〈4〉視線
ぶえっくしょぉい!
そんな大音量が隣で放たれれば誰だってびっくりするだろう。アーディも例外ではなかった。
体育の時間。半袖の綿シャツに紺のハーフパンツ。白い布靴。運動用の体操着である。エーベルは眩しいほどにきめ細かく輝く脚をさらしつつ、この品性のかけらもないくしゃみを放ったのだった。
アーディとエーベルはひと組になり、校庭の一角で柔軟体操をするところであったのだ。クラスメイトの視線が一瞬二人の方に向けられた。けれど、エーベルの美貌からあのくしゃみが出たと結びつけるより、地味顔のアーディから放たれたと思いたかったのかも知れない。皆の目がアーディに向いた。
ふぃぃ、とか言いながら横にいるエーベルのせいにならないのは何故だと言いたいけれど、世の中は理不尽にできている。
「エーベル様、お風邪を召されましたかにゃん?」
ピペルが校庭の土を踏みしめつつ、可愛い子振った声と仕草でエーベルを見上げた。
「う? 風邪? 多分違うと思うゾ」
「でしょうにゃ。ナントカは風邪ひかないですにゃー」
今のは素だった。素で失言した。ピペルの背中に白い布靴がめり込む。革のブーツよりはソフトだけれど、その分踏み方に容赦がないような気もする。
アーディはそれを止めるでもなく、はぁ、とため息をついてから問うのだった。
「じゃあ土埃でくしゃみが出ただけだな。それか誰かが噂してるか」
本当に噂されるとくしゃみが出るのなら、エーベルは四六時中くしゃみをしていなくてはいけないだろう。それくらい、常に噂の的だ。中身はとにかく、外見と成績がよくて、その上、王子だという疑惑があるのだから。
エーベルはぴたりと動きを止め、けれど足はピペルから退けずに言った。
「朝から視線がグッサグサ刺さってるんだ。そいつが噂してるのカモ」
「朝から?」
「正確には昨日から? ネチっとした視線。ボクの美貌が妬ましいのか知らないけどサ」
どうしたものか。
自意識過剰過ぎると突っ込むべきか、ほっとけと流すか、それは先生に相談した方がいいんじゃないかと親身になるか。アーディが取るべき行動はどれなのだ。
その結論を指す前にエーベルはさっさとアーディの背中に回った。そうして、アーディの背中をぐいぐいと下に向けて押すのだった。
「まあいいんダ。そんなことより柔軟! アーディ硬いにゃあぁ!!」
いだだだだ、とアーディは地面に向かって呻いたけれど、伸ばした指先は地面につかない。エーベルは手の平がぺたりとつくくらいには柔らかいので、アーディの体の硬さが信じられないらしい。更にぐいぐい楽しげに押さえ込まれ、アーディは覚えてろと恨んだ。が、エーベルには通用しない。
そうした二人は仲睦まじく見えるのか、今度はアーディに羨望と憎悪の視線が突き刺さるのだった。
誰でもいい、代わってやる。それがアーディの嘘偽りのない気持ちである。それなのに、誰もアーディと代わってはくれないのだ。
「うにゃにゃ、痛かったですにゃー。エーベル様は加減を知らないですにゃん」
ピペルがぼやくも、エーベルは見向きもしない。契約で縛られているピペルはアーディよりも大変ではある。しかし、エーベルはピペルを気に入っているからこそこういう扱いなのだろう。迷惑な話だが、エーベルは気に入った相手にしかちょっかいを出さないのだから。
いい加減に止めろとばかりにアーディが体を起こすと、その背中から飛びのいたエーベルはにゃししと笑った。
その顔に向け、アーディは青筋を立てながら嘆息した。
「今度は僕が押してやる」
柔軟は交互に二人がやるべきだ。アーディばかりが痛い思いをしても割に合わない。
エーベルはにゃうん? と不思議な声を上げて小首をかしげる。そういうところもイラッとするのだ。きっちり仕返ししてやろうと思ったアーディの腕は、突然背後からつかまれた。
「ん?」
振り返ろうとしたら今度は首に太い腕が巻きついた。エーベルの取り巻き連中だ。容赦なくアーディの首をぐいぐいと締める。
「エーベルハルト様のお手を煩わせずとも、バーゼルトの柔軟くらい我々がお手伝いしますとも!」
そう言いながら、まだぐいぐい締める。アーディがぐ、とくぐもった声を上げても、エーベルはふわん? とか言ってるだけだった。
「なんだ? そういう風にすると体が柔らかくなるのか?」
違う、と声が出なかった。そのうち、ピピーと笛が鳴らされた。
「はいそこ! 他のペアにちょっかいかけない! 減点するよ!」
童顔眼鏡のディルク先生がプリプリと怒る。迫力はないが助かった。
減点というワードには何者も動じないわけには行かないのだ。皆、慌てて離れて行く。
解放されたアーディがほっとひと息ついていると、そばで笑っていたかと思ったエーベルがひどく険しい顔をして遠くを見つめていた。
「なんだ?」
すると、エーベルはアーディの方を振り向きもせず、横顔を引き締めて言うのだった。
「いや、別に」
ひどく嫌な、胸騒ぎのする瞬間だった。