〈6〉気になること
アーディは寮に戻ってから自室で勉強していた。すると、窓をカリカリと引っかく音がした。
気づかないフリをしたが、やり過ごせなかった。
「オイ、開けんかい! せっかくワシが来たとうのに、なんて冷たい小童だ!」
小童とは言われ慣れない言葉である。しかも、猫から。
エーベルの使い魔ピペルは、よくアーディの部屋に来る。何をしに来るのかといえば、大体が愚痴をこぼしていくのだが。
ガリガリ、ドンドン。
窓ガラスが割れそうなので、仕方なくアーディはピペルを招き入れる。毎回このパターンである。
「今日はなんだ?」
すると、ピペルは背中から生やした黒い羽で飛び、アーディのベッドの上に着陸した。ふんぞり返り、両手を後ろに突く。猫としてはあるまじき姿勢であるが、猫ではなく魔族だからいいのか。
「エーベル様が夕食に食べていたトマトソースをブラウスに零しよって、染み抜きに苦戦してこの時間になってしもうた」
「…………」
可哀想と言うべきなのかもしれないが、その言葉がとっさに出ないほどには平和に思えた。
しかし、それはアーディのせいだという。
「おぬしがエーベル様を放っておくからそういうことになる」
「ヨダレかけでもしとけよ」
アーディが放ったひと言は正論のはずが、猫は受け入れなかった。
「つまらん、とぼやいておったぞ。正直に言って、エーベル様は性格こそ悪いが、天才ではある。こんな学園になんぞ通わずとも、『ご先祖様』くらいにはなれる」
ご先祖様というのが不穏そのものである。
エーベルの先祖は、世界征服を企んでいたとされる悪の魔術師、フェルディナント=ツヴィーベル。
ただし、このことを知るのは学園でもほんの一握りで、生徒ではアーディ、ヴィル、それからエーベルの幼馴染のレノーレだけである。他の生徒たちにとって、エーベルは王子様らしい。
「そのご先祖様みたいになったら絶交だからな」
世界征服を企まれたら、アーディの父親である国王が追い落とされるのだ。絶交に相応しい理由だろう。
しかし、ピペルはやれやれとばかりにかぶりを振った。
「エーベル様はな、学園に勉学を学びに来たわけではない。学園生活を楽しみに来たのだ。つまり、友達のおぬしが構ってくれないとつまらんのだ」
「ものすごく勝手なことを言われている気がするが」
顔が引き攣るが、それでもピペルは続けた。
「エーベル様のような紙一重は、善も悪も似たり寄ったりだからのぅ。どっちに傾くかはおぬし次第やもしれんぞ」
嫌なことを言うが、実際にそうなのかもしれない。
エーベルの基準は、楽しいか楽しくないかのどちらかだ。それなら、楽しいと思えば世界征服もしてみたいとか言い出しそうだ。
もし、そんなエーベルが飛び級をしてさっさと学園を去った場合、エーベルは卒業後にどのような行動に出るのだろう。不穏だ。
この時、ピペルはふんぞり返ったまま、どこかからかうような声音で言う。
「おぬし、近頃ヴィル嬢ちゃんに構いすぎじゃあないのかのぅ」
「は?」
「なんじゃ、無自覚か」
ケケケ、と急に魔族らしい邪悪な笑いを振り撒かれた。
「エーベル様はともかく、レノ嬢ちゃんみたいな美少女にくっつかれても顔色ひとつ変えんおぬしだからのぅ。いやいや、そうか。無自覚か」
なんだかとても、この黒い物体が部屋の中にいるのが耐えがたくなった。首根っこをつかみ、ポイッと窓から放り出す。いつもよりも遠くに放り投げてやった。
「僕は勉強の途中だ。邪魔をするな」
いつもなら薄情だなんだと喚き立てる猫が、この時は静かに引き下がった。多分、それくらいアーディの顔が怖かったのだろう。
窓を閉めると、再び机に向き直る。
この地道な勉強よりも、本当は気になっていることがふたつ。
ひとつは、エーベルが言った『この学園は変だ』という言葉。
どう変なのか。それに気づいたら飛び級するほど重要な何があるのか。
今のところ、アーディにはさっぱりわからない。しかし、エーベルが気づいたのなら、アーディの前にも同じだけの条件が提示されていたはずなのだ。
学園長はエーベルに答えを聞くなと釘を刺さなかった。アーディが訊ねないと思ったからだろう。
プライドの問題ではない。知ることがよいことかどうか、それがわからないだけだ。
そして、もうひとつ。
ヴィルは面倒見がよすぎる。クラス長だからという責任感からだろう。
もちろんそれはわかるけれど、アーディにはそこまで他人に親切にできる理屈が理解できない。
アーディは、ヴィルの見返りを求めないところがすごいと思う。尊敬できる友人だと感じる。だから困っていれば助けようとする。それと同じような感情がヴィルにもあるのだろうか。
あの五人を尊敬するような何かが。いなくなっては寂しいと思う親愛が。
なんとなく、嫌だなと思った。