〈9〉友人
フフフ、と軽やかな笑い声がアーディに向けられる。笑ったのはエーベルだ。目の前にエーベルがいる。
アーディはそのエーベルの姿をした何かを睨みつけた。
エーベルがアーディにあんな対応をするわけがないのだ。金髪をひとつに束ね、体操着を着た姿は同じであれど、これはエーベルではない。
体を乗っ取られたのかとも思ったけれど、あのエーベル相手ではそう簡単にできることではない。だからこれはエーベルに化けた何か、なのだ。
「お前、誰だ?」
アーディが警戒しながら問うと、エーベルモドキはにこりと笑った。
「この森に棲む者だよ」
予測通りの答えである。アーディは、エーベルに謝るようで気が進まなかったけれど、仕方なく立ち入りを詫びることにした。
「奥地まで踏み入ってしまってすまない。連れを見つけたらすぐに出ていくから、どうか見逃してほしい」
実際、非があるのはこちらの方だ。アーディであっても自分の部屋に他人が勝手に入ったらいい気はしない。妖精と人との距離はずいぶんと近くなったようでいて、それでもお互いの棲み分けは必要だ。これはデリケートな問題である。
すると、妖精は小さくうなずいた。
「おや、あなたは人間王の子であるというのに殊勝なことだ」
そんなことまで知っているのかとギクリとしたけれど、ここには他に誰もいない。アーディは気を取り直して対峙した。
その身分を知っていても、妖精はおもねらない。それならば、ここがイグナーツという王国の学園の敷地であるという認識はしない方がいい。ここは国の中で独自の自治区のようなものだろうか。
「悪いのはこっちだから。それで、その、今化けてるそいつはどこに行ったんだ? 連れて帰るから出してくれ。一緒にいた猫も」
すると、妖精はエーベルの顔でぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべた。ああ、あの顔はそういうふうに使うのが正解だな、とこんな時なのに思った。エーベル自身よりもあの顔の価値をわかっている。
「置いていったらどうだろう?」
「は?」
妖精のひと言にアーディはぽかんと口を開けてしまった。妖精はそれでも言い募った。
「最初は無作法に踏み入った不躾なニンゲンだし、低級魔族まで引き連れているし、少々懲らしめてやろうかと思ったんだけれど……」
そこで妖精は自分の頬を撫でた。エーベルの滑らかな肌だ。
「この顔が案外気に入ったんだ。ちょっと魔力の質は気に入らないから、水晶の中にでも押し込めて飾っておいたらいいかなって。あ、低級魔族は返品するよ。使い道もないし」
何気に色々とひどいことを言われた。あの猫はタンドリーチキンを作れる家事に特化した猫だというのに。
いや、それはこの際いい。
「化けられるんだから、水面に映った自分の顔でも眺めておけばいいんじゃないのか?」
冷静に突っ込んだアーディに、妖精はやれやれとばかりに首を振った。わかってないなとでも言いたげだ。
「そこにいたから真似してみたけど、ずっと顔を覚えているのは難しいよ。何度か再現するうちに崩れるね。ねえ、あなたにとってこの子は友人なのかな?」
「……」
「違う? じゃあ、置いていってほしいね」
「そういう問題じゃ……」
置いていったら水晶漬けになるのがわかっていて、さすがに置いていけない。それはアーディでなくとも同じだろう。
「大丈夫。大事にするから」
ニコニコと機嫌よく言われた。どっと疲れて眩暈がする。
「……そいつ、すごく面倒くさいんだ。すぐ厄介事を起こすし、騒ぐし、マイペースだし。今日だって言いつけも守らずに突っ走ったんだ。そんなの置いていったら、きっと迷惑になるから」
水晶の中で大人しくしているエーベルなんて想像できない。間違いなく森の平穏を乱す。
至極真っ当な意見を述べたつもりが、妖精は納得しなかった。
「そんなに厄介なら、やっぱり置いていくといい。あなたの毎日はこれで平和になるよ」
毎日が平和――
それは盲点だった。アーディはそれを指摘されて思わず驚いてしまった。
エーベルがもしいなかったら、アーディの学園生活はアーディが当初望んだように平穏無事、無難に終えるだろう。それほど深く人と関わらず、とりあえず卒業はできる。
「……」
それがアーディの願いであった。平穏をいつも邪魔するエーベルが現れたせいで、その取り巻きには絡まれるし、変に目立つし、エーベルの先祖が知れ渡らないかヒヤヒヤするし――疲れる。
疲れるけれど、いざいなくなったらどうなのだろう。
魔術学の時間の後が平和だ。やたらと難しい公式を延々と語ってこなくなる。昼休み、静かに食事が取れる。構って構ってとまとわりつかれることがなくなるのだ。それはとても楽なことではないか。
本来のアーディの学園生活はそうしたものであったはずなのだ。教室の隅に一人、誰ともかかわらず、ひっそりと学び、そうして時が過ぎて卒業する。その予定だった。
けれど――
エーベルがいない教室。空いた席。
厄介だけれど、もう関わってしまった。エーベルがいない学園生活というものが、すでにアーディには想像できなかった。
今まで、退屈なんて感じる心が自分にあっただろうか。静かな日常を物足りないなんて思うことは馬鹿げている。頭ではそう思うのに、多分きっと物足りない。
そんな自分に呆れてしまうけれど。
深々とため息をつき、そうしてアーディはぽつりと言った。
「置いていけない。一応、多分、ちょっとくらいは……友達だから」