〈8〉婚約
――フィロメーラ、お前ももうすぐ十四歳だ。先のことを決めておかねばなるまい。
半年前、フィロメーラは父にそう切り出された。
「なんですの、お父様。改まって」
紅茶をひと口含み、フィロメーラは公爵令嬢らしい気品を持って訊ね返した。
しかし、そんなフィロメーラが紅茶を噴いてしまうようなことを父は言ったのだ。
「うん、お前の婚約のことなんだが」
「ブッ」
結構重要なことなのに、のん気な父がナッツクッキーをボリボリかじりながら言うから悪い。
フィロメーラは口元を拭きつつ父を睨んだ。
「才色兼備のフィロに相応しい殿方がそうそういるとは思えませんが、一応はどこの誰が候補に挙がっているのかをお聞きしましょうか」
「自分で才色兼備とか言っちゃうお前が可愛いと思うのは親の欲目」
「いいから教えてくださいませ」
父はしばらく黙ってボリボリとクッキーをかじり、それを呑み込むと言った。
「いや、お前もよく知っているお方だよ。年も近いし」
「だから、誰ですって」
「アーデルベルト殿下だね」
「…………あ?」
とても間抜けな声を上げてしまった。はしたない。
フィロメーラは、コホンと咳ばらいをして取り繕う。
「アーディ兄様って、半年前から病みついてませんでしたっけ?」
体調が思わしくないので、誰にも会わせられないという話だった。
フィロメーラが知る従兄はすこぶる健康体だったので、一体何があったのだろうとは思ったが。
父はハハハと軽く笑った。笑っていいのか。
「実はそれ、嘘なんだ」
「はぁ?」
「アーデルベルト殿下は実はお忍びでイグナーツ学園に在学中でな。これは本当に誰にも言っちゃいけない。最重要機密だよ」
なんで王族が学校に通うのやら。
優秀な家庭教師がみっちりついているくせに。
「なんでまた学校なんて……」
「見識を広めるためだそうだ。ご立派だねぇ」
「そんなタイプでしたっけ?」
フィロメーラが知るアーデルベルトは、表情筋が死んでいる少年だ。
華のある兄、ジークヴァルトの陰になって霞んでしまう――というより、自ら進んで霞みたがる。目立つのなんてまっぴらだという、王族にしては微妙な人である。
能力値は高いし、実は結構優しいのだが、なんというのか覇気がない。
外見も至って普通。良くも悪くもない。
それが婚約者。
「…………」
微妙である。
それが顔に出てしまったのか、父まで歯を剥き出しにして顔をしかめたのでドキッとした。
「歯にナッツが挟まった」
知るか。
「あ、あの、お父様! その件はまだ決定ではないのでしょう?」
「まあね。アーデルベルト殿下はまだなんにも知らないし」
あの覇気のない従兄なら、どうでもいいかとばかりに受けるかもしれない。
全然、どうでもよくない。
しかし、身分の上ではこれ以上ない人材ではある。
愛よりも地位と名誉を取るか。
多分、浮気はしないだろう。
「むむむむ……」
フィロメーラは悩ましかった。
嫌いではないのだが、燃え上がるほど好きではない。
「ジーク兄様とじゃ年が離れすぎかしら」
アーデルベルトよりも条件がよい人材を探すとなると、そこはもう王太子であるジークヴァルトになってしまう。まだ婚約者はいないが、結構な競争率だ。年齢差はあるが、その分若いと考えたらよいような気もする。
しかし、父はボソリと言った。
「うん、年齢差もだけど身長差も……」
フィロメーラは都合の悪いところは聞き流した。
「アーディ兄様は学園にいるのでしょう? それならフィロも学園に行ってみようかしら?」
「え? 行くの?」
「飽きたら帰ってきますわ」
一年くらい、同じ年頃の子たちとわいわいやってみてもいいかもしれない。
そして、もしかするとそこにアーデルベルトではない別の運命の人がいるかもしれない。
こう、お淑やかに公爵令嬢であり続けるフィロメーラには、燃え上がるような恋愛や青春といったものが縁遠いのだ。ちょっとだけ自由に羽ばたいてみたい気もした。
「う~ん、大丈夫かなぁ」
父はどうにも煮えきらない。
愛娘が心配なのはわかるが、フィロメーラは優秀なのだ。
「フィロにできないことはありませんわ」
「そうかなぁ?」
父はふぅ、と嘆息した。
「わかったよ。食事にニンジンが混ざっていても泣いちゃダメだよ」
「泣きませんわ! ちょっと涙ぐむかもしれませんけど」
フィロメーラはもう立派な淑女なのだから、十分に学校に通える。
その決意をジークヴァルトに伝えると、出立前に何やら手紙を渡されたのだ。
「これ、アーディに渡してやって?」
「ええ、畏まりました」
多分、婚約についてのことが書かれているのではないかと思ったが、違うのかもしれない。
ただの世間話かもしれない。ジークヴァルトは時々、ちょっとわからないことをするから。