〈9〉駆け込み部屋
どうやらアーディはエーベルを振りきることができた。職員棟の扉を潜り、最上階を目指して――けれど廊下は走らずに進んだ。すると、廊下で見知った顔と出会った。
「おや? バーゼルト君」
眼鏡に童顔、アーディたちの担任、ディルク先生である。ディルク先生はアーディの正体を知っているので接する時は気楽である。
「学園長先生に用があって来ました」
口早にそう言った。ピペルが聞いているので、身分がバレるような発言はやめてほしいと目で訴える。ディルク先生はアーディが小脇に抱えている不機嫌なピペルを横目に、ああ、と短くつぶやいた。
「そう。僕も行くよ」
と、ディルク先生はアーディと共に学園長室へ続く浮遊パネルに乗った。ブワン、と音を立てて浮き上がり、学園長室へ進むパネル。ガラス張りの通路から外を眺めても、エーベルが魔法陣で飛んでいる姿は見えなかった。エーベルがそう素直に諦めるはずはないと思うのだけれど。
仰々しい扉の前までやって来ると、アーディは扉をノックした。
「学園長先生、アーディ=バーゼルトです」
「ああ、どうぞ」
穏やかで優しげな声が扉の奥から返る。その声はいつも一定で、不変で、とても安心感を覚える。アーディはほっと息をつきながら学園長室へ踏み入った。
学園長はいつもの白い髪と髭と眼鏡、ずるっと長いローブ姿でアーディを迎え入れてくれた。
「失礼します。唐突ですみませんが、この使い魔の記憶を誰かが操作したとエーベルが言うのです。誰がそんなことをしたのかわかりますか? で、もしろくでもないものを見てしまっているようなら、エーベルにも解けないように術を厳重にしておいてほしいんです」
すると、ピペルはにゃー、と叫んで脚をばたつかせた。
「ボクは悪いことしてないですにゃー!」
「覗きは犯罪だ」
「なんも覗いとりゃしませんのですにゃ!」
中途半端な喋りで抗議するピペルをアーディは学園長の机の前にまで連れて行った。学園長はふむと言って眼鏡を押し上げながらピペルの目をじっと見つめた。ピペルはというと、じいさんに顔を近づけられても嬉しくもなんともないわいと言いたげに目をそらそうとしたので、アーディがその首を正面に向け直した。その首にものすごい抵抗があったけれど。
「これは――」
学園長は眼鏡を再び押し上げた。
「これはいけませんな」
「ぶにゃあ?」
ピペルの顔に手をかざし、その手の指輪が煌くとピペルは目を回した。ぐったりとしたピペルが可哀想なのかどうなのか、アーディにはよくわからない。
「いやいや危ないところでした」
と、学園長はひと息ついた。
「やっぱり……」
覗きは犯罪だ。例え猫だろうと。
「どういうことですか、学園長?」
ディルク先生が後ろで不思議そうに首をかしげている。そんな先生に、学園長はゆるくかぶりを振った。それからアーディに視線を投げかける。
「殿下、今日、身辺で変わったことはございませんでしたか?」
変わったことと問われても、アーディには思い当たらない。このピペルやエーベル以外には。
「特には」
「そうですか。それならよいのです。おかしなことをお訊ねしてしまいました。どうかお忘れ下さい」
そう言うと、学園長は机の引き出しを開け、そうしてそこから封蝋をされた一通の手紙を取り出した。その封蝋の蔦の絡んだ刻印はバーゼルト家のものである。アーディは顔をしかめた。
「カイ=バーゼルト殿からのお手紙です。確かにお渡し致しましたよ」
「……はい」
カイ=バーゼルト。
アーディにとってはハトコというまあまあ遠い関係に当たる。ただ、この学園に通う際、バーゼルト家の次男という設定で通っている以上、このカイがアーディの兄ということになるのだ。
悪い人間ではないのだが、心配性というのか、やたらとアーディのことを気にする。手紙が妙に多いのだ。困ったことはないかとか、逐一報告を求める。変な責任感か、それとも根っこにあるのはアーディを出世のツテにしようという野心か。
学園に通う前に少し関わった程度で、それまではほとんど交流もなかったはずだ。
面倒なのでほぼ返事はしていない。放っておいても害はないだろうと思っているのだが、どうだろうか。カイからの手紙は、他の誰かに読まれてしまうとアーディの正体が知れ渡ってしまうので、いつも学園長自らがアーディに手渡してくれるのだ。
アーディはその手紙をベストのポケットにねじ込むと、のびたピペルを抱えたまま一礼した。
ディルク先生は学園長室に残るようだったので、アーディだけが退出する。そうして外へ出ると、エーベルをどう納得させようかと考え出した。