、きょとんとしてベリトの顔を凝視した。
その頃になると部屋の騒がしさに気づいたのか、デイシアも目を覚ました。
「……あら、目が覚めたのね」
デイシアは早くも目を覚ました男の子に驚いたようだったが、せっせと世話を焼く夫の姿に微笑みを浮かべた。
そんなことなど気にする余裕もないベリトは何か食べるものを、とバタバタと探し回っている。
とはいえ、つい今しがたまで土砂に埋もれていたのだ。
いきなりしっかりとした食事を与えても体が受け付けないかもしれない。
はたと気付いたベリトはいつも妻に与えるのと同じ、白湯の中に白米を少量浸した粥を用意した。
これならば少しくらい胃腸が弱っていても大丈夫だろう。
湯気の立つ椀を子供の前へ出すと、男の子は出来立ての粥を躊躇なくすすった。
その瞬間、男の子の顔が大きく歪んだ。
焼け付くような熱さに椀を放り出しそうになったのを、ベリトが慌てて取り上げる。
「馬鹿野郎! 冷まさないで食う奴があるか!」
「まぁ……可哀想に……」
デイシアはよろよろと布団を抜け出し、水差しの水を子供の口に含ませた。
予期せぬ子供の行動に右往左往する二人の前で、男の子は不機嫌そうなしかめっ面でじっとしている。
ベリトがふうふうと息を吹きかけて粥を冷ましてから口に含んで見せると、子供もそれを真似た。
今度は慎重に椀に口をつけ恐る恐るすする。安全な温度だとわかると、椀を一気に傾けた。
米よりも白湯の方が多い粥はあっという間になくなった。
間を開けずにおかわりまで要求される。
椀三杯をぺろりとたいらげると、子供は満足そうにゲップをした。
小さな子供にしてはよく食べるものだと夫婦は感心しきりだった。
これだけ食欲もあれば、すぐに体も回復するだろう。
よしよし、と子供の頭を撫でていたデイシアの手が、ふいに止まる。
「なにかしら。瘤のようなものが……」
「そりゃあ、瘤だろうな。いくら丈夫とは言え、石がぶつかりゃ瘤くらいできるさ」
ベリトは土砂崩れの惨状を思い出して溜息をついた。
家すらも押し流された中、この子はかすり傷と瘤程度で済んでいるのだ。
いくら運が良いとはいえ、薄恐ろしい気さえした。
外に出ることもできぬほど弱っていたデイシアだが、夜も明けやらぬ時刻に突如として鳴り響いた轟音は聞いている。
聡い彼女のことであるから、大方の事情は察しているだろう。
徒に不安を煽ることはしたくないと考えて、ベリトは自分の畑が土にのまれたことだけは言えずにいた。
収穫を目前に控えていたこともあり、どう説明するのがデイシアにとって負担が少なくなるだろうかと考えあぐねていたのだ。
「……もう三日になりますのね。村の様子はいかがですの?」
もうそろそろ片付いたかしら、と切り出したのは彼女の方だった。
ベリトは返答に困って、ああ、と適当に濁す。
「畑の多い方だったからな、巻き込まれた家が少なかったのは不幸中の幸いだな」
独り言のように零すと、デイシアの顔色が変わった。心細そうな瞳で次の言葉をじっと待ち構えている。
その縋るような眼差しに耐えかねて、ベリトは重い口を開いた。
「……うちの畑もなぁ、片付けてもらってるとこだ」
「そう、ですか……。私もお手伝いできたら良かったのですけれど……」
デイシアは力なく呟いて、咳をした。
あまりの弱々しさに子供は戸惑うような表情を見せる。
「……酷いんですの?」
「全滅だな。また使えるようになるまで、何年掛かるかもわからん」
ベリトは答えながら、隣の女が案じていたことを思い出していた。
彼女の言う通り、稼ぎの当てもないのに食いぶちが増えては、妻も子供も飢えて死んでしまう。
新たな農耕地を求めてよその村へ移り住もうにも、あてになる知り合いがなかった。
「……相談なんだが」
「はい」
「出稼ぎに行ってこようかと思う。子供を育てるにゃぁ金がかかると聞くからな」
自分で引き取ってきた子供を口実にするのは心が痛んだ。
しかし、子供を望んでいたのは妻のデイシアも同じことであり、その子供を育てるために金が必要なのもまた事実である。
「……それで、一人で大丈夫か?」
「一人ですか。この子はどうするおつもりですの?」
満腹になって睡魔が訪れたのか、布団にもぐって心地よさそうに目を細めている男の子に二人が視線を向ける。
ショックのあまり言葉を失ってしまった哀れな子供。
親ともはぐれ、見知らぬ貧しい家に引き取られることになった不幸な子供。
男の子はぱちりと目を開いて、ベリトにまっすぐな眼差しを向けた。
この金色の瞳に、自分たちはどう映っているのだろう。
こんなに小さな体で、握っただけで折れてしまいそうな腕で、何ができるというのか。
まして妻は重い病に蝕まれているのだ。
この状況で家主が家を空けるなど、普通ならできようはずもない。
けれど、畑を失ってしまった今、ベリトに残された選択肢は「出稼ぎ」ただひとつだった。
肩を落とすベリトに、妻は悲しみのため息を漏らした。
「……わかったわ。行ってらして」
デイシアの言葉を受けて、ベリトはしばし考え込んだ。
「こいつに家のことをいろいろと教えなきゃいけないな」
「あなた、その前に……」
膝に手をおいて腰を上げかけたベリトを、デイシアが呼び止めた。
言葉を繋ごうとするが、咳が邪魔をする。
隣で横になった男の子は、彼女が苦しそうに荒い息を洩らすのを不安げに見守っていた。
ベリトは腰を浮かしたまま妻の声に耳を傾けた。
「……この子の、名前」
「ああ、そうだった。名前は覚えているか?」
手のひらを拳で打って、子供の顔を覗き込んだ。
子供はきょとんとして首を横に振った。
「覚えてないのか……」
「それなら、私たちで付けてあげましょうよ」
「それでいいか?」
子供がうなずいたのを見て、ベリトはどかりと腰をおろした。
尻を何度か動かして体を揺すると、眉間にしわを寄せて考え込む。
痰の絡んだ咳をして、デイシアが口を開いた。
「ユーリ、なんてどうかしら」
「健康と繁栄の女神様か。いい名前だな」
男の子の頭をがしがしと乱暴に撫でながら、しかし、とベリトが言葉を続ける。
「男に女神様の名前を付けるのは、なあ……。ユラでどうだ」
「よろしいんじゃなくて?」
デイシアの言葉に続いて男の子もうなずく。
そこに来て、ようやくユラが言葉を理解していることに気付いた。
ユラは何か言おうと口をパクパクさせているが、どうやら声が出ないらしい。
「色々あった後だ。無理するこたぁねぇ」
ベリトなりに最大の気遣いの言葉を投げかけると、デイシアが頬を緩めた。
「さ、ユラ。今日はゆっくり寝て、明日からお父さんにいろいろな事を教えてもらいなさい」
初めて「お父さん」と呼ばれたベリトは、むず痒いような心地になった。
それを隠すためにしかめっ面をしてそっぽを向く。
急く気持ちが無いわけではないが、出稼ぎへ行くのならば他の村人とも話をしなければいけない。
ランプの明かりを消すと、ユラを真ん中に挟んで川の字になって眠った。