〈10〉素顔
食堂から去ったレノーレは、ふと立ち止まった。そうして振り返ってみると、そこには誰もいない。
それなのに視線を感じた。まさかあの青年がどこかからレノーレの動向を監視しているのではないかと思わず身震いしてしまう。
気を取り直し、レノーレはあの青年との待ち合わせ場所へと向かった。すると、その茂みの中に確かにいたのだ。茶色の頭髪を揺らしつつ、手もとの紙にカリカリと何かを解き込んでいる。あの視線はやはり気のせいだったのだろう。
「こんにちは」
声をかけると、青年は眼鏡を光らせて油断のならない笑みを浮かべた。
「やあ。情報は手に入れたかい?」
レノーレは小さく嘆息した。
せめてこの青年の名前くらいは聞き出さないことにはアーディに忠告もできない。なんとかしてその駆け引きをしようと思うのだ。
まず、レノーレは相手よりも優位に立たなければと嫣然と微笑んでみせた。ゆとりのある様子を保ちつつ、手始めに軽口でも叩いておこう。
「ええ。昼食にはガレットとラザニアを食べていましたわ」
そんな役にも立たない情報を頼んでない、と苛立つと思った。
ところが――。
「ガレットとラザニア!? そうなのか!! ああ、それでは野菜が足りないじゃないか!!」
「……」
ガリガリガリ、と紙に書きつける。メモするような重要な情報だっただろうか。
――彼にとっては重要だったのだろう。なんとも満足げにうなずいている。
「君はなかなか優秀だね」
「え……そ、そうでしょうか」
すごく複雑な心境である。褒められた気がしないのは、おちょくられているとしか思えないせいだ。いやしかし、彼の顔は真剣そのものだった。
レノーレはそれでも気を取り直して言った。
「すみませんが、そろそろお名前を教えて頂けませんか? 次の情報はその後です」
などと駆け引きをしてみる。
すると、青年はうんうん、とうなずいていた。
「ああ、そうだね。いいだろう。僕の名前は――」
情報を持って来たレノーレを信用したのか、彼はあっさりと名前を口にしかかった。けれどその時、思わぬ邪魔が入ったのである。
「レノ」
ハッとして振り向くと、そこには何の表情も浮かべていないエーベルが佇んでいた。ピペルも連れず、ただ一人である。青年は一気に警戒の色を強めた。
「ああ、君は……」
いつもアーディにつきまとっている生徒だ、と目が語っている。
青いガラスのような瞳をキッと青年に向け、エーベルはつぶやく。
「誰だコイツ?」
誰と問われても、レノーレが答えられるはずがない。それを今聞いていたところなのだ。エーベルが遮りさえしなければ、その答えが聞けたのだ。
青年はフフン、と不遜に笑った。
「ええと、君の名前は確か、エーベルハルト=シュレーゲル君だね。成績は入学以来常に満点でトップだって? まあ、これからも勉学に励みたまえ」
初対面の人間にいきなり上から目線で物を言われる。エーベルが嫌うシチュエーションのひとつであるとレノーレは知っていた。
内心でハラハラしつつも、レノーレとエーベルの間には少し距離がある。エーベルは薄く笑って返した。
「すごく嫌な感じがする。なんだろうな、この感じ」
ぶわ、とエーベルから黒い何かが漏れて来たような気がした。こういう時、ろくなことが起こった試しはない。レノーレは冷や汗をかいている自分を感じた。こうなったエーベルを、いつもどうやって止めていただろうか。このところ、アーディがいてくれて上機嫌のエーベルだから、黒い部分を見ることも少なかった。
「ちょっと、喧嘩売るのやめなさい」
レノーレがエーベルに駆け寄っても、エーベルはレノーレを見なかった。青年に照準を合わせたままだ。
青年もエーベルが自分に敵意を持つことを感じたのだ。やれやれと言った風に立ち上がった。学園で舞い踊る妖精たちが一気にこの場から散って行った。
不穏な空気が流れる中、青年は眼鏡を外してポケットにしまった。その途端、青年の顔は思った以上に幼くなった。
レノーレは思わずぽかんと口を開けた。
その素顔で、青年はにこりと微笑んだ。
エーベルは小さくハッと吐き捨てる。