モモチユヅル
弟の分の昼食を用意して、リサは家を出た。身支度を調えているうちに時刻は十一時をまわろうとしていたから、急いで買い物を済ませたとしても家に帰りつくのどうしても午後だ。
最寄りのバス停は走っても五分以内でつく距離なのがありがたい。学割定期もあってリサが頻繁に利用する公共機関だ。
バス停が見えてきたところへちょうど、そのバスが滑り込んできた。
ついている。思わず笑みがこぼれた。ざっと見た感じ、席は空いているように見えた。
乗り込んでみると実際、乗客はまばらだった。
(あ――)
最後部に見知った顔を見つけ、足が止まる。
向こうは先に気がついていたようで、ひらひら手を振っている。すぐ下りるから前側に乗っていようと思っていたから会釈だけして済ませようかとも思ったが、考えを改め歩み寄った。
傍の鉄棒に掴まり、バスが走り出す衝撃に耐える。
「やあ、もしかしてデート?」
あいさつもそこそこにそんなことを聞いてくるのはタクミの友人、モモチユヅルだ。
「ううん、ちょっとね。家の用で」
隣でなく、一列前に座った。リサはこの人物がちょっと苦手だ。どうしてタクミは彼と友情を築けるんだろうと、思い出したように首を傾げてしまうくらいには。
「そう言うあなたは?」
「ぶらり路線バスの旅」
「……散歩ってこと?」
考えだした返答に、モモチはいやらしく笑った。
「暇なやつって思ったでしょ?」
「……まあ、その、」
「ふふ。暇つぶしだったら、よかったんだけど、なぁあ……」
両脇が開いているのをいいことに、思い切り両腕を伸ばすモモチ。そのまま寝転びそうな勢いである。
「あの、さ。今日このあとフジくんと会う?」
「いや、ないけど。何? ケンカでもした?」
「……その、何て言ったらいいのかわからないんだけど、メールしても返事が返ってこなくて」
言いながらそろりと相手の反応を確かめれば、それがどうしたといった顔だ。
わかってはいた。
リサだって立場が逆ならそう思った(だけどユヅルみたくあからさまに顔に出したりはしない)。二人の関係性を知る者からすれば、たかが返信がなかったくらいで何だ惚気かと呆れられても仕方ない。
だけどそんなつもりで言った訳じゃないのだ。
これまでだってすぐに返信がない時はあったし、喧嘩して一切連絡をとらない時もあった。
なのに今日に限ってそれがひどく気になる。
今朝のニュースのせいもあるだろう。
リサが思っているようなことは何もなくて、ただ風邪をひいて参っているだけかもしれない。それならそれでいい。
「家まで行ってみたいけど、今日は弟が留守番してるから」
「まあ俺のが近いよね」
タクミとリサの家は高校を挟んで真逆の方向にある。同じ中学だったユヅルの方が家は近い。
だから思い切って声をかけた。生活圏でもないリサの家の周辺でユヅルと遭遇することなど考えられないことだ。用もなくぶらついていたのが本当かは分からないが、モモチユヅルという人物が苦手なリサはその辺りのところ、深く探る気もない。
「じゃあ、あとで帰りに寄ってみるよ」
言いながら、ユヅルは降車ボタンに手を伸ばした。
あれ、と目を瞬く。
そこはリサが降りる予定の場所で、ちょうど押そうと思ったタイミングで。自分はどこで降りるか言っただろうか。いいや。
(……単にかぶっただけね)
そちらの予定は知らないが、そういうこともあるだろう。降りたらそこでお別れだ。
リサはそう思っていた。
けれど歩いて十分、家電量販店の入り口が見えてきたときでさえ、ユヅルの進行方向は変わらない。
店まであと一歩のところで、意を決してリサは振りかえった。
「……モモチくんもここで買い物?」
「や、面白そうだからついてきた」
あっさりした答えに、二の句が継げない。
「……ええと、それじゃあ「あとで」っていうのは」
「そだね。きみの用に付き合ったあとだね」
……ああ、そういう人だった。
人選を間違えた自分に腹が立つ。
わたしは今すぐ確かめて欲しいのに!
リサは息を吸って、気持ちに蓋をする。人目のある場所で感情のままに動くのはみっともない。それに気持ちをぶつけたところでユヅルに響くのかもわからない。
「で。で。何買うの?」
「……」
「ま、ついてくだけだから何だっていいや。ほら、行こうよ」
「!」
いきなり手を引かれ、つんのめりそうになる。何が楽しいのか、鼻歌を歌うユヅルにリサは己を呪った。
(……ほんと、失敗した)
何がご機嫌なのか、ユヅルは鼻歌を歌っている。
リサは彼に見えないようこっそり溜息を吐いて、視線を手元にやった。歩みに合わせて揺れる、電球二個セットがちょうどおさまったレジ袋。会計する隣で「それでおしまい?」とつまらなそうな顔で訊ねられたのをさっきから思い返してはもやもやして溜息をついていた。
(やっぱりわからない)
リサからすればユヅルは謎の生き物だ。今だって何を話していいのかわからないし、一緒にいても戸惑うばかりだ。こんなことならタクミにコツでも聞いておけば良かった。なんて思ってみてもどうしようもない。後の祭。
何度目かのため息を吐き出したところ、目の前に突然壁が現れた。
「わっ」
立ち止まったユヅルの背中とぶつかりかけて急停止する。
非難の言葉をあれこれ飲み込んで「どうしたの」と訊けば、ユヅルがすっと前を指差した。
「あれ」
指差すのは、車が親指くらいに見える先の交差点。
いた。
「……っ」
目視した瞬間、鳥肌が立った。
一目で、それが今朝のニュースで言っていたやつだとわかった。
モノクロの砂嵐画像が人型で蠢いている。
線で囲ったようなはっきりした輪郭はなく、構成物のきめは粗く見えるものの、確かめに触りに行こうなどとそんな好奇心は露ほどもうまれない。
化け物だ。
(排除しなきゃ)
切に思う。何故か「逃げる」選択肢は頭になかった。見ているだけでぞっとするのに、今すぐあれを排除しにいかなければいけないと心の底から湧き上がる。
その気持ちに冷や水を浴びせたのがユヅルだった。
「あっち行こう」
いきなり方向転換してリサの腕を掴む。
「ちょっ……離してよっ」
振りほどこうとしたら、ため息を返された。
「やめときなよ」
言っている意味がわからない。
なぜここで引き返さなくてはならないのか。
「あなたあれが見えてないの?」
「見えてるよ」
「じゃあなんで――」
「距離を考えなよ。近くのやつが片をつけるさ。わざわざ五百メートル先まで追っかけてくなんて、力の無駄遣いでしょ」
「それは……」
確かにそれはそうかも知れないが、どうしてだか納得できない。
二人が揉めている間に化け物を囲う人の輪が完成し、ものの数分で散った。
「ほら終わっちゃった」
ユヅルが言う。
「……そうね」
もうそこに何もない。
リサは首を傾げた。今なにかユヅルに対してとても腹が立っていた気がするのに思い出せない。
(……んまあ、いいか)
思考を投げる。それをおかしいとは思わなかった。それよりも腕が痛い。見れば何故かユヅルに腕を掴まれていて吃驚した。
「ええと、なんで?」
「あ、ごめーん」
へらへら笑いながら手を離すユヅル。
(何なの……)
リサは掴まれていた腕をそっとさすった。
とにかく早く帰ろう。そう決めた。さすがにユヅルも家まではついてこないだろうし、留守番している弟が気がかりだ。
「……」
ちらりと交差点を振りかえる。
(もう遭遇しませんように)
それでもユヅルについてきてもらうより「あれ」と遭遇する方がましだとリサには思えた。
だってあれは排除できる。