〈2〉先生の説明
アーディたちの担任であるディルク先生は、丸眼鏡を装着した童顔であるが、学園長を祖父に持ち、なかなかに優秀な青年である。だからこそアーディとエーベルという、学園内でもトップクラスに扱いの難しい生徒を押しつけられたのだろうけれど。
黒板に、カツカツと先生が書いた文字は『防災訓練』である。先生は振り向くと、教壇に手を突いた。
「はい、明日は年に一度の防災訓練の日です。急な災害の時には慌てず騒がず、落ち着いて対処することが求められます」
年に一度、防災訓練をしているらしい。一度やればどう動けばいいのかわかりそうなものだが、繰り返し行うのは慢心を防ぐためだろうか。災害はいつでも起こるのだと。
「まず、寮の各々の部屋で自習してもらいます。自習用の冊子を解きながら部屋にいてください。訓練が始まるベルが鳴ったら、解除のベルが鳴るまで部屋の外に出てはいけません。開始は午後六時から八時の間です」
「……開始時間、妙に遅くないか?」
先生の説明を受けながら誰かがぼやいた。確かに、もう少し早い時間にすればいいのにと思わなくはない。しかし、その時間にならないと先生の手が空かないとか、何らかの理由はあるのだろう。
その時、エーベルが嬉々として手を上げた。ディルク先生は笑顔だが、明らかに危機感を持ってエーベルに声をかける。
「はい、シュレーゲル君、何かな?」
エーベルは立ち上がる。
「先生、その自習用の冊子が終わったらどうしたらいいですか? 後は自由でいいですか?」
エーベルは変人だが、同時に天才でもある。こんなにふざけているのに、成績は常に学年トップだ。皆の学力に合わせた冊子などすぐに終わってしまう。
ディルク先生の頬を一筋の汗が流れ落ちた。
「シュレーゲル君、追加の問題集がほしいってことかな? いやぁ、熱心で先生も嬉しいよ!」
「へぇ?」
エーベルが気の抜けた声を出した。ディルク先生が無理やり、なんとかして軌道を捻じ曲げたのにアーディは気づいたが、ただただ先生が気の毒に感じられた。
ディルク先生もエーベルが部屋でじっとしていないことくらいわかっているのだ。どうやって大人しくさせておこうかと悩んでいるに違いない。
今度はヴィルが手を挙げる。
「はい、クラス長」
ヴィルが立ち上がり、エーベルは渋々座った。
「防災訓練って、火災とか地震を想定するんですか? 水害ではないですよね?」
このアンスール学園には学園の敷地を覆う結界があり、外部からの接触は難しい。そうなると、内部で発生した災害に対する訓練なのだ。川や泉はあるものの、海はないし、気候も常春に調節されていて豪雨などはまずない。ヴィルが言うように水害はなさそうだった。
ディルク先生はうなずく。
「そうだよ。今回は地震を想定して、それによる火災がもしかすると追加になるかも。これもね、直前に変更になるかもしれないから、先生たちもまだ詳しくは言えないんだ」
「わかりました。ありがとうございます」
直前に変更になることもあるらしい。災害を想定した訓練なのに。
ここにいる生徒たちが、今までどの程度そうした訓練を受けたのかは知らない。
アーディの場合、城には災害でも敵国の攻撃でも防げるように魔術師団がいるわけで、そんな訓練が必要だったことはないのだ。
逆に言うなら、この学園にはその備えがないのか。結界で学園を覆っているのに、あれは災害には弱いのか。
それは知らなかった。防災に対する備えもちゃんとできているものとばかり思っていた。
ピペルはフンフンと鼻を鳴らした。
「あれですにゃん。地震が起こったら机の下に潜ったりするんですにゃ。ボク、大昔に見たことありますにゃん」
大昔というのがいつなのかは知らないが、多分相当昔だろう。
エーベルが首を傾げていた。
「机の下? 潜る……」
まったくもって意味がわからない。アーディも、何故机の下に潜るのか解せない。
災害が来たらその場から逃げるか、防護の魔法陣を組むかした方がいいはずだ。
「まあ、その対処法は古来より実践されてきたけど、それは最終手段かな」
と、ディルク先生は笑った。
笑っていたわりに、どこか気が張っているような気がした。それは、エーベルが素直に部屋に籠ってくれないだろうから、そこを心配しているのかと思った。
しかし、防災訓練だ。訓練ということは、本当の災害ではない。
不真面目な生徒が数名、自習をサボって外へ繰り出すことも予測される。それがエーベルであると嫌なのだろう。
何せ、少し前に熱に浮かされたエーベルの遠慮のない攻撃に耐えたディルク先生だから、エーベルの暴走はこりごりなのだと思われる。
気の毒だと、アーディは若き担任にひたすら同情した。