彼の世界
夕方、辺り一面がガソリンの海だった。
深夜、辺り一面が火の海だった。
明朝、辺り一面が焼け野原だった。
この世界に一体何が起こったというのだろうか。宇宙からの侵略者が攻めてきたのかもしれないし、聖書の時代以来の天変地異が起きたのかもしれない。ただ一つ確かに言えることは、たった一晩で、人類を含む数多の動物がほとんど死に絶えてしまったということである。そう、世界は『終わった』のだ。ほんのわずかな人々と、少しばかりの動物を除いて。
「んんん……ん」
太陽が真南に昇り切った頃、一人の男が半日の眠りから目覚めた。
「ふああ……。なんだ? 冬だっていうのに、えらく汗かいたんだな。よっと」
汗でまとわりつく寝間着を上下ともに脱ぎ棄て、下着一枚だけとなった男がベッドから起き上がる。
「ううっ。寒い、寒い」
目覚めたばかりの彼は、おぼつかない足取りで、よろよろと壁に手をつけながら目的の場所へと歩いて行く。そのまま目的の場所、便所の扉の前までやって来て、中へと入った。
用を済ませた男が水洗のレバーを捻る。
水は流れない。
「あれ? 壊れてんのか。修理呼ばないとな……まあ、後でいいか」
面倒くさそうに便器の蓋だけを閉めた男は、手を洗うこともせずに便所を後にした。
寝室に戻ってきた男は、外がやけに静なことに気付く。様子を確認しようと、彼がカーテンに手を掛けた瞬間、その隙間から、
「うお!」
黒く光沢のある、恐らくは世界一の嫌われ者である昆虫が飛び出した。カサコソと壁伝いに床へと降りたそれを、男はベッドの下から拾い上げた古雑誌で叩き潰した。液体とも固体とも区別のつかない白い物体を潰れた頭から滲ませながらも、その虫けらはまだ足をピクピクと動かしている。男はそれを素手で掴み、そのままゴミ箱へと放り込んだ。
「ったく、驚かせやがって。昨日で全部殺したと思ったのにしぶとい奴らだ。他の生き物がみんな滅んでも、こいつらだけは平気で生き残りそうだな。本当に」
男は溜息混じりにぼやきながら頭を掻き、大口を開けて欠伸する。
「騒いだら疲れちまったよ……もういっぺん寝るか。ならこの静けさも、ちょうどいい」
言って、男はベッドの上で横になり、布団の中に潜り込んだ。そして十秒と経たない内に、寝息を立て始める。
世界は終わった。男の世界は終わらない。再び目覚めた男がカーテンを開けない限り、或いは外へと足を踏み出さぬ限り、彼の世界は続いていく。今日もまた、何も変わることなく。