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「ねえ! 則光(のりみつ)さん! 救急車!」

 女性店主が叫んだ。

 腰くらいの高さで停止したシャッターの左側に、血まみれの女性がしなだれかかるように組み付いていた。

 女性店主は、ガラス扉を解錠して開くと、引きずるようにその女性を店内に入れた。

「すみません……。だ、誰か、か、かかりちょうを……」

 と、うわごとのようにつぶやく血まみれの女性。

 女性のブラウスは、深紅に染まっていた。スカートやベストは濃紺だが、てらてらと塗れているところを見ると、全身に血を浴びているようだ。少なくとも全て本人の血ではない。そうだとしたら、生きていられるはずがない。

 女性は数馬に気付いた。

「さ、佐藤さん……。か、係長を、た、助けて……」

 女性は数馬の同僚だった。昼に上司と3人で昼食に出かけた女性社員だ。女性店主に抱えられるようにして力なく立っている。

「サトちゃんの知り合い?」

 訪ねる女性店主。

「はい、会社の同僚です」

 と言って、歩み寄る数馬。

「た、助けて、係長を……」

 数馬にすがりつく女性社員。

 数馬は、女性を引きはがすようにして女性店主に預けると、自分の手を女性の肩に置き、うなだれる女性の顔をのぞき込むようにして尋ねた。

「係長はどこ? 広瀬は?」

 広瀬とは昼食に出かけたもう1人の男性社員だ。

 女性は、ただ扉の外のやや左側を指で差すばかりだ。その手は小さく震えている。

 女性の肩から手を放し、射撃場の扉へ向かう数馬。

「おい! サトちゃん! 持ち出し3年、発砲5年! 所持資格の停止! 軽率なことはするな! 危ない!」

 男性店主が受話器を持ったまま数馬を制した。実弾の持ち出しや所定の場所以外での発砲は、法律違反になるという意味だ。

 数馬は、店主の言葉を聞いて足を止め、少しいらだたしそうにきびすを返す。そのまま正面入り口に駆け寄ると、ガラスの扉を開けてかがみ込んだ。

 シャッターの下から首を突き出し、左右を見て外の様子をうかがう数馬。通路は広いが薄暗い。節電のために照明を一部消しているためだ。

 〈ヒョー、ヒョー……〉という鳥のような鳴き声、人の悲鳴や叫び声が、どこからともなく小さく聞こえてくる。

 左手奧に見えるエスカレーターには、人が折り重なって倒れているようだ。薄暗くてはっきりと見えないが、人以外には考えられない。薄鼠(うすねず)色の通路の床にどす黒い液体のようなものがたまっている。血だ。

 通路は静まりかえっている。

〈……政府から全国に非常事態宣言が発令されました。各州で軍隊が出動しています。みなさん、お近くの建物の中に避難してください……〉

 むしろ店内から漏れてくるテレビの音の方が大きい。

 それでも耳を澄ましていると、〈チキチッ、チキチッ、チキチッ……〉というリズミカルな音が聞こえてきた。数馬には聞き覚えがある。硬い床を走る犬の足音、あるいは爪の伸びた家猫の足音。

 次の瞬間、ほの暗い通路の向こうから、白い固まりが猛烈なスピードで向かってきた。

(!!!!!!)

 息をするのも忘れて、体を引っ込める数馬。後ろで何かが当たり、完全に身を引けない。

 焦った数馬は、体をひねり、自分を強引に押し入れた。外の様子が気になった客の女性が、数馬の後ろに立っていたのだった。

「戸を閉めて!」

 数馬が叫んだ。その声には、自分の逃げ道をふさいだ相手への怒りも込められていた。

 次の瞬間、白い固まりが正面入り口の前を滑って通り過ぎたかと思うと、格子状のシャッターに体当たりした。

 数馬の道をふさいでいた女性は腰を抜かしている。

「おかみさん! シャッター!」

 と、叫んでガラス戸を閉める数馬。

「あいよ!」

 女性店主がシャッターのボタンを押す。

「おかみさん! カギ!」

 数馬は、ガラス扉を押さえたまま、床を滑ってきた鍵を受け取る。

 しかし、〈ギギギ、ギギギ……〉と異音を立ててなかなか閉まらない。ヌエの体当たりでシャッターがゆがんだのだ。

「急いで!」

 と、施錠を済ませた数馬が叫ぶ。

「急いでるって!」

 と、女性店主。

「みなさん! 奧へどうぞ!」

 男性店主が、客を店内奥の射撃場へ誘導する。

〈ガシャッ!〉

 シャッターが再び大きな音を立てた。ヌエがもう一度体当たりしてきたのだった。

「だめだ! あきらめよう! サトちゃん避難、避難! おいでっ!」

 数馬を促し、射撃場へ向かう女性店主。途中、カウンターにいる男性店主に声をかける。

「救急車は!?」

「だめだ、つながらない。回線が混んじゃってる……」

「とりあえず奧に避難しよ?」

「ああ……」

 男性店主もカウンターを離れた。

「サトちゃん! 早く!」

 女性店主が数馬を呼ぶ。

 シャッターは、ちょうど膝辺りの高さで止まっていた。

 数馬は、何か心許ない感じがした。それは、他の人も同じ気持ちだろう。そこはかとない不安を覚えながら、数馬は、射撃場に向かった。

 射撃場に入った瞬間、女性に組み付かれた数馬。女性は、数馬の同僚だった。

「係長は!? 係長は!?」

「ちょっ、ちょっと待ってください、三浦さん!」

 女性を引きはがそうとする数馬。しかし、数馬が三浦と呼んだ女性はなおも組み付いてくる。

「助けて! お願い! こういう時のために兵隊ごっこしてるんでしょ!」

「ちょっと落ち着いてください!」

「役立たず! 見殺しにするの!? 何とかしなさいよ! 何のために鉄砲持ち歩いてるのよ!」

 わめく三浦を女性店主と男性店主が数馬から引きはがす。

「ちょっと、何をするの!? 放して! イヤァ!……」

 と、まで言って、三浦のわめきが突然やんだ。

 茜が三浦の頬を叩いたのだった。

「アナタのわがまま、一時的な感情で、他人(ひと)の命を危険にさらす気……? アナタがひとりで行くというなら、私、止めないけど……」

 と、茜。三浦は茜をきっとねめつける。

「さあ、座って……」

 射撃場の長椅子に座るよう三浦を促す女性店主。三浦の視線は茜に向けられたままだ。茜も目をそらさない。

 女性店主に付き添われて、ようやく長椅子に体を預けた三浦。

「大丈夫? 怪我(けが)はない?」

 女性店主の言葉に三浦はこくりとうなずいた。

 数馬は、しゃがんで視線を三浦と同じ高さにした。

「落ち着いてください。三浦さん……。何があったんですか?」

 と、数馬。

「3人で1階の洋食屋さんに並んでいたら、悲鳴がたくさん聞こえて……、見たら、白い獣が何匹も建物に入ってきて、人がいっぱい襲われて、係長に手を引かれて自動階段で地下街に逃げようとした……。でも、すでに人でいっぱいで、そこに猛獣が何匹も飛び込んでいって……。悲鳴がたくさん聞こえて……」

 三浦はそこで、声をうるませ、頭を抱え込んだ。三浦にその光景がよみがえる。


 エスカレーターに群がる人々。周囲はもちろん、手前にある上りにも、奧に見える下りも列ができ、もみ合いになっていたところに、ヌエが次から次へと飛び乗る。エスカレーターを上るヌエ、下るヌエ、人だかりの上を駆け回るヌエ。その鋭い爪が人々の頭や顔、首筋、肩をかき切っている。舞い上がる血しぶき、館内に響き渡る悲鳴や叫び声。三浦には、白い獣が血の水たまりを走っているように見えた。


「それで、係長は? 広瀬は?」

 話を促す数馬。

「……それで、係長が避難階段から逃げようって、私の手を引いて通路の脇に入ろうとしたら、係長が広瀬さんがついてこないことに気付いて、振り返ったら、後ろの方で倒れてて、係長が、君だけでも逃げるんだって、地階の射撃場に佐藤がいるから頼れって、避難階段の扉に押し込められて……、戻ろうと思ったんだけど、他の人も大勢入ってきて、引き返せなくて……」

「その血は……?」

「……地下の扉を開いたら、もう人がいっぱい死んでて……、血で滑って歩けなくて、何度も転んでここに来た……」

 三浦の息が荒い。この短時間で起きた地獄絵図を思い出してしまったのだろう。

「それで、係長は助けてくれるの?」

 数馬の服の肩をつかむ三浦。

「いや……。今すぐは……」

「無理だな……」

 数馬の言葉を男性店主が引き取った。

「店の前のヌエが増えてる……。3匹になった……」

 男性店主は、カウンター下のモニターを見ていた。防犯カメラのモニターだ。広角レンズで店内と入り口の様子がわかるようになっている。映像を切り替えることも可能だ。

「人でなし! どうして!? どうしてよ!」

 数馬に食いかかる三浦。

「しつこいわよ……」

 茜が三浦のベストをつかんだ。

 三浦は腹立たしそうに茜の手を払った。

「着替えませんか? こちらへどうぞ。お水もありますから……」

 三浦を促す女性店主。三浦はおもむろに腰を上げた。すっと立ち上がり、道を空ける数馬。三浦は、女性店主に従い、射撃場の通用扉から店の奥に入っていった。

 三浦が部屋を離れたことで、緊迫していた空気は少し落ち着きを取り戻した。

「すみません……、電話貸していただけますか?」

 ポーチから財布を取り出す若い女性客。その後ろには、連れ合いと見られる若い男性もいる。

「ええ、どうぞ、どうぞ……。つながりにくいようですけど……」

 と、電話をカウンターに載せる男性店主。

「ありがとうございます。つながらなかったら、伝言電話も試してみます」

「なるほど……。そうだ、受像器をみんなで見られるようにしておこうか……」

 男性店主は、カウンターの向こう側へ行くと、ごそごそし始めた。

 突っ立ったまま、周りを見回す数馬。カウンターの電話に並んでいるのは、若い男女2人。射撃台に寄りかかって射撃場内の様子を不安そうに眺めているのは少年。そして、長椅子には、茜が座っている。

 数馬と目があった茜は、自分の荷物を足元に置き、さりげなく座る位置を直した。ただし、もうひとつの長椅子も加えれば、隣でなくても座れる余裕はある。

 数馬が腰を下ろしかけたそのとき、男性店主から声をかけられた。

「サトちゃん、手伝ってくれる? 配線が平台の向こうで引っかかっちゃって……」

 テレビと防犯カメラのモニターをカウンターの上に出そうとしている男性店主。電話をかけている女性客に遠慮して、うまく動かせないようだ。

「あっ、はい……」

 数馬は、すぐに返事をして、それを手伝いはじめた。

「電話しなくて大丈夫か?」

 と、男性店主。

「あっ、僕はもう少し落ち着いてからでいいです……」

 数馬は、答えた。

 2人がテレビをカウンターに載せ終わったころ、女性店主が三浦を連れて戻ってきた。三浦はミリタリー風ファッションに身を包んでいた。軍服の方が機能的だが、そういったものを毛嫌いしている三浦は、断ったのだろう。女性店主は、水の入ったコップが載った盆を抱えている。

「水だけでごめんなさい。気の利いた飲み物を出したいけど、いつ外に出られるようになるかわからないから……」

 射撃台に寄りかかっている少年から、水を配りはじめる女性店主。三浦は、通用扉のそばでうつむいたまま立っている。

「そうだ。水を確保しておかないと……。いつ断水するかもしれんからな。サトちゃん、受像器出し終わったら、長椅子を平台に向けて〈く〉の字に、こう……、並べてくれるかな? そうすれば、みんなでテレビが見られるだろ」

 射撃場の壁から通路の中央、射撃台まで、長椅子のレイアウトを示して、つっと指差す男性店主。

「あっ、はい……」

 数馬の返事を聞くと、他の客にも手助けを依頼した。

「すみません。手の空いている方は、この人を手伝っていただけませんか? 私は、水を確保します」

 男性店主の言葉を聞いて、少年が動いた。

 電話のそばにいた若い男女も加わる。男性の方も伝言を済ませたようだ。

 しかし、三浦は、突っ立ったままだ。

 男性店主が女性店主に声をかける。

「若葉ちゃん、倉庫から戦闘食を出してきてくれないか? 俺は、在庫のタンクにありったけ水を貯めとく……。じゃあ、サトちゃん、あとを頼む」

「はい」

 残りの作業を数馬に任せると、射撃場の奧にある通用扉の向こうに消えていった。

「すみません、水、ここに置いておきますね!」

 と、皆に聞こえるように言うと、女性店主は、コップが載った盆を射撃台に置いて、男性店主についていった。

 配線を引き回しながらモニターをカウンターに載せる数馬。その隣には茜が来ていた。

 作業に集中し始めた数馬も茜も、三浦が鋭い視線を注いでいるのに気付かなかった。

「あっ、ありがとう……。田中さん……。もう、載せ終わったから、長椅子を並べようか」

 長椅子の移動作業に加わる数馬と茜。長椅子の上やそのそばに置かれてあった荷物は、他の客によって移動されていた。

「佐藤さん……」

 自分の名を呼ばれたような気がしたが、作業を続ける遊馬。椅子が床をこする音ではっきりとは聞こえなかった。

「サァトォーさん!!」

 呼ばれたのが自分の名前だと確信し、声のした方を見る数馬。他の客も手を止めた。

 空気がざわつく。

 数馬の視線の先に、茜の小銃を構える三浦の姿があった。その銃口が小刻みに震えている。

「お願い、係長を助けて……」

 三浦の声は、ややうわずっていた。

 他の客は、壁や射撃台の手前に寄ったり、射撃台の向こうに隠れたりしている。

 長椅子に手を置いたまま呆然と立つ数馬。その視界には、銃口を向ける三浦がいる。

 そして次の瞬間、その視界に茜の後ろ姿が入ってきた。

「田中さん……」

 と、数馬。背を向けたまま、その呼びかけを左手で遮る茜。

「私の銃を勝手に使わないで……」

 ぼそりと言って、三浦に1歩近づく。

「うっ……撃つわよ! 係長が助からないなら、私、どうなったっていいんだから」

「行きます! 行きますよ! 三浦さん!」

 叫ぶ数馬。

「よけいなこと言わない……!」

 と、茜。静かに、しかし強い口調でそう言うと、つかつかと三浦に歩み寄る。

「こ、来ないで! 私、本気よ!」

 後ずさりする三浦。その背後には荷物置き場に使用するロッカーがある。

「三浦さん、わかりました! だから、銃を降ろしてください!」

 と、数馬。

「そんなわがまま聞かなくていい!」

 茜が怒鳴った。

 物静かそうな見た目とはかけ離れた怒声に、三浦を含め、一同がびくりとした。

 なおもゆっくりと近づく茜。

 後ずさりを続ける三浦。

 〈バン!〉とロッカーが音をたてる。三浦には、もうあとがなかった。

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