〈5〉非常事態
防災訓練開始のベルが鳴ってから、一時間ほどは静かだった。問題集が捗る。これなら最初から午後七時開始にしておけばよかったものを、どうして六時としたのかがよくわからない。
アーディのペースだと八割方終わっていた。この調子で行くと、あと十五分もすれば終わるだろう。
そうしたら、少しゆっくりしようか。読みかけの本もある。
そんなことを考えてしまったのがいけなかったのか、何がいけなかったのか。アーディの部屋の窓がガタガタと鳴った。
カーテンを引いておくことという決まりがあったので、何が窓を鳴らすのかがわからない。これも防災訓練の一環なのだろうか。アーディが思わず手を止めて呆けていると、さらに窓枠をガチャガチャと鳴らされた。いつもここから出入りするのはピペルである。まさか――
外を見てはならないという決まりを、アーディは破りたくなかった。しかし、窓が外から開いた。鍵はかけてあったはずだが。
「アーディ! もっと早く開けてくれないト!」
ぷぅ、と頬を膨らませたエーベルが、あろうことか空に浮いている。いつもの虹色の魔術陣が足元にあった。エーベルはこの学園で教えてもらえそうもない術を使い、空を飛ぶ。いや、できるからといって今やってはいけないところだろうに。
アーディは脱力した。
「……第一、防災訓練開始のベルが鳴ったら部屋から出ないこと。第二、小冊子にある問題集をすべて解くこと。第三、地震を想定した揺れがあるので、頭の上に物が落ちてこないように部屋を片づけること。だ――」
小冊子の注意事項を読み上げてやると、夜に浮かぶエーベルはかぶりを振った。
「冊子なら終わった。ソーじゃなくて!」
終わったのか。あの分厚いのが。
そこに感心してしまうが、まず外へ出るなという言いつけを破っている。
だが、エーベルはいつになく表情が険しく見えた。
「しかし、なんらかの非常事態が起こった時は個々の判断に任せる。命を守る行動を――だ。アーディ、非常事態だから手伝ってよ!」
「は?」
訓練で非常事態が起こるわけがない。
そのはずが、起こり得るらしい。ただし、エーベルの言うところの非常事態だから、カップに入れてあったミルクを絨毯の上に零した程度の非常事態かもしれない。
アーディは嘆息した。
「ピペルに手伝ってもらえばいいだろ?」
わざわざ自分を巻き込むなとばかりにアーディが突き放すと、エーベルは魔術陣の上で地団太を踏んだ。そんなところで地団太を踏んで突き抜けないかとハラハラするが、平気なようだ。
「そのピペルが非常事態なんだ!」
「へっ?」
「ピペルが連れていかれちゃって、急いで追いかけないと!」
「だ、誰に?」
「知らない。よくワカンナイ」
防災訓練にかこつけてどこかでサボっているだけではないのか。しかし、それくらいならエーベルだって見抜けるだろう。
「ああ見えて猫じゃないんだ。自力でなんとかできないのか?」
いざとなれば翼を生やして飛べる。しかし、エーベルの様子を見ると、深刻なように見えた。
「多分、自力じゃムリだ。だって、ずごーんってなってて――うわっ!」
エーベルが驚いたのは、まさにこの時、地響きがしたからだ。浮いているエーベルまで揺れないはずだが、寮の部屋の中にいるアーディが揺れたから驚いたのだ。どういう原理なのかはわからないが、本当に地震のようにして建物が揺れる。
こういう時は机の下に潜るのだったか。
「おい、エーベル、部屋に入れよ。そこにいてレンガでも落ちてきて頭に食らったら、お前はますます馬鹿になるぞ!」
「えー。ボク、急いでるんだよ。アーディが来てくれないなら、ボクだけで行くしかないナァ。飛行の魔術陣を操ってたら、ボク、他のことに集中しにくいんだ」
「……」
「非常事態なんだよ。反省文書いてる場合じゃないんだよ」
「……」
ゴーン、ズゴーン、と地揺れが続く中、アーディは渋々机の下に潜るのを諦めた。
エーベルの言うことなんて信じる方がどうかしている。どうせ暇を持て余して抜け出してきただけ。そんなふうに思うくせに、何故かエーベルに向けて手を差し出していた。
もし、ここで手を貸さなくて取り返しのつかないことになったらという考えも否定しきれないのだ。
そんなことになるのなら、反省文を書いて退学しても家族に笑われるだけで、アーディの将来に影が差すわけではない。笑われるのはかなり嫌だけれど。
「たいしたことなかったらぶっ飛ばすからな!」
エーベルはほっとした様子で微笑むと、アーディの手を取って魔術陣へと引き上げる。その笑顔には、アーディとレノーレ以外の人間を昏倒させるくらいの威力はあったかもしれない。
「ありがと、アーディ。だからスキ」
「いいから、急げ」
「ほーい」
急に、まるでハイキングにでも出かけるような気やすさでエーベルは魔術陣を飛ばした。