〈4〉始まりのベル
防災訓練当日。
いつもと変わりなく授業を終えたが、皆が散り散りになる前にディルク先生に促されたクラス長のヴィルが皆に冊子を配って回った。
アーディもそれを一部受け取る。紐で閉じただけの簡単な冊子で、表紙には『防災訓練用小冊子』と書かれている。
「はい、皆、冊子の一ページ目を開いて目を通してください」
ディルク先生が教壇から言った。皆、素直に冊子を開く。
そういえば、ディルク先生に反抗的な生徒というのはあまりいない。もともと育ちのいい生徒ばかりだからというのもあるが、なんというのか、童顔なせいもあって従わないと可哀想な気になるのかもしれない。そんなことを生徒に心配される年齢ではないとしても。
アーディはその一ページ目にあった注意書きに視線を落として読み始める。
まず――
・防災訓練開始のベルが鳴ったら部屋から出ないこと。
・小冊子にある問題集をすべて解くこと。
・地震を想定した揺れがあるので、頭の上に物が落ちてこないように部屋を片づけること。
・もし具合が悪くなった時でも余程でなければ動かずにいること。
・見回りの教員がいるので、扉の外から呼ばれたら部屋から返事をすること。
・部屋のカーテンを引き、外を見ないこと。
・しかし、なんらかの非常事態が起こった時は個々の判断に任せる。命を守る行動を。
「…………」
防災訓練で非常事態とはなんだろう。
命を守る行動をとは、命の危機に陥らないための訓練だろうに。
アーディは首を傾げたくなったが、誰も疑問を差し挟んでいなかった。フンフン、と冊子を読んでいる。エーベルでさえそうだった。
エーベルが手にしている冊子が他のと違って妙に分厚いのに気づいたが、あえて突っ込まない。
この注意書きもあまりこだわらず、フンフンと納得したフリをして読んでおけばいいのかもしれない。アーディはきっと真面目過ぎるのだ。
「では、開始の時間は午後六時。終了は八時だけど、予定なのできっかりに終わるとは限らないから、八時になってもベルが鳴るまでは念のために動かずにいるんだよ」
ディルク先生も訓練だからと力を抜いているふうではない。いつになく張りきって――というのか、真剣だ。エーベルみたいな生徒の担任だから気苦労も多い。
「じゃあ、皆、また明日。しっかりと防災訓練に取り組むように」
念を押され、そこで今日の授業は終了となった。
エーベルの取り巻き連中はダリィだのウゼェだの言っていたが、そんなことを言いつつも反省文など書いたこともないのだから、案外普通の生徒である。真面目なアーディが一年生にして二度も反省文を書かされたのは、すべてエーベルのせいなのだ。
「アーディ、晩御飯は何にする? ボクはさ、無性に甘いモノが食べたいんだ」
エーベルは席から立つなり、そんなことを言ってクルリと回った。意味がわからない。
「夕食に甘いものを求めるな」
「ナンデ?」
「体に悪い」
アーディが言うと、エーベルは大げさに仰け反った。
「アーディ、言うことがおじいちゃんみたいだ。でも、そういうところもスキ」
誰がジジイだ。
イラッとしたアーディが顔を引きつらせていると、ピペルはうなずいてアーディの肩を持った。
「そうですにゃ。甘いものはご飯にはならないですにゃ。エーベル様はそのところをちぃっともわかってくれないですにゃん。そんなだから、いつまで経っても脱いだ服の一枚も畳めないおこちゃまなのですにゃん」
本音が、漏れている。
ピペルの背中にエーベルの靴底がめり込んだが、こうしたやり取りを見たのは何度目か。ピペルの失言癖は少々痛い目を見たくらいでは治らないらしい。
結局、エーベルは夕食にパフェを諦め、トマトソースのパスタを頼んでいた。ただ、運ばれてきたパスタにシュガーポットの砂糖をサラサラとかけていた。
――甘ければなんでもよかったのか。
とにかく糖分を取りたかったらしい。味が美味しいとは思えないけれど。
それでもエーベルは普通に食べていたので、もう何も突っ込まなかった。
そして、部屋に戻ると時刻は午後六時に近づいていた。五分前になると、出歩いている生徒がいないか確認に先生たちが回っていた。
「アーディ=バーゼルトくん」
ノックの音と共に呼びかけられた。ディルク先生の声ではない。他の男性教師だが、誰だか知らない。
「はい」
中から返事をすると、よろしいという声がした。
それからしばらくして、チャイムとは少し違った、ジリジリとけたたましいベルの音がした。
これが防災訓練開始の合図だ。
アーディは机に向かい、冊子を開いて問題に取りかかる。学年でも成績上位のアーディにとってはそう難しい問題集ではなかった。サラサラと勢いに乗って問題を三問ほど解いた時、エーベルがどうしているのかが気になったけれど、軽く頭を振って飛ばした。
今は目の前の問題集のことだけ考えたい。
防災訓練というより試験じゃないかこれは、という気もしてきたが、そういう指示があるのだから従うしかない。
どうか、エーベルが何かやらかすとしても、こっちに回ってきませんように――
アーディはそれをいつだって祈っている。