〈1〉感謝しろ
ここは世界最大の大国、イグナーツ王国。
一国に匹敵するほどの規模の土地を使って造られた学び舎、アンスール学園。
十四歳で入学し、四年間をこの全寮制の学園で過ごすことになる。
厳しい規則に縛られつつも卒業することができれば、将来は約束されたようなものだと言えるほど、この学園は国にとって重きを置くところである。
そんな学び舎に稀代の天才少年がいた。
その名を、エーベルハルト=シュレーゲル。
――ただし、この物語の主人公は彼ではない。
その天才少年に振り回される、地味で、それでいて能力だけは高い同級生、アーディ=バーゼルトこそが主役である。
ただし、彼は目立つことが大嫌い。
派手なエーベルのそばにいると表舞台に引っ張り出されて迷惑している。
この対照的な二人には、それぞれが抱える秘密があった。
エーベルの秘密を知るのは、教員を除けばごく一部。
クラスメイトのヴィルフリーデ=グリュンタール、エーベルの幼馴染であるレノーレ=ティファートとその弟であるルッツくらいのものだ。
そして、アーディの秘密を知る生徒はただ一人、下級生のフィロメーラ=レニエ。
少し前までは生徒は誰一人として知らなかったのに、新入生としてアーディを以前から知っている人物が入学してしまったのだ。アーディとしては、小さな綻びが広がっていかないことを願うばかりである。
このフィロメーラ、どうやらエーベルに一目惚れしたようだった。エーベルは、黙っていれば金髪碧眼の類を見ない美少年だ。
黙っていれば。喋ったら最悪なのだが。
それでやたらとエーベルの周りをうろつくようになってしまった。
アーディの秘密――アーディの本名がアーデルベルト=ゼーレ=イグナーツという長いものであり、その身分はこのイグナーツ王国第二王子であるということを知っているフィロメーラがチョロチョロするのは、アーディにとって望ましくない事態である。
そして、エーベルの秘密、世界征服を目論んだ悪の魔術師フェルディナント=ツヴィーベルの子孫であるということもできれば知られない方がいい。
二年生に上がって問題が増えてしまった。ただでさえ反省文を書きすぎて今後が不安だというのに。
アーディは近頃、ようやく二年生になったという実感がじわじわと湧いてきた。
可愛いかどうかは別として、後輩もできた。何よりも大きかったのは教室が変わったことかもしれない。それを言ったら、方々からそっちかと突っ込まれそうだけれど。
これまでの二年生は三年生の教室に移り、この教室がアーディたちに割り振られた場所になった。
クラス・フェオ、クラス・ウルは名称を変えることなく二年生のクラスとなり、一年生はクラス・ソーンとクラス・ラドである。
二年生になったからといって急に勉強が難しくなるということはないと思うが、順位は二番以上上に上がることはないはずだ。手を抜かなくても一番にはならない。
そう、一番なんて取った日には目立ってしまう。だから駄目だ。
その点、エーベルがいればまず負けるので気が楽である。エーベルは遊んでいるような気楽な態度で満点を叩き出すヤツだから。
進級するのに形ばかりの試験があったけれど、しばらくしたらまた試験だ。
それが学校というものなのだから。
「アーディ! オハヨー!」
無駄に愛想を振り撒きながらエーベルが教室にやってきた。
ちなみに、そんな笑顔はアーディにはなんの効力も持たないのだが、アーディの近くにいた生徒が数人よろけてへたり込んでいた。
こいつらがわざとらしく遊んでいるのかと思いたいが、鼻血まで出しているところを見ると本気か。
「…………お前は無害に入ってこられないのか?」
「うにゃん? ニャニソレ?」
首を真横にして歩いてきた。その足元には黒猫が一匹。いや、黒猫モドキが。
「おはようございますにゃん」
「おはよう」
この黒猫はエーベルの使い魔でピペルという。猫っぽいが猫ではない。
そして、エーベルから猫っぽいかわい子ぶりっ子を強要されている憐れな使い魔である。本当は『ですにゃん』なんて反吐が出るほど言いたくないらしいが。
「今日も遅刻しなかったのはピペルのおかげだな」
嫌味でもなんでもなくアーディがこれを言ったのは、事実だからだ。
エーベルはこの見た目に反して非常にだらしがない。朝は弱いし、片づけはできない。そこをサポートするのがこの使い魔である。
「起きたのはボクだケド?」
意味がわからないとばかりに言うエーベルだが、この主人を起こすために使い魔が毎朝奮闘しているのも事実である。
ピペルは大きな目をうるりと滲ませた。
こんなに苦労が多いのに、感謝されていないのが不憫ではある。
多分、今夜辺りにピペルの愚痴が炸裂するだろう。そして、アーディはそれを聞くしかないのだった。




