※6
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うずくまっている少女の年の頃は15~16。大きな角襟のついた袖のないワンピース姿。この季節、この世界の高校生が好んで着る服だ。服の色は白。手で耳をふさいで、必死に目をつむっている。東洋人離れした横顔。この少女の髪も、どかした死体と同じような栗色をしているが、やや明るい。血に汚れていない桜色の腕が小刻みに震えている。丸めた背中の律動から、しっかりと呼吸しているのが分かる。
「怪我は、してませんか?」
声をかける数馬。しかし、返事はない。呼吸に合わせて背中が動いているだけだ。
「もし……?」
少女の二の腕に優しく触れる数馬。
「きゃああああああああああああああああ!」
次の瞬間、少女がかっと目を見開いて、大きな悲鳴を上げた。トイレの壁や天井が振動するかと思うほどの声だ。
「どうした!」
と、店主の声がトイレの外から聞こえる。
「いや、だいぶおびえています」
答える数馬。
〈お~い! どうしましたか~? 化け物が出たんですか~? ワタシを助けられそうですか~?〉
男性の声も聞こえてきた。
「だから、助けますから! 静かに待っててください!」
男性に怒鳴りつける店主。女性の悲鳴で気持ちがざらついたようだ。
少女の腕をつかんで強引に引きずり出そうと試みる数馬。のんびりしてはいられない。
「いやああああああああああああああああ!」
悲鳴を上げる少女。丸まったまま、戸の下から引きずり出される。
少女の全身が出たところで、手を放した数馬。しかし、少女は、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように、ぱたぱたと赤ん坊の〈はいはい〉をしながら、
「お兄ちゃあああああああああああああん!」
引っ張り出された方向に戻り、栗髪の死体にしがみついた。
突き出た少女の尻を見て、目を背ける数馬。一部が血で染まった白地のロングスカートの尻部分が茶色く汚れていたからだ。明らかに糞尿だ。
(よほど恐ろしい目に……)
遭ったのにちがいない。そう思いながらも向き直り、少女の腰を右手で抱え、引きずり出そうとする数馬。
「いやあああああ! お兄ちゃん! お兄ちゃあああん!」
泣き叫ぶ少女。兄と呼ぶ死体のジャケットを両手でつかんで放さない。
「サト! 大丈夫か! 連れていけそうか?」
「大丈夫です! 連れていきます!」
「早くしないと、ヌエが来るぞ! こちらもやられてしまう!」
「はい!」
焦る数馬は、少女の兄と見られる死体のジャケットを脱がせることにした。
自分の頭で戸を支え、両手を自由にすると、死体の背中にしがみつく少女をよそに、死体から左袖と右袖を脱がせていく。
完全に脱げたところで、死体のズボンをまさぐる数馬。定期入れか財布のようなものが手に触れた。それを取り出し、腰のポーチに入れると、少女を抱えて持ち上げる。
「いやあああああ!」
叫びながら、脚をじたばたさせる少女。ジャケットは両腕でしっかりと抱えられている。
〈ズダンッッッ!!!!!〉
銃声がトイレに響く。店主の散弾銃だ。少女の動きが一瞬止まる。
〈ズダンッッッ!!!!!〉
銃声がもう一度聞こえてきた。
「おい! 頼む! 早くしてくれえ! 猟銃の弾が1発しかない! 厳しいぞ!」
店主の悲痛な声が聞こえてきた。
「はい!」
と、返事をした数馬は、右腕で少女を抱えたまま、左手で戸を静かに元に戻した。
「う……う……ふぶう……ぐすっ……う~……う~……ああああああ~」
泣き出す少女を右脇に抱えて、慎重に戸の上に乗る数馬。渡り終えると、少女を優しく床に置き、女性用トイレに向かう。
「待て、サト! どこへ行く! 待ってる人はそっちじゃないだろ!」
銃口をトイレの外側に向けたまま叫ぶ店主。
「まだ、他にも生きている人がいるかもしれません! 探してきます!」
「勘弁してくれ! 死にたいのか! 弾が終わるぞ!」
「この子みたいに声を出せない人がいるかもしれません。お願いします、行かせてください!」
と、言う数馬をじっと見る店主。それは、一瞬だったが、数馬には、それがとても長く感じた。
店主のすさまじい威圧感。
(あの人は、今、戦場にいる……)
店主がかつて海外を渡り歩き、傭兵のようなことをしていたことは聞いていたが、数馬はそれを直に感じた。
「その銃を貸せ!」
「あっ、はい!」
背中に提げていた小銃を差し出す数馬。店主は、散弾銃を乱暴に押しつけながら、同時に数馬の小銃をひったくるようにして受け取った。
「何発入ってる!?」
早速銃口を外に向ける店主。
「4……、あっ、3発です」
「予備の弾は!?」
「あっ、はい……」
腰袋から予備のマガジンを取り出すとおずおずと出す数馬。
「早く行ってこい!」
と、言って、マガジンをひったくるように取る店主。それを腰のベルトに挟み込むと、銃口を外に向けて構えた。
〈ダタンッ!〉
早速発砲する店主。離れたところにヌエがいるようだ。数馬は、店主の足元にそっと散弾銃を置いた。
少女は兄のジャケットを抱きしめ、床にへたり込んだまま泣いている。
丸腰のまま、女性用トイレへと進む数馬。通路の角から改めて中をのぞき込む。右側の洗面台から個室の前の床にかけていくつかの死体が転がっているが、多目的トイレほどの数ではない。
数馬が衝撃を受けたのは、一番奥の2つの個室だ。人が立ったまま、扉にもたれかかって死んでいる。個室に人が殺到し、扉が閉まらなかったのだろう。
奧の個室に歩み寄る数馬。扉の前に転がっている死体をどかし、立ったまま絶命している死体を取り除く。死体は、左の腕と膝下がひどく損傷している。ヌエにかみつかれたのだろう。
その死体を抱えて静かに床に降ろす。奥にいた死体がずるりと崩れた。誰も息はしていないようだ。至る所に刺し傷がある。ヌエの恐ろしさを肌で味わった数馬は、ヌエの尾の先で刺されたのだと直感した。
〈ヒョロロロロロロ……〉
〈ダタンッ!ダタンッ!〉
ヌエの鳴き声と店主銃声が聞こえてくる。
隣の個室も同じような惨状だ。扉につっかえるように仰向けに倒れている死体。それを丁寧にどかすと、奥にいる死体の重みで扉が閉じようとする。その隙間からのぞき込むと、うずくまったまま絶命している死体が3体。皆、脚にひっかき傷と、体に刺し傷がいくつもある。
死体のひとつは、目がえぐられている。
左側には個室が4つ。1番手前の扉は閉まっていて、そばに靴を履いたままちぎれた足が転がり、扉の下からは、そのちぎられた脚の方がのぞいている。
扉の上枠に両手をかけ、体を引き上げる数馬。
上から個室の中をのぞき込むと、洋室便座にもたれかかり、目を見開いたまま上を向いて絶命している女性が見える。下着は脚に下げたままだ。用を足している間に襲われたようだ。膝下にいくつものひっかき傷がある。ヌエが扉の下から前足を突っ込んだのだろう。
隣の個室も扉が閉まっている。上からのぞき込む数馬。頭を壁に打ちつけ、洋式便座にまたがるような格好で死んでいる。体にはいくつもの刺し傷があった。
次の個室は、扉が開いていた。中には誰も入っていない。しかし、そばには、頭と手を扉の方へ向けて倒れている死体がある。扉にたどり着く前に襲われたのにちがいない。
最後に残った入り口そばの個室をのぞき込む。洋式便座を囲んで3人が抱き合うようにして倒れている。扉のそばの死体には、脚にいくつものひっかき傷があり、また、どの死体にも刺し傷があった。その時の状況が目に浮かぶようだ。
最後に用具入れの扉を開ける。人はいない。無造作に置かれた清掃用具と、白く大きな流し台があるだけだ。
女性用トイレをあとにする数馬。
「気が済んだか?」
声をかける男性店主。
「はい、ありがとうございます」
と、数馬は礼を言った。
『まだ、時間かかりそう?』
女性店主からの無線が入る。
「あと男子トイレだ。そしたら戻る」
と、男性店主。
「おかみさん。この無線、みなさんにも聞こえてるんですか?」
と、数馬。
『うん、そうだけど……』
「じゃあ、あとでお願いが……」
『わかった。気を付けてね……』
「はい」
返事をした数馬は、男性用トイレに向かっていた。
状況は、女性用トイレと若干異なっていた。トイレの通路の手前に、いくつもの死体が折り重なって倒れている。
死体を踏むのを避け、不安定な立ち方をして、中の様子をうかがう数馬。左側に7~8据えの小便器、右側には個室が4つ並んでいる。
その奥には、町方、つまりわれわれの世界でいう警官が壁を背にし、尻を床につけた状態で死んでいる。うなだれているように見えるのは、頸椎を食いちぎられているからだ。股間から陰部があらわになっている。用を足している真っ最中にヌエが侵入してきたようだ。その右手には、銃身の短い回転拳銃が握られていた。
警官の真後ろには、3人の男性。警官の背後にかばわれるようにして死んでいる。
数馬は、足元に折り重なっている死体をよけながら、トイレの中に進み、個室の中を上からのぞき込んだ。
〈ヒョロロロロロロ……〉
遠くからヌエの鳴き声が聞こえてくる。
1つ目の個室には、隅に縮こまったまま絶命している死体があった。この死体も、女性用トイレの個室で見たのと同じように、体の至る所に刺し傷がある。
2つ目の個室は、扉が開いたままだ。人はいない。
そして、3つ目の個室を上からのぞき込む。中の男と目があった。
「た、助かったあ……」
蓋をした洋式便座の上にへたり込む男。
「係長! 僕です! 佐藤です!」
「佐藤か!? どうしてここに!?」
便座の上にしゃがんだ状態で見上げる男。
「探しに来ました!」
「えっ!? こんな危ないところに……? お前が!?」
「説明はあとです。出ましょう」
と、言って、扉の上枠から手を放し、床に着地する数馬。
「あっ、ああ……」
と、言いながら、係長こと鈴木は、扉を開いた。
「こ、これは……」
辺りを見回して嘆息を漏らす鈴木。目の当たりにした地獄絵図に、顔から見る間に血の気が失せ、口をわなわなと震わせている。震えているのは口だけではなかった。足も震えている。
〈ダタンッ!ダタンッ!〉
店主の銃声にびくっと肩をすくめる鈴木。
「おい、いい加減、早くしろ!」
店主の怒鳴り声が聞こえる。
「係長、これを……、身を守るものを……」
と、数馬は、ヘルメットを脱いで、鈴木に差し出した。
「ああ、すまん……」
受け取る鈴木。
(これなら、彼女の臭いに気付かれないだろう……)
数馬は、鈴木を気遣ったわけではなかった。糞尿を漏らしてしまった少女に対する気遣いだった。
数馬は、4つ目の個室を確認した。ここにも誰もいない。
「さあ、係長、行きましょう」
鈴木の腕を引く数馬。
「あっ、待ってくれ。俺にも身を守るものを持たせてくれ……」
鈴木は、おそるおそる警官の死体に近づくと、両手を合わせてしゃがみ込んだ。死体の右手から拳銃を引きはがしている。
その間に数馬は、用具入れの扉を開けて確認した。誰もいない。
「すまん、待たせたな!」
と、言って、立ち上がった鈴木。次の瞬間、その右手が紐に引っ張られた。拳銃の吊り紐がついたままになっている。慌てて外しにかかる鈴木。数馬も駆け寄ってそれを手伝う。
〈ダタンッ!ダタンッ!……ダタンッ!〉
「おい、何をしている! 帰れなくなるぞ!」
トイレの外からは、男性店主の怒声が聞こえる。
〈ヒョロロロロロロ……〉
ヌエの鳴き声がしきりに聞こえてくる。
拳銃の吊り紐をようやく取り外した鈴木。それを見て、先に立ち上がり、トイレの出口に向かおうとする数馬。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
後ろから鈴木が引き留めた。
「何やってんだ! 頼むよ! 死ぬぞ!」
店主の怒鳴り声が聞こえる。
足を止めた数馬に、鈴木が駆け寄る。
「そこにいるの、広瀬だよ。遺品を持ち帰らせてくれ……」
鈴木が言った。
数馬の足元に折り重なっている死体。皆一様に、頭をトイレの中に向けて倒れている。駆け込んだ時に、後ろからヌエに襲われたのだろう。
上の死体は仰向けに倒れ、恐怖で目を見開いた状態で時間が止まっている。うずくまるようにして絶命している死体もある。
その下に複数ある死体は、腹ばいのまま押し倒された形で倒れている。
その一番手前に、首を大きくかじり取られ、伏せて倒れている死体がある。頸椎がない。骨をかじり取られ、皮膚だけで首がつながっているようだ。ヌエの顎の力は相当強いことが、容易に想像できる。
その1体にしゃがみ込んで手を合わせる鈴木。
「ああ、こんな姿になっちまって……」
鈴木が声をうるませて天井を仰ぐ。
〈ダタンッ!ダタンッ!〉
「おおい! 頼む! 弾が終わるぞ!」
店主の声が少し上ずって震えている。言葉は穏やかだが、その口調に怒りが込められていることは容易に分かる。
「はい!」
とりあえず返事をする数馬。鈴木は、それを気に掛けることなく、広瀬の上半身を抱えると、引きずり出し始めた。
鈴木が自分の両手をかばいながら、肘を使って広瀬を抱えていることに気付いた数馬。手のひらがどす黒く乾いた血で汚れている。
「係長、その手は……?」
数馬は、死体を引き出す鈴木を手伝いながら、そう聞いた。
「化け物の尾をつかんだら、切っちゃってね……」
まるでたいしたことがなかったように説明する鈴木。しかし、その時修羅場だったことは、数馬にも容易に想像できる。
広瀬の遺体をずるりと引き出す2人。広瀬の首がぐにゃりと不自然に曲がる。頸骨の一部がないからだ。
息を合わせたように一瞬手を止める2人。その時数馬は、同僚が〈人〉から〈物〉になったことを実感した。
「ふう……」
小さなため息をついて、意を決したように
遺体を引き出す鈴木。数馬も腕に力を込める。広瀬の頭がぶらりと垂れた。ピンクに染まった骨の一部が見える。
足まで引きずり出したところで、仰向けに寝かせる2人。広瀬の頭が振り子のようにぐらりと揺れる。
広瀬のジャケットやズボンのポケットを慌ただしくまさぐる鈴木。尻のポケットから財布を取り出すと、それを自分の胸ポケットにしまい、もう一度手を合わせた。
数馬もそれに合わせてさっと手を合わせると、鈴木よりも早く終わらせ、いまだ手を合わせている鈴木の腕を取ってトイレを出た。
「お待たせしました!」
と、男性店主に声をかける数馬。
「おい! 女の子を連れてもう一度トイレに隠れてもらえ! 修羅場になるぞ!」
数馬の小銃を構えながら怒鳴る店主。
その怒声に、数馬は焦った。外の状況を確認しようと、店主の脇から外の様子をうかがう。次の瞬間、1匹のヌエが空中から舞い降りてきた。
〈ダタンッ……!〉
発砲する店主。弾は残り2発。頭部に被弾したヌエが、銃声と同時に転がり落ちた。「もたもたしてる間に囲まれちまった……。そこの2人は、早く隠れる! サトは散弾銃をと取れ! まだ1発あるはずだ!」
指示に従い、店主の足元に寝ている散弾銃を手に取る数馬。
「2人! 早く隠れろ! サト! お前のは、引きつけてから撃て! いいな!」
しかし、鈴木も少女も呆然としたまま動こうとしない。恐怖に凍り付いているといった様子だ。
〈ダタンッ!〉
正面からすたすたと近づいてきたヌエの脳天に弾を撃ち込む店主。ヌエが静かに倒れる。
弾は残り1発。
依然として、正面の暗がりには、2匹のヌエの姿がぼやっと白く浮かび上がっている。距離はかなりあるが、軽率に動けば襲われることは、その場にいる誰もが分かる。うち1匹は足を引きずりながら、ひょこひょこと動いている。数馬がトイレを確認している間、店主が撃った1匹だろう。
「ヌエも弾も2つ。外したら、組み付いて……刃物で殺るしかない……」
店主の声がわずかに震えていた。追いつめられている店主の気持ちが、数馬にも伝わる。
そう思った瞬間、腰回りから脳天まで、震えがぶるっと数馬に走った。




