〈8〉学園へ
ふと、何故だかこんな時に、アーディは学園へ入学する前夜に父王と話したことを思い出していた。
日々、忙しい父王に時間を割いてもらうのは難しかった。
アーディはなるべく手短に済ませようと、ギリギリになって就寝前の父王の寝室を訪ねたのだ。
『――父上、しばらくおそばを離れますが、どうぞご壮健にお過ごしください』
すると、父王は焦げ茶色の髭の下になった口元をニヤリと歪めてみせた。酸いも甘いも噛み分けたような、嫌な笑い方だ。
『学園は四年、それも全寮制だ。長く会えぬ父に、そう型通りの挨拶で済ませるのはいかがなものかな』
『母上と兄上にもこんなものでしたが?』
淡々と返すと、父は不満げに半眼になった。そんな顔をされるほど変なことを言ったつもりはないが。
『三つの頃までは無邪気で可愛かったというのになぁ』
『四つで立場と世の中を知り、無邪気は卒業致しました』
『…………』
真顔の息子に、父王は首を振って嘆息する。が、十五にもなって無邪気な息子というのもそれはそれで問題ではないのか。
父王は、表情筋の動かない息子に、手本を見せるようにして笑う。
『お前が知っている世の中などはほんの一部。氷山の一角に過ぎぬのだよ。アンスール学園へ入学するお前は、今までの人生で培ってきたものだけでは通用しない事態に直面することもあるだろう』
『はぁ』
『あの学園が我が国にとってどういう意味を持つ場であるのか、その身をもって知りなさい』
この時のアーディには、父王の言わんとすることがよくわからなかった。
アーディが乗り越えられないとしたら、それは人間関係だろう。王族相手に、必要以上に気に入られようと絡んでくる手合いが多いと疲れる。
身分は隠しているつもりだから、それさえ知られなければ大丈夫だとは思うけれど。
ただのアーディにつきまとう者などいない。
王族であることが、アーディの最大の価値であるはずなのだ。
『アーディ、学園でよく学びなさい。困難も切り抜けて、胸を張って卒業してきなさい』
一国の王たる度量を持つ父だ。その父が言うことに、まったくなんの意味もないのだとは思わない。
きっと、学園で学んだアーディがひと回りもふた回りも成長して帰ってくることを願っている。
父の期待にはできることなら応えたい。反省文ばかり書かされて退学処分になんてなりたくない。
常識を覆し続けるのは、同じクラスにエーベルがいるせいだ。
それがなければ、もっと平穏で、退屈な、飽き飽きするほど退屈な学園生活になったはずなのだ。
「アーディ! ピペルが!」
怪物の指につままれた状態で目を覚ましたピペルは、ひぎゃぁあああ! と悲鳴を上げた。猫らしくない悲鳴であるが、だからこそ素の叫びなのだろう。
可愛くない声で叫んだ猫っぽい生き物を、怪物たちはじっと見つめた。ピペルは、巨人やドラゴンの視線に耐え兼ね、フッとまた死んだフリをした。こんなことならエーベルの部屋で大人しく洗濯物を畳んでいればよかったと後悔しているはずだ。
怪物たちはというと、ピペルをじっと見たまま何か考え事をしているように見えた。
やはり、あの怪物たちは大人しい。歩く足音だけがドシンドシンと迷惑だが、狂暴ではないのかもしれない。
アーディは一か八か、覚悟を決めた。
「おい、エーベル、あの怪物たちにもう少し近づけるか?」
「えぇ?」
「うん、まあ、いざとなったら逃げられるように、少しだけ」
アーディが言うと、エーベルはふふぅん、と変な声を上げた。
「まあ、アーディがそう言うならいいや。行くよ」
そよそよそよ、と風が僅かに吹いて背中を押すような速度でエーベルは魔術陣を前方へ動かした。怪物たちは警戒と興味とを込めて二人を見ているような気がした。
アーディは魔術陣の上で覚束ないながらに立ち上がると、なんとかして怪物たちに言った。
「その猫っぽいヤツ、僕たちのツレなんだ。返してくれないか?」
言葉が通じるのかどうかもわからないながらに、アーディは言った。
怖気づいていると思われてはいけない。精一杯の強気を保っていたつもりだ。
怪物たちは顔を見合わせていた。思えば、巨人だのドラゴンだのが仲良くしているのも変な気がする。創世神話なんかに出てくる怪物たちは大体争っているのに、この怪物たちはどうも仲間であるように見えた。
巨人はアーディの言葉を解したのか、こくりとうなずき、指でつまんでいたピペルを放り投げた。
しかし、放り投げられたピペルは気を失っており、落下した。
魔族とはいえ、無防備に落ちたら怪我をするかもしれない。
「エーベル!」
とっさに叫んだ。エーベルは、ホイきたとばかりに魔術陣を飛ばした。
――だが。
あまりにも急発進したせいで、立っていたアーディの方がバランスを崩して落ちたのである。
頭から、夜空に真っ逆さまだった。