〈1〉ただの風邪
ふ、ふ、ふえっくちゅぃ――!
そんな声を教室の一角で立てたのは、一人の女生徒であった。
このイグナーツ王国最大の学び舎、アンスール学園、一年クラス・フェオ。そのクラス長である、ヴィルフリーデが銀髪の頭を机につけるようにしてくしゃみをしたのであった。
それを耳ざとく拾い、目を向けた少年は、アーディというクラスメイトである。中肉中背、ごく平均的な顔立ちの少年ではあるけれど、その見た目に違い放題の秘密を持つ。
アーディ=バーゼルト――それは世を忍ぶ仮の名で、本名をアーデルベルト=ゼーレ=イグナーツという。このイグナーツ王国の第二王子であった。身分を隠し学園生活を送る王子だとは、その地味な見た目のおかげか、今のところ覚られることはない。
「ヴィル、風邪か?」
両手で口元を押さえ、心なし潤んだ目でヴィルフリーデ――ヴィルは近づいたアーディを見上げた。
「そ、そうかな。でも、熱とかないと思うし、大丈夫」
「そうやって楽観視するのがよくない。一度保健室へ行ってきたらどうだ?」
ヴィルは真面目で、いつもつい無理をしがちである。だからアーディもつい、そうしたことを言ってしまうのだった。
「もし風邪がうつると悪いから、アーディも気をつけてね」
あまり自分に近づくなと言いたいのだろうか。アーディは自分でも丈夫な方だと思う。あまり寝込んだこともない。ヴィルの風邪くらいもらうこともないだろうし、かかったとしても軽く終わるだろう。
そんなことを考えたアーディも十分に楽観視しているのであるけれど、自分のことはわからない。
「アーディ!」
背後から、大声で呼ばわって突進してきたのは、エーベルハルト=シュレーゲルである。何故だか両腕をクロスし、その真ん中にアーディの首根っこを挟むようにして激突する。
正直、痛いだけである。しかし、アーディはそれを顔には出さない。いつもの真顔に怒りのオーラだけをまとって振り向いた。
「ふざけるな」
すると、エーベルハルト――エーベルはにゃしし、といつものよくわからない笑い声を上げた。
至近距離にある顔は、もはや芸術としか言えないような整い方をしている。この顔を直視できる女子は、学園内で数えるほどしかいない。直視できる男子も、同じくらいいないかもしれないけれど。
癖のない艶やかな金髪をひとつにまとめただけの飾りっ気のない恰好だというのに、その姿は抜きんでている。
しかし、アーディはその美貌を遠慮なしに手の平でムギュッと押しやった。そうして、何事もなかったかのようにヴィルに向き直る。
「まあ、無理はするなよ」
ヴィルは小さくうなずいた。
「うん、ありがとう」
にこ、と笑う。とりあえずは大丈夫そうかとアーディはほっとした。
そんな中、ヴィルの足元には黒猫がまとわりついていた。
「ヴィルしゃん、ヴィルしゃん、大丈夫ですかにゃー」
エーベルの使い魔、ピペルである。猫にしか見えないが、猫ではない。しかし、猫に見えるのに猫ではないとは、詐欺もいいところだ。
「大丈夫。ピペルもありがとう」
ヴィルは嬉しそうに答えるけれど、あの猫モドキ、脚にすり寄りすぎなのではないだろうか。それが気になって、アーディは使い魔の尻尾をゴリッと踏みつけた。ピギャァ――などという声が上がったけれど、アーディは尻尾から足をどけなかった。
そうこうしていると、エーベルが使い魔の悲鳴を見事にスルーして上機嫌で言ったのだった。
「なあ、アーディ、ボク、なんとなく寒気がするんだ」
「は?」
「だから、さーむぅーけっ?」
なんだろう。
ヴィルが風邪っぽいから大丈夫かと声をかけたけれど、エーベルが風邪っぽいと言い出した場合、どうしてだか気のせいだろうと思ってしまう。
馬鹿は風邪をひかないという。エーベルは、馬鹿ではない。むしろ、天才的な魔術の才を持つ。では風邪をひくと言いたいところだが、何故だかひかないような気がしてしまう。
天才と馬鹿は紙一重。つまりはそういうことだろうか。
「エーベル様、カマッテチャンは嫌われますにゃ」
尻尾を踏まれながらも失言したピペルは、真顔になったエーベルに背中をぐしゃりと踏まれたのだけれど。
やはり、エーベルは元気そうだ。構ってほしいから仮病とは、子供すぎる。
その時、アーディの方がコホッと小さく咳をした。
――まさかな、とアーディはそれを認めなかった。
そんなわけない。気のせいだと。
その結果は、早くも翌日に判明したのであった。