〈3〉何事もなく
さて、そんなことがあった翌日。
エーベルはピペルを引きつれ颯爽と朝日の差し込む教室へ登場した。
「おっはよー、アーディ」
いつも通り、アーディしか眼中にない。周りでおはようございます、おはようございます、という取り巻きたちの声がこだまのように虚しく響いた。
こうなって来ると取り巻きと言う表現も正しくない。肝心のエーベルを少しも取り巻けていないのだから。他の表現を探すのも面倒なのでどうでもいいけれど。
ピペルも男子生徒には目もくれない。ツンと澄まして歩いている。
「……おはよう」
別に昨日のことを気にしているわけではない。朝の挨拶くらいはアーディだってたまにはする。
けれど、エーベルはうにゃあと言って仰け反った。
「アーディが!」
何故驚く。顔をしかめたアーディに、エーベルは更にご機嫌でうにゃうにゃ言った。
「今日はいい日だねぇ。ピペル、お前もそう思うだろ?」
「はいですにゃー。友情が日々深まっておりますのをヒシヒシと感じますにゃー」
ぞわ。
何故朝の挨拶を返しただけで朝からこんな悪寒に襲われるハメになるのか。
それにしてもエーベルの昨日見せた顔はなんだったのかと思うくらいに普段通りである。あれは幻だったのかと思ってしまいそうだ。
その時、エーベルの方から言い出した。
「いやぁ、この分だと課外授業が楽しみだなぁ。早く当日にならないかなぁ」
「……お前、ペアはどうするんだ? 一、二年合同だっていうからレノーレと組むのか?」
レノーレ=ティファート。ひとつ年上、二年生の美少女である。
レノーレはエーベルの幼なじみであり、エーベルの容姿に惑わされない人間の一人ではある。エーベルと普通にペアを組めそうな相手など他に思い当たらない。
するとエーベルは首が落ちたのかと思うほど首をかしげた。
「ペアって、ボクは誰とも組まないのだ」
ま、あんなガサツなのとはアリエナイけどねー、とレノーレが青筋立てそうなセリフをつけ足した。
すっかり逆さまになったエーベルの顔にアーディは顔をしかめる。
「組まない? お前と組ませると相手が大変なことになるからか?」
「あー、確かにそうかもにゃー」
なんてピペルが口を滑らせた瞬間に、容赦なくその背にエーベルの靴底が降った。思えばアーディもあれに踏まれたものだ。ぐぇぇえぇ、と鈍い音がしたのも束の間、エーベルはピペルの首根っこをつかんで吊るし上げた。
だらん、と意識が朦朧としているらしきピペルがアーディの前にさらされた。扱いが悪いにもほどがあるだろうに。失言も命懸けだ。
「ほら、使い魔がいるからペアはダメだってさ」
なるほど、とアーディは納得した。ただ、もっともらしく先生方はそう言っただけで、実のところはどうなのだろう。
そうなると隣のクラスの学年リーダーであるフィデリオもペアは組まされずに使い魔と頑張るしかないようだ。いい迷惑である。それでもフィデリオなら大丈夫だと信じよう。
しかし、エーベルはにゃししと笑っている。
「ま、ボクは一人で大丈夫さ。むしろ組んじゃったら面白くないじゃないか」
何がどう面白くないのか。聞きたいような聞きたくないような。
「……課外授業で何をするのか、お前はちゃんと理解してるのか?」
アーディはまだ詳細を知らない。きっと現地で発表されるのだと思う。
ただ、相手はエーベルだ。こんなに普通のやり取りに意味はなかった。
「知らないにょん。けど、どうでもよくない?」
あまりにあっさりと言うからアーディの方が戸惑ってしまった。
「はぁ?」
「ボクは天才美少年魔術師だからどんな内容でも平気なのだ!」
そう言ってふんぞり返った。エーベルの高笑いが響く中、アーディはげんなりしながら考えた。
確かにエーベルならどうとでもするのだろう。ただ、課外授業の内容が写生とかだったらどうだ。素直にスケッチブックに絵を描くとは思えない。途中で飽きてスケッチブックに魔法陣を書きなぐるだろう。
そもそも、屋外で黙って座っていられる気もしない。
写生でないことを祈りたくなったのは、アーディの絵も壊滅的だからかも知れない。