〈5〉善意
そうして無事ハーフェン湖へ到着することができた。
ハーフェン湖は向こう側が見渡せないほどの広さをしている。水は透明度が高く、少しの淀みもないのはこの地に棲む精霊の加護かとアーディは感じた。周囲の草木も瑞々しく、それは美しく整えられた場所なのである。
歩き疲れた生徒たちは水に浸りたい気持ちが先走るようであった。水を手ですくったり、水飛沫を上げてはしゃいでいる。水の粒に光が反射して煌いて見えた。
アーディがそんな光景を眺めていると、隣にいたヴィルのところへフィデリオがやって来た。
「ヴィルフリーデ君」
爽やかに微笑をたたえているけれど、エーベルのせいで彼にあまり視線が集まらない。エーベルは大あくびしているだけだというのに、うっとりとした表情で皆が眺めている。
「よかった、何事もなく到着できたね」
「あ、うん」
ヴィルは気後れした様子でうなずいた。
そんなヴィルにフィデリオは更に笑顔で言った。
「でもまだ始まったばかりだから気は抜けないね」
フィデリオは親切だ。学年リーダーでもあるせいか、こうして隣のクラスのことまで気を配ってくれている。本当に、エーベルにその座を奪われなくてよかった。フィデリオのような気配りのできるタイプがまとめ役である方が全体にとって喜ばしい。
ただ、ヴィルはうんとうなずくだけだった。
フィデリオは善良な笑顔を浮かべている。
「何かあったらすぐに知らせてくれ。クラス長だからといって一人で問題を解決できなくても気にすることはない。私はいつでも手を貸すから」
「あ、ありがとう」
そう答えるけれど、ヴィルはうつむいた。
アーディは何か言いようのないモヤモヤした気持ちになった。何故だろうか。
フィデリオは親切で善良で、だからこうしてヴィルを気にかけてくれている。慣れない仕事に挫けてしまわないように、配慮して言葉をかけている。けれど――。
その配慮が、逆にヴィルを傷つけている可能性もあるのだとしたらどうだろう。
ヴィルは基本的に自分に自信がない。そうした彼女に向けて、できなくても仕方がないと言ってしまえば、自分はやはりクラス長には相応しくないと落ち込むのだ。
フィデリオが悪いというわけではない。それでも善意が裏目に出てしまうこともある。
このままだとヴィルは自尊心を失い、小さくなるばかりのような気がした。
アーディは深々と嘆息する。
そうして、同じ目線のフィデリオに向けて言ったのだった。
「あんまり見くびるな。ヴィルなら大丈夫だ」
真面目で、一生懸命で。そんなヴィルならちゃんとやれる。
時にはそう信じて手を差し出さずに見守ることも大切なのだと思う。甘やかすだけで、お前ならやれると言ってくれる相手がいないのは、恵まれた環境とは言えない。
フィデリオはぽかんと口を開けた。
見るからに頼りなげなヴィルに、何故アーディがそんなことを言うのかがわからなかったのだろう。けれど、フィデリオはアーディの後ろにエーベルを発見してしまったらしく、じゃあがんばってと言い残してそそくさと去った。
「にゃんだぁ? あれ、誰だっけ?」
なんてことをエーベルがアーディの背中で言ってる。そろそろ覚えてやれ、と思ったが口には出さなかった。
ヴィルは戸惑いの強い顔でアーディを見上げる。アーディはその目を直視することなくつぶやいた。
「お前は自分が思ってるよりなんでもできる」
言葉を飾るのは性に合わない。アーディはいつだってそうだ。だから無愛想だと言われてしまう。
けれど、伝わる言葉はそれでも伝わる。
自信を持てと。
ヴィルは顔を赤くして大きくうなずいた。
「うん、アーディがそう言ってくれるなら……」
アーディもほんの少し笑ってみせた。
「何さ何サ、何笑ってんのサ?」
とエーベルが不思議そうにアーディの頬を引っ張ったので、アーディは逆にエーベルの滑らかな両頬が伸びるところまで伸ばしてやった。いにゃにゃにゃ、と変な声を出しているけれど笑っているのでさほど痛そうには見えない。悲鳴にも似た叫びが関係のない外野から飛んだけれど、気にしていたらキリがない。
「青春の一幕ですにゃー」
そんなことをピペルが言ったけれど、果たしてそうだろうか。