-12 クレハさんの一日
クレハの一日は一杯の紅茶から始まる。
朝日の差し込む窓辺で優雅に……。といきたいところだが、仕事が夜の弾き語りのため起床は日没に近い時間だ。
「今日はやけに空が赤いわね。火事でも起きてるみたい」
窓辺の景色を見遣りながら小さく笑った。
夕焼けをそのまま落とし込んだような紅茶と共に軽い食事を摂る。
この時間はクレハにとって最も落ち着くことができる時間だった。
「今日は何かいいことがありそうね」
食事が終わると、夜の公演に向けての調整に入る。
といっても宿を転々とする暮らしをしているため、ピアノはその日の会場となる酒場に着くまで触ることができなかった。
そのぶん歌を重点的に仕上げ、常に自分が納得できる音楽を届けるよう努めていた。
クレハの歌は金を取る目的で聴かせているわけではない。
客はあくまでも酒を楽しみに来ていて、気が向いたらチップをくれる。
その関係がちょうど良いのだ。
中にはチップの代わりに酒や料理を与えてくれる客もいるから、ご相伴にあずかることで会話を交わしながら同時に腹も満たすことができる。
呑みの席が好きなクレハにとって、この仕事は天職と言っても過言ではなかった。
歌声の調整が終われば、次は化粧だ。
夜の街でも目立つように、くっきりとした印象に仕上げる。
特に歌っている時の口元は視線が集まりやすいから、重点的に丁寧に仕上げるようにしていた。
努力の甲斐もあり、一部の飲んだくれの間で「悪魔的な魅惑」やら「魔性の女」という存在として認知されはじめている。
初めて訪れる街でも自分を知っている人に出会った時は、クレハもいたく感動したものだ。
お気に入りのケープを羽織ると、日が沈んで活気を増し始めた夜の街へ踏み出した。
クレハは公演の前、必ず酒場の周りを散歩するようにしていた。
街の空気に触れることで会話の糸口にもなるし、ナンパしに来た男性を逆に酒場に誘って集客することもできるからだ。
今日も二人、三人と声を掛けて色香を振り撒く。
ピアノが置かれているような酒場はそこそこ値が張ることが多いから、十人に声を掛けて一人か二人来てくれれば上等な方だった。
「……そろそろ次の街を目指す頃合かしらね」
声を掛けた相手の反応が思わしくないので、さすがのクレハも思案顔になる。
そんな時に頭をよぎったのは先日会った二人の若者だった。
「あの坊やたち、また来てくれないかしら?」
頼り気のない黒い癖毛の青年と、その保護者のような金髪翠瞳の青年。
先日たまたま巡り会った二人の青年はクレハの記憶に強く残っていた。
「……っと、すみません」
通りを曲がった時、行き遭った青年とぶつかりそうになった。
大きな荷物を抱えた彼は深々と頭を下げている。
「あなた――」
見覚えのある黒い癖毛。顔を上げた青年は目を丸くしていた。
零れ落ちそうな金の瞳が震えながらクレハの姿を映している。
「クレハさん?」
「偶然ね。……それとも、私に会いに来たのかしら」
驚きを誤魔化すために冗談めかしてユラをからかう。
ユラは一瞬迷ったように視線を彷徨わせて、重い口を開いた。
「僕、家出してきたんです」
「家出?」
「……仕事を放り出して逃げてきた、って言った方が正しいかな」
そう、と小さく声を漏らして、クレハは思案する。
「行くあてはあるの?」
「それが、ないんですよね」
今の今まで職場の寮にいたということは、住むあても働き口もなにもないはずだ。
下手をすると食料も持っていないかもしれない。
ポリポリと頬を掻きながら苦笑するユラを見て、クレハは心を決めた。
「今ね、私のアシスタントを探していたところなの。ちょうどいいからユラ、あなたがアシスタントになりなさい」
「え……、でも……」
「アシスタントって言ったって、大したことをするわけじゃないわ。それに、住むところも食べるものも何も考えなくていい。
どう? こんな好条件、探しても見つからないと思うわよ?」
戸惑うユラを強引に説き伏せる。
これまでも数えきれないほどの男を酒場に誘ってきたクレハだ。
滑らかなその口上はまさにプロだからこそなせる技だった。
そして、返事を聞く前にユラから荷物の詰まった鞄をかすめ取り、ひとまず宿を目指すことにした。
唯一の財産を奪われたユラはあたふたしながらもクレハの後を追う。
「クレハさんっ。アシスタントって、一体何を……」
「アシスタントは助手よ。私のステージの手伝いと、荷物持ち」
「それじゃクレハさんに荷物を持たせちゃ駄目じゃないですか」
状況に付いて来れていない様子だったユラが、慌ててクレハの手から荷物を奪い返した。
それを受けてクレハはにこりと笑った。
「ありがとう。アシスタントのユラ」
「……あっ」
まんまとペースに乗せられたことにユラが気付いた時には、既に主従関係が出来上がっていた。
これにてEpisode2完結となります。
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