〈8〉お昼時
今日の午前中最後の授業は魔術学だった。
ディルク先生は黒板にデカデカと魔法陣を描き、その式を丁寧に解説した。ディルク先生は童顔で優しいけれど、実際のところかなりの魔力を有する。教壇に立ってニコニコと授業をしているとそういう風に感じられないから、気づいているのは多分エーベルくらいだと思うけれど。
エーベルがサッと手を挙げた。
「はい、シュレーゲル君」
カタン、とエーベルにしては控えめな音を立てて立ち上がった。
「センセ、その式のイングはベオークにすると術の進行が早まるから楽ですけど、扱いにくいからイングのままなんですか?」
「さすがシュレーゲル君、着眼点がいいね。そうだよ、ベオークすると発動が早まるけれど、一気に加速してしまって、術を最後までコントロールできるかは術者の魔力と技量によるところが大きくなってしまう。安全に正確に発動しようと思ったらここはイングでってことだよ」
ディルク先生の穏やかな口調に、エーベルは納得したのか大きくうなずいて座った。
アーディもあの術式を遣うならイングにする。ベオークにしようと思ったことはない。エーベルの発想は突飛だと思うけれど、それを否定せずにいてくれる先生でよかった。というよりも、それだけ優秀だからエーベルの担任にされたのだろう。
アーディは先生をすごいと思うものの、生徒たちはそんな質問をするエーベルをすごいと思っている。キラキラした目がエーベルに集中するけれど、エーベルは授業に夢中である。魔術学はエーベルにとって多分一番楽しい時間なのだろう。かなり真面目に受けている。
そうこうしているうちに終了の時刻を告げるチャイムが鳴り響いた。ここでやっと昼食の時間だ。
今日は何を食べようか――なんてことをアーディも例外ではなくぼんやりと思った。
即刻、エーベルはアーディの机の前まですっ飛んで来た。
「アーディ、アーディ、オナカすいたな! 何食べる? ボクは今日、ドーしてもナスビを食べなくちゃいかんのダ!」
「は? ナスビ?」
あまりの勢いに押されながらアーディが問うと、エーベルはこくこくとイカレタ様子でうなずいた。
「ソウダ! だって、さっきの魔法陣の色、ナスビそっくりだったダロ? だからナスビを食べなきゃ」
「……」
いつものことだけれど、意味がわからない。そして、追求しない方がいい。エーベルに『何故』と問うことの愚かしさをそろそろ学びたいとは思う。
そんなことに頭を使うより、自分の食べたいものについて悩みたい。さあ、今日は何にしようか。
食堂に向けて廊下を歩きながら考える。考えすぎて足もとに気を遣わず、ピペルを蹴飛ばしてしまい、にゃんにゃん怒られた。
ヴィルは女子の友達と食べるので、あまり一緒に食堂には行かない。ヴィルにはヴィルのつき合いがあるのだからそれでいいと思う。
そういえば、エーベルといるとひとつだけいいことがある。ひとつだけだ。迷惑は多々ある。
食堂や図書室に行くと、エーベルと目が合った瞬間に誰もが席を譲ってくれるのだ。
「ああ、エーベルハルト様! こちらにどうぞ!」
「いえ、こちらに! 席はあたためておきました!!」
皆、パスタだのカツレツだの、立ち食いには向かないものばかりなのに、皿を抱えて我先にと席を譲ろうとする。
「うにゃん? アリガト」
相席する勇気はないのか、丸々ひとテーブルがそうして空くのだ。席を譲ってくれた男子生徒はどう見ても上級生だったが、エーベルによどみなく様づけをしていた気がする。その辺りはあまり気にしたら食事が不味くなるのでやめよう。
「ピペル、席とってろナ」
「わかりましたにゃー。ボク、ガレットが食べたいですにゃん」
「自分で作れ」
「にゃんと!」
「ピペルがボクの食事を用意してくれたら、わざわざ食堂まで来なくてもいいのにナ」
食堂まで来てひどいことを言う。ピペルはうるうると瞳を潤ませている。
「寮生の食事はすべて食堂のものと決まってますにゃん! 郷に入っては郷に従えですにゃん!」
よっぽど仕事を増やされたくないのだろう。ピペルは必死だ。
アーディは深々と嘆息した。
「ピペルが食べるのなんてほんの少しなんだから分けてやればいいだろ」
するとエーベルはぶふぅ、と頬を膨らましてみせた。いちいち腹の立つ顔だ。
「ガレットにはナスビが入ってない」
「……」
どうやらアーディの今日の昼食はガレットに決定した。カウンター越しに注文する。でも、アーディもガレットだけでは足らない。ラザニアを追加した。エーベルは水ナスとベビーリーフのサラダに、ナスビとトマトソースのパスタ。
調理員総出で瞬く間に仕上げ、生徒の顔を見る間もなく料理を横へ流して行く。いつもアーディなりに礼を述べるのだが、食堂のおばさま方は忙しすぎて相手をしてくれない。いや、忙しいので邪魔にならないべきなのだが。
エーベルは自分のチョイスしたナス尽くしの料理にご満悦かといえば、激しく落胆していた。
「ナスってよく見ると中の方白っぽいナ……」
紫色に拘っていたエーベルには、ナスの断面の白さが悲しいらしい。パスタに入っているナスはというと、トマト色に染まっていた。
しょんぼりとしたエーベルと、ガレットに大喜びのピペルと一緒に席に着く。すると、アーディ以外唯一の、エーベルに席を譲らないだろう人物がやって来たのだった。