〈4〉カティ先生
「あたしもちょっと前まで風邪ひいてたのよ。それが治って免疫ついただろうし、カティ先生が手伝ってって言うから」
そういうことらしい。そう言われてみると、このところレノーレと顔を合わせていなかったかもしれない。
レノーレはアーディの額に手の平を当てる。その手がヒヤリとして感じられた。
「あら、結構熱が高いわ。アーディ、大丈夫?」
心配そうにアーディの顔を覗き込むレノーレに、アーディはなんとかやせ我慢でうなずく。
「エーベルは今日、初めて授業を休んだんだ。もしかすると、あいつも……」
そのひと言に、レノーレはぎくりとした。
「え? ほんと? そんなことがあるのね。ピペル可哀想」
そっちかと突っ込みたくなるけれど、多分ピペルも可哀想な目には遭っている。間違いではない。
そんな会話をしていると、カーテンの裏から高い声がした。
「レノちゃんどこ~? 手伝ってぇ」
まるで女児のような声であるけれど、一年生が先輩であるレノーレをちゃんづけで呼ぶとは考えにくい。少なくとも三年生以上ではあるのだろう。
しかし、アーディのその予想は見事に外れた。
「はーい、カティ先生」
先生らしい。幼い声であるけれど。
レノーレは名残惜しそうに、渋々立ち上がった。
「じゃあ、アーディ、もうしばらくだけ待っててね」
軽くうなずいて見送る。レノーレは白衣の裾をひるがえしてカーテンの裏へ消えた。
その後、フィデリオがアーディを見る目つきが余計に厳しくなった。いや、他の連中の視線はもっと痛い。刃物のようにグサグサと刺さる。
アーディはもう、項垂れてひと言も発さず順番を待った。
そうこうしているうちにフィデリオが呼ばれ、そうしてアーディの番になった。カーテンの裏からさっきの幼い声がする。
「は~い、次の子入ってぇ」
アーディはその幼い声に引っかかりつつも、失礼しますと断ってカーテンの隙間から囲いの中に入った。すると、レノーレのそばで丸椅子に座って何かを書き込んでいる女性がいた。
背は多分かなり低い。黒髪を三つ編みにしていて、眼鏡をかけている。
先生なのだから、少なくともアーディよりは年上だろうに、同級生くらいに見えた。恐るべき童顔だ。担任のディルク先生も若く見えると思っていたけれど、この校医に比べたらまだ大人に見える。レノーレ以上に白衣もぶかぶかである。
校医は皆からカティ先生と呼ばれていた。フルネームはなんだったか。
大人の女性が履けばセクシーなはずのタイトスカートも、残念ながらブカブカである。
カティ先生はアーディが入ってくるなり、ヒィッと悲鳴を上げて椅子から飛び降りた。――そこまで怖い顔をしていた覚えはないので、多少傷つく。
しかし、そういうことではなかった。
「アアア、アーディ=バババ、バ、バーゼルト君ですねっ!」
壊れたオモチャのような人だとアーディはぼんやり思った。
「はぁ」
体調が悪いこともあり、ため息のような返事が零れる。先生に対するには不敬なのに、カティ先生は咎めることもなかった。
椅子から飛び降りて直立したまま、アーディを見上げる。
「おはっ、お初にお目にかかりますっ! カティンカ=ティルピッツですっ!」
話すのは初めてだけれど、何故ここで自己紹介から入るのやら。
これにはレノーレも驚いていた。
「カティ先生、どうしたんですか? 早くアーディを診てあげてください」
と、レノーレはアーディをカティ先生の前の椅子に座らせてくれた。カティ先生はヒュッと息を吸って、そうしてようやく丸椅子の上に戻ってきた。
しかし――
「まままま、前、前を開っ、開いてくださ……いぃ」
泣きそうな顔をしながらそんなことを言った。しかも、聴診器らしき透明な石のついた器具を持つ手が、尋常ではなく震えている。
優秀でなければ学園の校医になどなれないだろうけれど、今、この時に彼女の優秀さは微塵も感じられない。
「ほ、ほんとに先生、どうしたんですか……」
レノーレもさすがに顔を引きつらせていた。けれど、アーディはこの時点になってようやく気づいた。
この校医、アーディの身分を知っているのだ。学園の教員で、それも生徒の健康を管理する校医なのだから、知らされていないとは考えにくい。
いくら普段から上流階級の子女を相手にしているとはいえ、王族を診るのは初めてなのだ。それでこうも動揺している。もしヘマをしたら首が飛ぶとでも思っているのだろうか。
それに気づいた瞬間、アーディの方も気が気ではなくなった。この狼狽振りではぺろりと失言しそうに見える。よりによってレノーレにバラすとかやめてほしい。
エーベルに正体が知れたら、後が怖い。学園生活はまだまだ先が長いのだから。
そんなわけで、診察中は互いに冷や汗ダラダラであったのだった。