〈5〉魔風
ふむ、とひと声漏らしたカティ先生は幾分落ち着きを取り戻したように見えた。その目には知性の欠片らしきものも見える。
そこでアーディはティルピッツという名を改めて思い出した。
――ティルピッツ。王族の典医を務める一族がティルピッツといった。アーディが知るのは厳めしい爺さんばかりであるけれど、あの誰かの子だか孫だか、血縁ではあるのかもしれない。
しかし、レノーレがいるので余計なことは訊けない。
カティ先生はふむふむ、とまたしてもうなずくと、手を下ろしてひとつため息をついた。
「で――っ」
今、明らかに『殿下』と呼ぼうとした。アーディが若干目を細めたせいか、カティ先生は口を押えて狼狽えた。
「で、ででで――でも、でもです、でも!」
「……先生」
レノーレの顔に憐みが浮かぶ。きっとカティ先生は、保健室に駆け込んできた生徒数が多くて疲れてしまったのね、とそんなふうに考えているのが見えた。
カティ先生はこほん、とわざとらしく咳をすると、アーディの目から微妙に視線を外しつつ言った。
「バーゼルト君も魔風ですね」
「れ?」
そんな風邪の種類があったのかと、アーディはカティ先生の言葉を待った。
「ええ。宿主の魔力に反応して菌が入り込むんです。魔力の低い宿主でしたら比較的に早く完治するのですが、高い魔力を持つ相手だと症状は酷くなります。ただしこれは十八年ほど前に流行った風邪でして、その頃に一度かかっていると、免疫ができてもうほとんどかかりません」
十八年前となると、産まれていないアーディに免疫はない。ディルク先生などはすでにかかっているのか平気そうだった。このカティ先生もどうやら過去にかかったのだろう。見た目は十八歳以上に見えないけれど。
「うーん、でもこの菌はもう死滅したとされていたんですけど、まだ残っていたんですねぇ」
などとカティ先生は呟きつつ、薬を出した。小さな赤い紙に包まれた薬だ。その紙には学園の紋章が刻まれている。魔術で精製した薬で、学園がしっかりと害がないと認めた代物だということだ。
「これを三日間、朝晩飲んで安静にしていてください」
「……ありがとうございます」
ようやく校医らしくなったカティ先生から薬を受け取ると、アーディは軽く頭を下げた。
しかし、その途端にカティ先生はまたおかしくなった。
「べべべべ、別に、そんな頭を下げて頂くほどの仕事はしておりませんので、そそ、そう頭を下げたりなさらずに、どうか、どうかっ」
そういうのをやめてくれと言いたい。レノーレが不審そうに見ている。
それでもレノーレはもう突っ込むのをやめたらしい。アーディにそっと微笑む。
「アーディは優秀だから、ちょっと症状も強く出てるみたい。でも、薬を飲んでちゃんと休めば大丈夫だからね。教室にはもう戻らずに寮の部屋に戻ったら? 一人で行ける?」
このまま教室に戻ったら、また誰かに魔風をうつしてしまう。レノーレが言うように、寮に直行した方がよさそうだ。
「それくらいなら大丈夫だ。じゃあ、休ませてもらう」
「先生には連絡しておくから。お大事にね」
と、レノーレはアーディを見送った。ついてくるかと思ったけれど、レノーレは責任感が強いから、今ここを離れるのは気が引けるのだろう。私情に走らないところが頼もしい。
この体調不良の原因もわかった。ヴィルが軽く済んで、アーディがこじらせたわけにも納得が行く。
ついでに言うなら、あの取り巻き連中がそろって元気なのも。
ヤツらの魔術学の成績は、常に見るも無残なのだ。フィデリオもなかなかにつらそうだった。
つまり、成績優秀な生徒たちがこぞって保健室に駆け込んでいたと言ってもいい状況であった。
嫌な風邪があったものだと、アーディは寮に戻ってすぐに眠った。
自分の具合が悪かったせいで、アーディはすっかり忘れていたのだ。レノーレもカティ先生の手伝いがあるから、きっと飛んでしまっていたのだろう。
この学園内において、十八歳以下の魔力が高い生徒。
残念ながらその筆頭とも言える自称天才美少年のことを少々失念していた。
それを思い出したのは、薬を飲んで少し病状が落ち着いた翌朝のことである。