〈8〉召喚
アーディとエーベル、そしてヴィルは学園長室へやって来た。学園長とディルク先生はヴィルが一緒に来たことを気にする風でもなかった。それを言ってしまえば、何故アーディは許されるのかということを上手く説明できないからだろう。
「シュレーゲル君、君の使い魔を検分する。じゃあ、準備が整い次第召喚してほしいんだけど、その使い魔は今はどこにいるんだい?」
使い魔とする存在は異界から召喚することもある。高度な存在であればあるほどに遠いところに要ることが多いのだ。
エーベルは得意げに言った。
「今はマンフレート領のそばのボクの家で留守番をしているところです」
マンフレート領は牧歌的でのどかな土地柄だ。だからそばにこんな傍迷惑な子供がいても大目に見ていたのかも知れない。レノーレはそのマンフレート領主の娘ということだろう。
「そうか、それなら割と近いね」
ディルク先生がうなずく。学園長はそんなやり取りをマホガニーの机に肘を突いてニコニコと微笑みながら見守っていた。ヴィルは学園長室へ来たのは初めてのことらしく、その魔法アイテムの陳列された室内に圧倒されていた。それが普通の生徒の反応で、アーディがここへ何度も来ていることを隠したいなら見習うべきかとも思ったが、誰もアーディのことを見ていないので止めた。
「では始めなさい」
学園長の指示にエーベルは得意げににゃは、と笑った。上機嫌で鼻歌まじりに指先で魔法陣を描く。ぽうっと灯った赤光の軌跡。
ラド・エオロー・エオー、正確に文字を刻み、魔法陣は完成する。いかに鼻歌が調子っぱずれだろうと、魔法陣には無縁である。アーディはその鼻歌にイラつくのだが。
「ふひんふひーん、フフフ、てや!」
おかしなキメで魔法陣がエーベルから離れてクルクルと回り出した。光を零すように円盤状の魔法陣が徐々に広がり、拡大する。やはり、ふざけているようにしか見えないけれど、エーベルの扱う魔術は上等であった。先生方もそれを感心している風だった。
エーベルはにゃにゃにゃと笑いながら言う。
「ピペル、ボクに会えたらきっと泣いて喜ぶなぁ」
アーディに使い魔を使役した経験はない。なので、そうした主従の繋がりというものは未知の世界なのだが、このエーベルが主だとすると、果たしてその使い魔は幸せなのだろうか。従順だと聞くけれど、忍耐の日々ではないのだろうか。
もし自分だったら――耐えられない。
当の本人(猫)にそれを少し訊ねてみたいような気もした。
そうこうしているうちに転移の召喚魔法陣の中に黒い物体が浮き上がった。黒い影のような塊はどちらかと言えば丸っこかった。フサフサの背中を丸め、気持ち良さそうに眠っている。
スヤスヤ。
普通の猫よりは少し大きい気はするけれど、猫だ。黒猫だ。首に緑のリボンをしている。
こうしているとただの猫である。
エーベルに会えて泣いて喜んだかといえば、現在は夢の中のようだ。
「よく寝てるな」
思わずアーディがつぶやくと、エーベルの背中から嫌なものが流れ出て来たような気がした。どす黒い何かが。
「ふむ、魔族とは言っても大人しそうだね」
学園長はのんびりとそんなことを言う。ディルク先生はエーベルから出るどす黒いオーラに気づいて顔を引きつらせていた。
「ピペル」
いつもの浮かれた声ではなく、少々ドスの利いた声で使い魔を呼ぶ。その主の声に黒猫は小動物特有の怯えた目の覚まし方で飛び起きた。
「ハッ!」
見開かれた眼は緑がかった金色。黒猫はきょどきょどと学園長室を見回して混乱している様子だった。
けれど何より、そのどす黒いオーラを垂れ流す先に気づいた瞬間に、きゅうっと瞳孔を狭めてひぃぃと悲鳴を上げた。
そうして、遂にはぷぎゃーという叫びと共に、ものすごいスピードで飛び上がって天窓を突き破ったのだった。背中から蝙蝠のような翼が生えて、まるで黒い流星だった。細かく割れた窓ガラスがキラキラと降るのを学園長が腕のひと振りで消し去る。
「……パニック状態だね?」
ディルク先生が思わずつぶやいた。エーベルはくるりと振り返ると嫣然と微笑を浮かべていた。
「すぐに連れ戻します」
けれど、学園長はそんなエーベルに言うのだった。
「ええと、そこはバーゼルト君たちに任せよう。シュレーゲル君には色々と聞きたいことがあるから」
「えー」
と、エーベルは膨らんだ。けれど、えー、と言いたいのはむしろアーディの方である。
けれど、学園長は含みたっぷりにウィンクしていた。仕方がないのでアーディはヴィルと共に逃走したピペルを捜すことにした。
生徒に害はなさそうだが、一応魔族ではあるのだ。