魔法
「タクミ、いないの?」
玄関の開く音がタクミを現実に引き戻した。
母だ。よく知ったその声は自然と安心感をもたらす一方でしかし、どうして母がいるのだろうと疑問がわく。今日は休みではなかったはずだ。職場にいる時間である。
忘れ物だろうか。
返事をしようとした矢先、落ちてきた影に目を瞠る。悲鳴をあげる間もなかった。
開いた口が塞がらない。
タクミはエイスの肩に担がれていた。
「――」
あまりの出来事に呆然とする。
何ら断りもなく、しかもその相手がどう見ても鍛えているようには見えない女子で。
「お、下ろせよっ」
「聞けないな」
「ざけんなっ」
羞恥と困惑でわめくタクミに取り合わず、エイスは鼻歌交じり、流れるような仕草で窓を開け、桟に片足をかけた。
まさか――先の展開が容易に想像できて、タクミを慌てさせる。
「おい……っ」
「あ。舌、噛まないでね」
それだけ言うと、エイスは地上へと身を躍らせた。
「――っ」
悲鳴は宙に消えた。
エイスは音もなく着地して、次の瞬間には走り出していた。
茫然自失気味のタクミにはそのことに突っ込む気力もない。しかしそれも犬に吠えかけられるまでの短い間だ。
家の中で聞いていてもうるさかった近所の犬は、明らかにタクミたちに向かって吠えていた。撃退すべき敵を見つけたとばかりに。
(……)
噛みつかれてもいないのに、頭の先から血の気がひいていくようだ。エイスの言葉を信じれば、あの犬には自分たちが化け物に見えているわけだが……。
タクミは息を吸った。
「おろしてくれ。俺担いでどこ行くつもりだよこの人さらい」
「そうだねぇ……、あ! 舌噛まなかった?」
「おかげさまでな! だからおろせって!」
「うん、いいよ。安全なとこまできたらね」
「は?」
エイスは住居や建物の隙間を縫うように駆けていく。角を曲がる際に躊躇いがない。はじめから先に人がいないことを知っているかのようだ。おまけに、タクミを担いでいるにかかわらず走る速度がおちることもない。
(超人かよ……)
タクミは毒づかずにはいられなかった。自分を担いで離さない、どこにそんな力があるのかわからない見るからに細腕をちっとも振り解けないのだ。。
しばらく走ったところで、エイスは古びた木造アパートを囲う生け垣の中に分け入った。大家の趣味なのか手入れが行き届いたそれは(色々気にしなければ)中肉中背の成人男子でも隠れられそうなもので。
そんな場所へ、タクミは無理矢理押し込まれた。
「ちょっ……」
「静かにして、見つかる」
「ふが……っ」
口を覆われたタクミは、何をするんだと隣人を睨み付けた。毟り取ろうにもその手はびくともしない。
(なんなんだよこの状況……)
矜恃も何もあったものではない。
(狭い……)
本来ならこんな場所に押し込まれたら枝葉が刺さって痛いのだが、代わりに不快感が全身を襲う。一刻も早く出たくてしょうがない。
この場所に何か意味があるのだろうか。そう思わないことには、やっていられない。
エイスが手を離すやいなや、タクミは詰め寄った。
「いい加減説明しろよ。見つかるって、見つかったら何がヤバいんだ?」
「消されちゃう」
「は? 消される?」
「そうだよ。消されちゃうかもしれないんだ」
繰り返したエイスの顔を見返した。相変わらず笑っている。けれど目は違った。
「……消されるって、何が?」
恐る恐るタクミは問うた。
「ボクらが、だよ。ボクらはこの世界の異分子、バグだからね。バグは取り除かれるものでしょ?」
「それは……ゲームの話だろ?」
「そうかな。結構ありふれた話じゃない? 指に棘が刺されば抜くし、出る杭は打たれるし、社員は理由をつけて左遷、気にくわない相手は徹頭徹尾無視、病理細胞は切除、返ってきた答案用紙は引き出しの奥深くへ、雑草には除草剤――」
指折り例を挙げていくエイス。
「も、もういい」
「そう? じゃあ、本題に戻るね。
これはまだ確定じゃないんだけれど、世界は、ボクらを排除するために人間を急速進化させていると思われる節があるんだ。
この地域はどうかわからないけど、ある地域で魔法の存在が確認されている」
「ちょっと待て、魔法って何だ」
「世界が人間のために用意した、ボクらを消すための手段を便宜上「魔法」と呼称することにしたんだ。向こうがなんて呼んでるかは知らないけど……超能力よりこっちのがしっくりくる気がしてさ」
「……そう。どっちでもいいけど、具体的にそいつはどんなものなんだ」
するとエイスが、タクミに向かって左手を突き出してきた。
「な、なに?」
突飛な行為に戸惑う。
「あのね。こうやって、かざされた手のひらから赤い光が出て、それに当たっちゃったらもう駄目なんだ」
「……」
タクミは、エイスの顔と翳された手のひらとを順に見比べた。
どうにも現実感が稀薄だ。それはエイスの表情や語り口調が真剣みとかけ離れているせいもあるが、なにより自分がそうした現場に遭遇していないからだろう。
まだ、犬に吠えられただけだ。
「……つまり。俺が母さんに消されるかもしんないから、おまえは俺を担いで窓から飛び出したってわけか?」
エイスが頷く。
「君のお母さんが魔法が使えると決まったわけじゃないけど、可能性は高いと思う。
知っている人間だからって油断しちゃ駄目だ。向こうからすればボクらは化け物なんだからね」
エイスが注意を促してくるが、タクミはうわの空で聞いていた。
(消される? 俺が? 母さんに?)
想像力を働かせてみるも、母が魔法を使う姿はどうにも滑稽に思えた。魔法使いという、三角帽子にマント、片手にステッキを持った既存のイメージが想像の邪魔をする。
「……で、いつまでこうしてたらいいんだ」
深々と溜息を吐く。
この狭苦しい空間から早く出たい。
「あと三分」
「……その時間はどこから出てくるんだ?」
「ボクが知覚できる範囲から算出してる。次に逃走経路から人気がなくなる時間まで、あと二分――」
「そういやお前って結局何なんだ?」
「存在の話? それとも能力? あれ、してないっけ?」
「ない」
「そっか。じゃあ……次の地点についたらね」
言い終わらないうちに立ち上がるエイス。
「次ってどこだよ!?」
タクミも急いで立ち上がる。
「着けばわかるよ」
エイスはそう言うと、再びタクミをくるっと担いで颯爽と走り出した。
「正直ボクに大した力はないんだ」
次の場所でと言ったのに、走り出して間もなく、エイスは自分から話し始めた。
「ボクは、ボクがこちらの世界をより深く覗き、より多く触れ、識るための依り代だからね」
「それってさ、考えたんだけど。いわゆるアバターとか、そういう感じでいいか?」
「うーん……そうだね……君がわかりやすいならそれで」
エイスの返事は適当だった。
(拘りがあるのかないのか、どっちなんだ)
タクミは自分を担いでいる相手を改めて見やった。喋れば喋るほど、出会い頭に感じた万能感は薄まるばかりだ。エイスに期待した自分が虚しくなる。
「とにかく急いでたから、送り込む自分の分身に手間を惜しんだ結果がこれさ。パラメーターがあちこち偏ってるんだよ。まあ、中にはラッキーな仕上がりな子もいるんだけどさ。どっちにしても現状を変えるような力はないんだ。だからこうして、逃げなきゃなんないわけさ」
エイスは塀の影でタクミを抱えなおした。
この先へ進むにはどうしても、車の流れが途切れるのを待たなければならない。
「なあ、そろそろ下ろしてくれていいんじゃないか」
「んー……」
「つか、ホントに大丈夫なの?」
「なにが?」
「俺なんか担いでて、疲れてないのかって話」
途端、エイスの目が点になった。
(お、おい)
タクミは焦った。あのエイスから笑顔が消えたのだ。自分は何か致命的なことをしたに違いない。が、思い当たる節がない。
(俺、特別なこと言ってないよな)
担がれたまま視線を泳がせていると、
「……ありがと」
エイスが微笑んだ。
タクミはほっとしたのと同時に、何かが引っかかった。けれどそれが何か深く考えはしなかった。
「別に礼なんて……」
照れ臭さに目を逸らす。
「はいはい」エイスは笑うだけだ。
「あのね、言ったと思うけど――ん、言ってなかったけ? とにかく、ボクには痛みや疲労の感覚はないんだ。初期設定ってやつでね。体力方面もパラの偏りのおかげで常人の比じゃないから、ボクのことは心配いらないよ。……じゃ、リクエストにお応えして。おろすね」
そう言って、エイスは壊れ物でも扱うようにそっとタクミを大地に下ろしてくれた。
戻ってきた足裏から這い上がる不快感に、タクミは自分がそれを忘れていた事に気がついた。エイスに担がれていた間は、自分は人間だった。
(いや、今も人間だけど)
認めるわけにはいかない。
タクミは息を吐いた。
「……そうは言うけどさ、こっちは自信無くすって」
理屈と感情は別物だ。女子に担がれっぱなしというのはどうにもむず痒い。
「あ、痛覚といえば、」
タクミを嘆きを、エイスの声がばっさり切り捨てた。
「気付いてる?」
「……何が?」
「今なら車に撥ねられたり高いところから落ちても平気な身体になってること」
「…………。死なない身体ってやつ?」
「うーん。死ねない、が正解に近いね」
そう言うとエイスは、おもむろにタクミの頬に触れた。
「ひだっ、あだだっ」
「こんなふうに、ボクとか君とか同じもの同士は痛みを与えることが出来る。ちゃんと触れられるからね」
「ふぁ、ふぁかったからふぁなせひょっ」
「ああ、ごめんごめん」
実践してみせる必要はなかっただろうに。ひりつく頬を摩りながらじと目で見やる。
「ま、何を言っても、消されたら元も子もないんだけどね」
「……だな」
なにげなくエイスの足下を見やって気付く。華奢なその足はハイカットスニーカーに納まっていた。
(こいつ……土足だったのか)
気が動転していたのだろう、部屋にいたときは気付かなかったし、気にもしなかった。一方、着たきりのタクミは家着のスウェット上下に裸足である。この落差。
「そうそう、服なんだけど」
「うん?」
「今は違和感ないでしょ」
「そういえば……」
「身につけていたものに限っては、関連づけで、君の一部って事でこちら側なんだ」
「……もしかして携帯握ったままとかだったら、メール打てたり出来たのか」
はっとして問えば、あっさり首を横に振られた。
「せいぜい持ち運べるがいいとこかな。通話やメールは無理だね」
エイスがハンドサインを出す。車の流れが途切れたのだ。
機を逃さず、二人は向こう側へ飛び出した。