〈11〉べっちょり
「エーベル! 出てこい!」
木が少ない、空が見えるところまで出て、アーディは思いきり叫んだ。
エーベルはというと、漂っていた。
全校生徒の中で空を漂うのはエーベルだけだろう。
「アーディ、どうしたのさ? すごい剣幕ダ」
すごい剣幕の相手に、あはっ、と笑いかける。
見たところ、ピペルはいない。どこかでサボっている。
魔術陣を、よいしょ、という掛け声とともに消し、エーベルはアーディの手前に下りた。
「お前、鳥から手紙を取っただろ?」
「トリ?」
「フィデリオの使い魔の!」
「ああ、デコパの」
未だにエーベルは、フィデリオの名前を正しく呼んだことがないかもしれない。
「で、手紙だ。あれは僕の手紙だ。返せ」
すると、エーベルはニコッと人間を悩殺する笑みを浮かべたが、アーディには通用しない。
そういう普通の笑い方をする時はろくなことがなかった。
いや、常にろくなことをしない。
「捨てちゃったナァ」
「捨てた?」
「うん」
「読んでないよな?」
「うんうん」
こっくりこっくりとうなずている。
「だってサ」
そこでエーベルは何故か身震いした。そんなことは珍しい。
「だって……べっちょりしてたから」
「は?」
「ヨダレでべっちょべちょ。つまんで捨てたのにゃ」
それはちょっと、アーディも身震いしたくなった。
あの鳥め――。
しかし、考えようによってはよかったのかもしれない。
ヨダレでべっちょべちょだったおかげでエーベルに読まれなかったのだから。
「……でも、回収したい。どこで捨てた?」
「う~ん、コッチ?」
エーベルは向こう側を指さし、再び虹色の空飛ぶ魔術陣を出してその上に飛び乗った。アーディもすかさず飛び乗る。
この間、エーベルはべっちょりした手紙の感触を思い出したのか、アーディの背中に手を擦りつけていた。しかし、この状況では怒れない。ひたすら耐えた。
そして、エーベルが飛んでいった先は、一年生の校舎の近くだった。
つい最近までは自分たちのテリトリーだった場所だが、二年生になった今、そこはもう縁遠いところになってしまったのだ。
「この辺かなァ?」
エーベルがつぶやく。
すると、白く平たいものを持った一年生の男子生徒がいた。
アーディは急いでその生徒の前に飛び降り、顔を見るよりも先に言った。
「その手紙! 僕の落とし物だ!」
いきなり降ってきた上級生が結構な剣幕でそんなことを言ったら、一年生にとっては怖いものである。アーディにはそこのところがわからなかった。
一年生はひゃぁっと悲鳴を上げて尻もちをついた。
「あ、悪い……」
アーディは少しだけ冷静になって謝った。そして、その一年生の青ざめた顔をようやく見たのである。
「うん? お前はもしかして――」
レノーレの弟じゃなかっただろうか。
正面から見ると、やはりよく似ていた。
ただ、似ているのは顔だけだったのかもしれない。
目に一杯涙を溜めたかと思うと、メソメソ泣き出した。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめっ、ごめんなさっ……うぅっ」
こんなに泣かれると思わなかったアーディは、罪悪感でいっぱいになった。このリアクションは今まで出会ったどの生徒とも違う。どうしようかと。
焦ったが、とりあえず起こしてやることにした。
「驚かせて悪かったな。別に怒ってないから泣きやんでくれ」
「うっ、うっ」
「お前、レノ先輩の弟じゃないのか? それにしちゃ性格が違うな?」
思わずそれを言うと、彼――ルッツはさらに涙を溢れさせた。
「ね、姉さんを知ってるんですね? 僕は学校生活なんて嫌だって言ったんです。それなのに、父さんが僕は跡取りなんだから行かなきゃ駄目だって。ギリギリまで抵抗したんですけど、放り込まれたんです」
それでレノーレは弟が来ることを知らなかったのだろうか。
「姉さんみたいに逞しくなれって言うんです。そんなの、僕には無理ですよぅ」
ビィビィ泣く。
三歳児みたいだな、とアーディは思った。
「アーディ、何してるのら?」
急に魔術陣から逆さ吊りになったエーベルの首が現れた。ルッツはぎゃあああああと悲鳴を上げている。
「あ、思い出した。レノのおとーとだ」
エーベルはポン、と手を打った。
しかし、ルッツは頑としてエーベルの方を向かなかった。涙は止まっていたが、無というべき状態で、顔を覆い、自分の存在を消し去ろうとしているように見えた。
「うん、そうだ。思い出した。じゃ、アーディ、またね」
そう言って、エーベルはさっさと去っていった。相変わらずよくわからない。
しかし、ふとルッツを振り返ると、どうも息をしていなかった。
「お、おいっ」
思わず声をかけると、ルッツはやっと魂が戻ってきたように見えた。
ゼェゼェと呼吸を貪る。
「……何やってるんだ?」
「す、すみません、その、『彼』の存在があまりに規格外すぎて、僕の心臓に悪くて。なるべく目に入れないようにしております……」
「心臓が悪いのか?」
「はい。ノミの心臓だとお医者様に告げられました」
「それって……いや、いい。とりあえず手紙をくれ」
ルッツは鳥の唾液でぐしょぐしょになっていたという手紙を、彼自身の涙でさらに湿らせてしまってからアーディにくれた。
「…………」
正直、もう読めたものではない。
アーディは諦めた。
後日、兄に手紙の内容を確かめればいいのだ。この手紙が人目に触れさえしなければ、もういい。
アーディはため息をついてその手紙を握り潰した。
「で、お前もそろそろ寮に戻った方がいい。規則の時間になるからな」
夜間に用もなく寮から出てはいけない。一応教えておいた。
「は、はい。ありがとうございます。ええと……」
「僕はアーディ=バーゼルト。二年生だ」
「バーゼルト先輩ですね?」
ぐすん、と鼻をすすりながらもうなずいた。
「アーディでいい」
バーゼルトの家名は借りているだけなので、どうにも呼ばれると罪悪感がある。
「アーディ先輩。先輩って、顔は怖いですけど面倒見がいい人みたいですね」
ノミの心臓がよく言った。顔が怖いらしい。
「別に面倒見がいいとも思わないけどな」
「じゃああれですか? うちの姉さん目当てで点数稼ぎたい?」
ノミの心臓が調子に乗ってきた。
「いや、別に」
「硬派なフリしてますね」
「なんでフリなんだ」
「硬派な十五歳なんて説得力ないじゃないですか。思春期どこいったんですか? 十四歳の僕だって女の子にチヤホヤされたいですよ」
――レノーレの弟にしては大人しい、と思ったが、大人しいと見せかけて図々しい。
ルッツはへらぁと締まりのない笑顔を浮かべた。
「面倒見のいいアーディ先輩、いつでも僕の面倒は見てくれていいんですよ」
「遠慮したい」
「またまた」
「遠慮する」
変なのに絡まれてしまった。帰ろう。