〈3〉保健室へ
そして、アーディは授業にも身が入らず、徐々に目が回るように感じられ、その日の授業をリタイアすることにした。
昼休み、よろよろと保健室へ向かおうとすると、そんなアーディをヴィルが支えに来てくれた。
「大丈夫? もうちょっと寄りかかっていいからね」
華奢なヴィルに体重をかけたら潰れてしまう。それがわかるから、ほとんど気休めだ。それでも、ヴィルの健気さが心に響く。
かすれた声でありがとうとつぶやいたけれど、こんなに近くにいても届かないほどの声だった。
保健室は校舎一階の西側。
アーディがここへ足を踏み入れるのは、入園以来初めてのこと。
アーディよりも先にヴィルが保健室の扉を叩いた。
「失礼します」
そう断って扉を開けると、保健室の中は少々混雑していた。本当に風邪が流行っている。全学年の生徒が数名ずつ、狭い保健室にひしめいていた。入った途端、ムッとこもった熱気を感じる。
「ヴィル、もういいから戻ってくれ。助かった」
ここに長居して、軽くしかかかっていないヴィルがまた風邪をぶり返してもいけない。アーディはさっさとヴィルを保健室から追い出した。
「……お大事にね」
ヴィルはそれでも名残惜しそうにアーディを一度振り返った。アーディはこの時だけはシャンと背筋を伸ばして、たいしたことないというアピールをした。そうしないと、ヴィルが余計に心配してしまうから。
保健室の扉を締め、ヴィルの姿が見えなくなると、途端に脱力してしまったけれど。
よろよろと壁際を進み、保険医のいるところまでできた列の最後尾に並んだ。ぺたりと床に座り込む。
こういう時、身分を大っぴらにすれば先に診てもらえるのかもしれない。王子を後回しにしたことを保険医は叱られるだろうか。しんどいのは皆同じだから、そんなことをしたらアーディの方が父王に叱られるだけなのだが。
逆に言うなら、王族たるもの、体調がいかに優れずともそれを面に出すなと言われて育った。王族だと周囲が知らないからこそ、こうしてぐったりしていても許されるのである。いいこともあるものだ。
しかし、こう体調が悪いのはいつ振りだろう。この風邪はなかなかに強力なようだ。
ひたすらにアーディがぐったりしていると、前に並んでいた誰かがゴホゴホと言いながら話しかけていた。それに気づいてアーディはハッとした。
「――君、バーゼルト君」
それは、隣のクラスのクラス長、フィデリオだった。容姿端麗、成績優秀、穏やかで人当たりがよい。しかし、アーディはそれほどフィデリオが好きではない。フィデリオがアーディを好きではないからだろう。最近、それを感じるようになった。
成績がアーディの方が少しよいこと、フィデリオが苦手とするエーベルと親しいこと、何かとフィデリオにとってアーディはほんの少し引っかかる存在なのだろう。
いや、一番気に入らないのは、もしかするとそうしたことではなく――
ようやく目を向けたアーディに、フィデリオは赤い顔をして言った。
「ヴィルフリーデ君に付き添って来てもらったのかい? 彼女はクラス長として責任感が強すぎるね。小柄な彼女では男子なんて支えられないのに」
ゴホゴホッと、具合が悪そうなのに続ける。そうまでして今、言わなくてはいけないことだろうかとも思うけれど、当人は言いたいのだろう。
「バーゼルト君も実際、具合は悪いんだろうけれど、変な噂になったら彼女にも迷惑がかかるよ」
「変な噂?」
頭が痛い。今、冷静にものが考えられないのはお互い様だろうけれど、アーディもフィデリオの言い方に苛立ちを感じた。
フィデリオもまた、いつもよりも余裕がない。険しい顔で言った。
「親しげだから、つき合っているとか」
「つき合う?」
どこへだ? とアーディは眉をひそめた。
『つき合う』という表現が男女交際を差すということをアーディが知るのは、もうしばらく先のことである。それほどに育ちがいいのであるが、フィデリオはそんなことを知る由もない。
すべてに鸚鵡返しのアーディに、明らかに不快感を見せていた。
「君は彼女のことをどう思っているんだい?」
「は?」
ヴィルは友達だ。
努力家で優しい、いい子だから、積極的に誰かに関わるつもりのなかったアーディでさえ、つい親しくしてしまう。
「ヴィルは――」
そう言いかけて、アーディはふと、なんでそんなことをコイツに言わなくちゃいけないんだという気になった。しかもこの具合の悪い時に。はぁ、とひとつため息をつくと、聞き慣れた声がした。
「はい、次の人!」
この病人だらけの保健室で場違いなほど元気な声だった。カーテンを引いて中から出てきたのは、白衣を羽織ったレノーレであった。二年生のレノーレ=ティファートは、学園内で絶大な人気を誇る美少女である。エーベルとは幼馴染で喧嘩ばかりしているが。
ふんわりとした長い髪をリボンで飾り、ミニスカートにニーハイソックスといういつもの恰好の上に長い白衣を羽織っている。
その姿を見た途端、この場の全員の思考が停止していたような気がする。
近くにいた男子生徒が目を擦った。そうしてレノーレを二度見した。
「夢? 天使がいる……っ」
しかし、その夢は案外むごい。
レノーレはパッと輝く笑顔をこちら側に向け、駆け寄ってくるとアーディに寄り添った。
「アーディ! どうしたの? もしかして、アーディまで風邪?」
「……なんで?」
「あたし、保険委員だから駆り出されちゃって」
えへへ、と甘えた声で可愛く笑う。
しかし、アーディはこの瞬間に学園内で敵が増えたような気がした。視線が痛い。