〈2〉もらいもの
ゴホンゴホンッ。
そんな咳の音が朝日の差し込む教室に響いた。アーディは、朝から喉が痛いことを認めたくなかった。しかし、その音を聞きつけたヴィルがアーディの席へ駆けつける。
「アーディ、風邪? ……もしかして、私がうつしちゃったの?」
ヴィルは昨日よりもスッキリした様子だった。どうやら軽く済んだらしい。それは何よりだと思う。
「いや、たいしたことない。すぐ治るから」
「そんなこと言ってると悪化するよ。保健室に行った方がいいんじゃないかな?」
「う……」
あまり行きたくはないけれど、ここでアーディが風邪を悪化させて寝込むと、ヴィルは自分のせいだと責任を感じるかもしれない。誰からもらったのかも定かではないのに。
「わかった。もう少し様子を見てから、しんどいと思ったら行く」
そう答えたアーディに、ヴィルは納得していないようだった。つべこべ言わずに行けと思ったのだろう。
けれど、どうしてだか自分のこととなると大丈夫だろうと楽観視してしまう部分が人にはあるような気がする。他人事だとすぐに診てもらえと言ってしまうのに。
まずは授業が終わった時に考えようと思った。
しかし――
その日のクラス・フェオは歯抜け状態であった。明らかにいつもより欠席者が多い。
風邪が流行っているいるのは気のせいではないだろう。この学園内は常春で、寒さも感じない。それなのに、何故だか風邪が流行り出した。
それよりも何よりもアーディを驚かせたのは、その欠席者の中にエーベルがいたことだ。
昨日のあの、寒気がするとの発言は本当であったのだろうか。エーベルは厄介でよくわからない性格をしているけれど、あれで学園の授業は好きなのだ。仮病を使って休むとは考えにくい。
本気で寝込んでいるのかもしれない。
「エエエ、エーベルハルト様がお休みだとっ?」
取り巻けていない取り巻きその一、ちっさいのがエーベルの机の前で悲痛に叫んだ。それに呼応する出っ歯。
「そ、そんなっ! 今日という日が太陽が沈んだ常闇の世界と化したも同然だ!」
エーベルがいる方がアーディには常闇だと思うのだが。ヤツらとは気が合わない。しかも、あの取り巻き連中は誰一人欠けていない。案外丈夫だ。
太いのがぐったりとしたアーディに目をつけ、わざわざ机の前にやってきた。
「おい、バーゼルト! お前がエーベルハルト様にうつしたんじゃないだろうなぁっ!」
その辺りはよくわからない。どちらも同時だった気がする。
それでも、彼らはアーディに突っかかるネタがあれば遠慮なくかかってくる。
「お可哀想なエーベルハルト様! 今頃、孤独に打ちひしがれていらっしゃる……」
そうだろうか。
きっと、ピペルが授業に出るとごねるエーベルを相手取り、孤独に奮闘していると思う。あれで家事が得意だから、栄養満点のスープでも用意して食べさせていることだろう。ちっとも孤独ではない。
なんてことをわざわざ解説してやる気力もなく、アーディは無言でぼんやりしていた。
すると、急に太いのがアーディの胸倉をつかんで揺さぶった。
「おい、なんとか言えよ!」
こいつらに風邪がうつればいいのにな、とアーディは揺さぶられながらちょっと思った。
その時、ヴィルが太いのの手を両手で押さえた。細い手だから、二本合わせても太いのの腕よりもまだ細い。当然、力もない。けれど、ヴィルは珍しく太いのをキッと睨みつけた。
「イステル君! アーディだって具合が悪いの見たらわかるでしょう? こんな時にふざけないで!」
大人しい、怒ったところを見たこともないようなヴィルが怒った。太いのだけでなく、他の取り巻き連中もびっくりした様子でアーディから離れた。
「……フン。バーゼルトのヤツ、女子に庇ってもらって情けねぇなぁ」
庇ってくれる女子がいない僻みだろうか。
まあいい。なんでもいい。構っていられない。
「まったくもう!」
と、ヴィルが憤慨していたけれど、それを眺めているだけでアーディの方はまるで怒りを感じなかった。ヴィルが代わりに怒ってくれたからかもしれない。
「悪いな」
ぼそ、とそれだけ言うと、ヴィルはブンブンと頭を振った。
「ヴィルからうつされたとか思ってないから、心配しなくていい」
本心で言ったけれど、ヴィルは何故か複雑な表情になった。
「あの、そこ、ええっと、それだけじゃなくて……っ」
何か上手く言えないようで、あたふたと身振り手振りをしている。なんとなく耳まで赤いのは、感情が昂った名残だろう。
心配してくれているのもわかる。だからアーディは心の中でありがとうとつぶやいた。
兄が知ったら、そういうことは口に出さなくちゃ意味がないとか言っただろうか。