〈11〉強者
元気なレノーレの後をアーディがついていく。少し苦しげにしてしまったせいか、レノーレが何度か振り返った。
「僕のことは気にしなくていいから。ディルク先生が大変だし」
なんとかそう答えると、レノーレは階段で首を軽く揺らした。
「ディルク先生が? 先生も魔風なの?」
「そうじゃない。エーベルの相手をしてくれてるから」
「エーベルの相手って……」
その時、ドン、ズズズ、とまた寮が揺れた。
「わ! 何よ、今の!」
「エーベルだろ……」
レノーレはトランス状態のことを知らないようで、ただ顔を引きつらせていた。
「わかったわ。急ぎましょ」
と、軽やかに残りの段を駆け上がる。アーディは痛む筋肉に鞭打って、なんとか急いだ。
すると、寮の廊下はなかなかの状況であった。まず、窓という窓がすべて開いていた。けれど、窓ガラスは一枚も割れていない。特殊なガラスを使っているのだろう。ただし、廊下に点々とあるランプは割れて砕け、窓の桟はひしゃげて見えた。壁には焼け焦げた跡もある。
カティ先生は相変わらずへたり込んでおり、ディルク先生はさっきよりも肩で息をしていた。エーベルはというと、あまり疲れを感じていないふうであった。体を揺らめかせながら浮かんでいる。エーベルを取り巻く風や雷は消えていた。
「……何あれ?」
レノーレが顔をしかめた。
そうとしか言いようもないだろう。アーディも深々とため息をついた。
「魔風の影響でトランス状態だとか」
「うっわぁ、迷惑!」
バッサリである。しかし、この場合、エーベルのせいとも言い難いのだが。
カティ先生が座ったままレノーレに言った。
「レノちゃん、来てくれたの? お薬も拾ってくれたのね」
「はい。この薬って、やっぱり飲み薬ですか?」
「そうよ。即効性があるから飲ませたらもうバッチリ」
「……どうやって飲ませるんですか?」
レノーレのツッコミは的確であった。正直、近寄りたくない。今のエーベルは見境がなさ過ぎる。
カティ先生はなんとなく目を逸らした。頼みの綱はディルク先生だろうか。
「もうちょっとしたら疲れて落ち着くかなぁって思うんだけれど。その薬、空気に触れるとダメになるから、瓶から出したらすぐに飲ませてね」
カティ先生が転がる瓶に薬を入れてきたのは、ただの嫌がらせではなかった。理由はあったらしい。
ただ、開けたらすぐに飲ませないといけないというのも厄介な代物だ。エーベルが疲れるのを待つうちにこっちが防戦で疲れて潰れる。
「ここは思いきって懐に飛び込むしかないかしら?」
レノーレが嘆息する。魔法陣を完成させる隙を突けば不可能ではないかもしれない。けれど、エーベルは速い。天才美少年魔術師と自称するエーベルは、ツッコミどころは多いものの、天才であることは残念ながら間違いないのだ。
「先生、手加減してないでぶっ飛ばしていいんですよ」
などと、レノーレは容赦のないことをディルク先生に言う。疲弊したディルク先生は顔を引きつらせた。
「そういうわけにはいかないよ。シュレーゲル君だって大事な生徒なんだから」
そんな優しいことを言ってくれる。
レノーレは笑ったのか、少しだけ表情を緩めた。そうして、伸びているピペルをアーディに押しつけた。それから、神妙な顔になる。
「アーディ。しばらくの間、目を瞑っていて」
「え?」
「いいから」
強くそう言い、レノーレは小瓶を白衣のポケットに押し込んで廊下に踏み込んだ。
「危ないよ!」
ディルク先生が大声を出した。
今のエーベルは見境ない。普段はシンユーだとか言ってまとわりついてくるアーディにも容赦なく魔術を浴びせるだろう。それは、幼馴染のレノーレであっても変わりないはず。
あれは、いつものエーベルだと思ってはいけない。
エーベルはレノーレが動いた途端、彼女に向けて腕を振り上げた。その指先が赤く光る。
しかし、レノーレは素早かった。本当に、一瞬、消えたのではないかと思った。レノーレは瞬時にエーベルの背後に回ったのだ。エーベルがとっさに振り向くも、その時すでにレノーレはエーベルの寝間着の胸倉をつかんで――投げた。
本当に、エーベルの体は宙を回って背中から床に叩きつけられた。グッ、と鈍い声を漏らしたのは、多分息が詰まったのだろう。レノーレは素早く小瓶の蓋を親指で弾き、中のタブレットを出して、それをエーベルの口に放り込んだ。そうして、口を押さえ込む。
「カティ先生、お水ください!」
「りょ、了解~」
カティ先生は魔法陣を描き、レノーレが手にしている小瓶を水で満たした。レノーレはそれをエーベルの口に容赦なく注ぐ。吐き出さないよう、また口を押えた。その上、レノーレは仰向けのエーベルの胸に乗って動きを封じていた。
正直、むごい。病人だと思われていない。
あそこまで手荒な飲ませ方があるかと思うほどにはむごかった。
エーベルに残された選択肢は、口いっぱいの水を飲むことしかなかった。エーベルはどうやら、むせながらも薬を飲んだらしく、見る見るうちに大人しくなった。薬には睡眠効果もあるのか、寝たのかもしれない。
ふぅ、と息をついたレノーレは、さすがに病人相手に自分の手荒さを少しくらいはマズイと思ったのか、エーベルの頭を自分の膝に載せた。そこで、自分をじっと見ているアーディに気づいた。その途端、顔色が変わった。
「目を瞑っててって言ったじゃない!」
「いや、だって……」
「もう忘れて! 今すぐ忘れて!」
その声でアーディが抱えたピペルがハッと目覚めた。そうして、伸びたエーベルを見つけ、ひどく低い怨嗟の声を漏らした。
「ぐぎぎ……! エーベル様はレノ嬢ちゃんの膝枕。ワシはまたしても男の腕の中。今日ほどエーベル様を憎々しく思った日はないわい」
さっきまでレノーレに抱かれていたのだけれど、そこだけ記憶にないのは、別にアーディのせいではない。