〈7〉トランス
アーディがベッドの上でうつらうつらしていると、その眠りを妨げるためとしか思えないような轟音がした。
音は近い。飛び起きたアーディは、ベッドから渋々抜け出した。
万全の状態まで回復したわけではないけれど、気になって寝ていられない。あの音がエーベルの仕業に思えてならなかった。
安静に――とは言われているものの、この状況で寝ていられるはずもない。丈の長いシャツの形をした寝間着姿のまま、アーディはのそのそ部屋を出る。
すると、どういうわけだか廊下に風が吹き荒れていた。寒い。
窓が開いているのかと思ったら、むしろ風が窓を押し開けたように見えた。廊下の突き当り、両開きの窓がバチン、と大きな音を立てて開く。そこへ風が吹き抜ける。
アーディは思わず、強風に煽られながら自分の部屋の扉に捕まった。その時、そんなアーディにぶつかったのは、黒い毛玉――目を回してのびたピペルであった。そのまま風に飛ばされていきそうだったピペルを、アーディはなんとかつかんだ。ちょっと毛が抜けたけれど、気を失っているので気づいていない。ピペルを小脇に抱え、アーディは風の吹く方になんとか目を向けた。
そこには、ディルク先生の背中があった。ローブの裾を風にはためかせている。アーディが出てきたことに気づいたディルク先生は素早く振り返った。
「ああっ! バーゼルト君、危ないから部屋から出ないようにっ!」
それだけ言うと、ディルク先生はまた正面に向き直った。その背中にはどうにもゆとりがない。
何故学生寮が危ない場所と化してしまったのだろうか。ピペルが目を回しているのもどういうわけか。
安静にしていたいけれど、何が起こっているのか知らずにいるわけにもいかない。アーディは壁伝いに廊下を進んだ。
そして、ディルク先生の正面、廊下に立っているエーベルを発見した。アーディと同じ寝間着で、髪は束ねずに風になびかせている。エーベルは風をまとい、足元は少しばかり浮いているように見えた。その目が据わっている。いつものふざけた様子はなく、ぼんやりと浮かんでいる。
「せ、先生、あれは……」
思わずアーディが問うと、ディルク先生は振り向かずに言った。
「あれは、魔風をこじらせた症状で……かなり条件の難しい、特殊な症例だからまさかとは思ったんだけど、さすがと言うかなんと言うか……。天分と呼ばれるトランス状態なんだ」
「あれ、エーベルの意識はないんですか?」
「幻覚でも見ているのか、さっきから攻撃的なんだ。加減をしてくれない。他の生徒の部屋の扉は開かないように寮長と一緒に外からロックしたんだけど、バーゼルト君の部屋の鍵だけちょっと複雑で、ロックが甘かったな……。バーゼルト君、頼むから部屋に戻ってくれないか? 危ないから」
それは危ない。間違いなく危ないのだけれど――おちおち寝てもいられない。
アーディはため息交じりにそう訊ねていた。
「どうしたらその状態から回復するんですか?」
「ごめん。先生にもよくわからないんだ。一応、寮長にカティ先生を呼びに行ってもらったんだけど。ほら、何かあってからじゃ遅いから、とにかく避難して」
アーディがここにいるとディルク先生も困ってしまう。早く部屋に戻らなくてはと思うけれど、あの状態のエーベルが気にならないわけがない。
しかし、体調の優れないアーディがいても足手まといだ。アーディに何かあっては、ディルク先生もエーベルも後々面倒なことになってしまう。
避難しなければと思うけれど、足が縫いつけられたように動けない。
エーベルの起こす風はアーディにも容赦がなかった。寝間着の隙間という隙間に風が入り込む。寒さに身震いするも、風はやまない。
そんな中、ようやくカティ先生が駆けつけてくれた。慌ただしい足音だ。
「ディルク先生! 遅くなって申し訳ありません!」
アーディに対応していた時よりも数段歯切れのよい口調であった。童顔に変わりはないけれど、表情も幾分キリリと締まっている。けれど、その目がアーディに向いた瞬間、零れそうなほど見開き、そうして操り人形のように顎をガクガクと動かした。
「こここ、これはバーゼルト君! 本日はお日柄も良く――っ」
なんかもう、面倒くさい。
申し訳ないけれど、アーディの素直な感想はそれに尽きる。
ディルク先生は突風によろけながら叫んだ。
「カティ先生、これからどうしたらいいですかっ?」
その声でカティ先生はハッと我に返った。長い白衣のポケットから小さな小瓶を取り出す。
「この薬を飲ませてください! それで症状は落ち着きます!」