-10 幼い日の悪夢
少年の意識は朦朧としていた。
割れるような頭痛と全身にまとわりつく倦怠感。
意思とは無関係に、身体が小刻みに震えた。
震えを押さえようという思考すら少年にはなく、打ち捨てられた人形のようにぐったりと横たわっていた。
気絶するように眠りについて、苦痛のために意識を覚醒させられる。
拷問を受けているような苦しみに、呼吸すらままならない。
喘ぐように息を吸い込んだ時、涙を浮かべた母親の顔が目に入ったような気がした。
瞬きをして再び母親の姿を視界に収めようとするが、靄がかかったような状態のまま景色が変わらない。
母親に触れようと腕に力を込めても、鉛のように重い身体はぴくりともしなかった。
――あれは病の見せた幻覚だったのかもしれない。
夢か現か、それすらわからぬまま、少年は一分一秒が永遠にも思える地獄を味わい続けた。
「――……ル……ンソ、アルフォンソ。私がわかるかい?」
気だるさは残っているが、呼吸は幾分か楽だ。
うっすらと開いた瞳に映ったのは白衣の男。
眼鏡越しに優しそうな眼差しが向けられている。
白衣からは消毒液の臭いがした。
「せ、ん……せい?」
乾いて張り付いた喉を必死で震わせて問いかけに応えながら、少年は医師を視界にとらえた。
しばらくぶりに意識もはっきりとしている。
枕元に寄り添っていた母親が、周囲を憚ることもなく大粒の涙を流しながらむせび泣いていた。
少年が意識を取り戻したことを、いたく喜んでいるらしい。
静かな心持でその様を見つめていると、次第に自分が置かれていた状況が理解できてきた。
――僕の名前は、アルフォンソ。アルフォンソ・ミレット。来週で九歳になる。
白衣を着てるのがケヴィン先生で、その隣がお母さん。
病気で具合が悪かったけど、今は少し良くなったみたい。
思考を手繰り寄せ、噛みしめるように丁寧に整理する。
地獄のようなあの具合の悪さはすっかり消え去っていて、今は喉の渇きの方が辛いくらいだった。
ケヴィン医師はアルフォンソの渇きにいち早く気付いて、体を起こすのを手伝ってくれた。
水を一口飲み込むと、みるみるうちに体の深いところへ吸収されて生き返った心地になる。
あっという間に水を飲み干したアルフォンソを見て、更に母親の涙の勢いが増した。
アルフォンソの兄が腕を骨折して帰ってきた時も、母親はここまで取り乱したりしなかった。
まだ幼いアルフォンソにも、自分はよっぽど大変な病気だったんだろうと想像がついた。
現に、アルフォンソは高熱にうなされて死にかけていたのだから。
「……ねぇ、お兄ちゃんは?」
よちよち歩きの妹が母親の異変を心配してアルフォンソの寝室へ入ってきた。
その姿を見た時に兄のことを思い出した。
たしか、自分が体調を崩すよりも前に兄が不調を訴えていたはず。
先に回復したのなら様子を見に来てくれてもいいのに。
不満に思ったアルフォンソが問いかけると、母親の嗚咽が一層大きくなった。
アルフォンソの意識が回復して真っ先に行われたのは兄の葬儀だった。
父親が大きな会社を経営しているためか、ひっきりなしに見知らぬ大人たちが家を出入りしている。
まだ完全に回復しきっていないアルフォンソは、両親が弔問客の相手をする間奥の部屋で休んでいるように言われた。
そこには、オマケのように三歳の妹がついてきた。
父親の話によると町では熱病が流行し、多くの子供が命を落としたという。
アルフォンソは薬が効いて奇跡的に助かったが、兄の方は手遅れだった。
今もまだ病魔が町に蔓延っており、特に身体の弱い子供や年寄りは外出を控えるように通達が出ているらしい。
だから、友達が多かった兄の葬儀なのに友人の姿はない。
兄が病に苦しむ姿をほとんど見ていないアルフォンソには実感が湧かなかった。
いつの日か、何食わぬ顔をした兄がひょっこりと帰ってくるような気さえしている。
あなたはまだ小さいからわからないのね、と廊下で鉢合わせた叔母に言われた。
叔母の目元はうさぎのように真っ赤で、声はボロボロだった。
一緒にはついて来れなかった従姉のぶんも泣いているのだろう。
母親は目に見えてやつれていたし、普段は商人として忙しく飛び回っている父親は生気を失って呆然と椅子に腰かけていた。
二人とも、弔問客へ機械的に「わざわざありがとう」と感情のない言葉を繰り返している。
大人たちの異様な様子がアルフォンソを落ち着かなくさせた。
部屋に逃げ帰ると、幼い妹だけは周囲の悲しみなど露知らずといった風に積み木遊びに熱中していた。
この子はまだ「死」というものを理解していないのだ。
それは、アルフォンソにとって大きな救いだった。
妹の面倒を見ていたアルフォンソは重苦しい空気に居ても立ってもいられなくなり、妹よりも熱心に積み木を積んだ。
あえて真ん中に三角形を挟み、バランスを取りにくくしてからその上に積み木を重ねる。
グラグラと揺れる積み木の上に次の積み木が乗るたび、妹はキャッキャと歓声を上げた。
結局、アルフォンソが兄の葬儀を見ることはなかった。
兄の葬儀から数日、家にアルフォンソと同じくらいの年頃の少年がやってきた。
黒い癖毛が特徴的なその少年は、口が利けないのか常にうつむいていた。
声を掛ければ顔をこちらに向けるものの、近寄ってきたり遊びに混ざったりしようとはしない。
父や母が声を掛けてもほとんど無反応だ。
兄とは正反対の性格で、どうにもとっつきにくい。
妹も同じように感じているようだった。
「お前の新しい弟だ。仲良くしろよ」
兄を失ったことさえまだ受け入れられていないのに、弟だなんて。
それも、ブロンドの髪の家族の中にたった一人の黒髪の子。
愛想だって悪いし、仲良くなんてできるもんか。
「変な子」
それがアルフォンソが抱いたユラの第一印象だった――。





