おまけの話
没ネタです。
本編を一読してから目を通すことを推奨しますが、先にこちらからでも支障はないかもしれません。
☆登場人物名一覧(没になったキャラも含みます)
藤野匠――ふじの たくみ(主人公。高二。キャラが定まらなかった)
橘梨沙――たちばな りさ(ヒロイン。高二。いい子路線を心掛けたはずが)
百道弓弦―ももち ゆづる(高2。鍵になるような役を目指したはずが)
巽悠真――たつみ ゆうま(小学生。健気な子になるはずだった)
巽憂―――たつみ うい(ゆうまの妹。天使)
吉川寧々―よしかわ ねね(高一。ギャル喋りから敬語系へ)
三田かおる―さんだ かおる(たくみの担任。数学教師)
上原美夏――うえはら みなつ(りさの友人。存在を消される)
相田咲子――あいだ さきこ(会社員。そもそもの存在を消される)
エイス―――えいす(言うに及ばず)
キュー―――きゅー(えいすが羨望し憧れる存在)
・当初、主人公が発狂する終わり方を考えるも没
・終盤に主人公と対峙し語り合うのはゆづるの役目だったが、チェンジ。
・キャラの名前が二転三転
・師走のほんと忙しい時期が舞台
・いかせていない魔法バトル等々……反省点はいくつかありますが、めざしたのは何か理不尽なお話しでした。
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☆☆注。ここからは没原稿。書きかけで終わっております、それでも良い、時間にゆとりのあるなど覚悟のあるかたはどうぞ(そんなに長くはないと思います)
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*序
年の瀬も近づく二十三日、未明。
太平洋の一部が音もなく消えた。
まず異変を感知したのは、互いを監視し合うため各国が打ち上げた衛星たち。
――機器の異常だろう。
はじめは誰もがそう思った。消える、なんて現実的にはあり得ない。
けれど、いくら点検したところで機器に異常は見つからない。
奇異な現象は焦りを生む。
ここでようやく各国は互いに探りを入れ、どうやら機器の問題ではないと判り、現地へ偵察隊を派遣することにした。
計測の結果、海洋が半径約十キロに渡り、まるで円柱状のものでくり抜かれたようにすっぽり消え失せていることが確認される。
それは異様な光景だ。
海は固形物ではない。ならば穿たれた穴は自然と塞がるはずである。しかしいくら時間が経とうとも穴は形を変えることがない。
明らかな異常。
けれど各国は密約のうちに箝口令を敷いた。
*****24
音をたて、離れていく。
(……足りない)
視線を濡れた唇に奪われながら、ここじゃなければなあ――と藤野匠は時を惜しむ。
終業式を終え、みんなが解散した教室に居残って他愛もなくじゃれ合っている。二人きりというのと、誰もいない教室という場所柄も手伝っていつにも増して気持ちは高揚する。
「……なに考えてるの?」
そろりと彼女――橘梨沙が伺うように見上げてくる。
「……ベタだけど、時間止まらないかなあって」
「ベタっていうか、また、じゃないですか?」
「……そうですね、」
匠はわざと唇を尖らせる。
恋人同士の甘い一時に限らず、その場の空気の流れや雰囲気にしばしば思うのだ。余韻をいつまでも引きずっていたいと。ただ切り取って胸の中に納めておくだけでは物足りないと。
もっとも時を止めることなど絵空事でしかなく、だからこそ一瞬が貴重だということは匠にも理解はある。が、それと願望は別物だ。出来ないからこそ、あがく。望む。
「はいはい、ロマンチストさん。今夜は百道くんとデートでしたっけ」
「デートとかいうなよ……」
匠はげんなり顔をしかめる。
予定のない男二人が暇を潰し会うだけのこと。
百道――百道弓弦はクラスこそ違うが匠の腐れ縁だ。
「……気、遣わなくたっていいんだよ?」
梨沙が申し訳なさそうな顔をして言う。そんな顔をさせたくないのに、匠はどうしていいのか困って頭を掻いた。
明日はトナカイを従え、赤と白の服を身に纏った髭男が一番忙しい日だ。
ケーキとプレゼントを囲んで一家団欒、というところも多いだろう。
梨沙の家ではその前日、つまり今日が父親の命日であり、弟妹たちの誕生日が近いことからこの日にまとめてお祝いをするのが毎年の決まりで、前日の夜から料理の仕込みやらで忙しいらしい。
梨沙は誘ってくれたのだが、そんな家族水入らずのを邪魔したくないと匠は断った。恐い、というのもある。家族全員から審査されるかと思うと生きた心地がしない。まとめると八割「逃げ」だ。たぶん、梨沙もそれとなく感づいている。
(……きっと)
だけど無理強いしてこないところが好きだ。甘やかされてるな、と感じる。
「俺そんな繊細なハートじゃないもん」
「やめてよ、その顔」
変顔を貶して梨沙が拳を繰り出す。匠の方も避けないから肩に直撃。「やめろよ」なんて笑ってふざけてじゃれ合う。
「……お嬢さん、ぼくらもそろそろ帰りませんか」
梨沙が壁時計を見る。
だいたい十一時半。三十分ばかし、ここで遊んでいたことになる。
笑いながら鞄を肩にかけた匠は、いつもの習慣で彼女の手をとろうと右手を伸ばした。
「――え……?」
「どうかした?」
不思議そうに梨沙が見てくるから、慌てて頭を振った。
「ん? 何でもない」
そうだ、気のせいだ。
匠は再度手を伸ばした。
いつも何気なく行っている行為なのに、意識が指先まで集中する。
(……ほら。なんでもない)
笑いたくなるくらい簡単だ。
梨沙の手をしっかと掴まえて、匠は気付かれないように息を吐き出した。
(……何だったんだろ)
梨沙と別れ、一人になったところで匠は右手を観察した。
この後、一旦家に戻って着替えてから弓弦とは合流することになっている。「待ってるから早く来いよ」とのことだが、匠の方に馳せ参じようという気は微塵もない。何が悲しくてこんな夜に男二人で延々カラオケして過ごさねばならんのだ。
「……どうかしてるよな」
触ろうとして弾かれた――なんて莫迦げている。そんなこと、あるはずがない。何か錯覚を起こしたのだろう。
そうは思うのに、どうしても笑い飛ばすことが出来ない自分に戸惑う。
(本当にどうかしている)
物の試しに目の前で開閉してみた。
違和感なんてない。ごく当たり前に動く。何度繰り返しても結果は同じ。
「なにやってんだ俺……」
莫迦らしくなって考えを打ち切った。おかしな所などないのに続けても意味はない。そうだ。これはただの気の迷い。
「あほらし……」
呟いてちょっぴり足を速めた。
「遅かったなワトソン君」
「………………あー……シャーロック、元気そう……だな」
ソファーの上に立ち、チキンを咥え、ノリノリでタンバリンを叩く男に引かなかったと言えば嘘になる。
着いた早々、匠は何だかもう、どっと疲れを感じた。
百道弓弦という男は小学生並みの体力を持ち、おまけにテーブルの上には既に注文された料理が並んでいたが、これに匠の分はおそらく含まれておらず注文も何度目かのものに違いない。無駄な元気さが、食べた端から栄養分を消費させるのか体型は常に一定。いわゆる痩せの大食いというやつだ。そこだけは匠も羨ましいと思う。
「ちょっとさあ、のっけからテンション低くね? あげていきましょうよ?」
「お前が高すぎんだよ」
「まー、藤くんったら。つ、れ、な、いー」
しなをつくって嘯く弓弦に、匠の渋面が深まる。
「きもい」
きっぱり言い放てば、今度は弓弦が顔をしかめた。
「うっわ、この男サイコーにつまらんわ。予定が妄想どおりにゃいかねえからって拗ねるにしてもいい加減立ち直る時だろ」
「それこそ妄想だろ」
言い返してみるが、あながち的外れでもない。
「……じゃあ何か。おまえはきっらきらの電飾やあっまあまのカップルを見てもなんとも思わないと?」
「う、ぐぐぐぐ……すいませんでした」
「はい、一時間正座ね」
ソファーを指差し、言うが速いか、匠は皿の唐揚げをつまみ上げた。
「あ、俺の!」
何か聞こえた気がするが無視して口の中に放り込む。まあ、まずまずの味だ。気をよくして更にもう一つ。
「俺の唐揚げ……」
「また頼めばいいだろ」
言って、食べることはやめない。もう夕方だ、いい加減腹の虫が煩い。
「あ、そうだ」
思い出して匠は鞄に手を突っ込んだ。
「ほい、おめでとう」
棒読みで言うなりそれを投げた。リボンの掛かった袋が弓弦の手に収まる。
「え、何々。もしかしてプレゼント? ごめん俺何も用意してないわ……」
調子よく開封した弓弦の顔が中を見た途端引きつった。
匠はこれ見よがしに息を吐いて、
「さんちゃんから預かった、渡そうと思ったら帰ったあとだったって泣きそうな顔してたぞ。特製の課題だとさ」
さんちゃん、は数学教師・散田の愛称で、彼女は匠のクラス担任でもある。
自分が授業を受け持つクラスの、成績が振るわない生徒のために徹夜して課題を作ったはいいが渡す暇がなく、終業式が終わってすぐ各教室を廻ったのだが、その中でただ一人だけに合わなかった。
それが弓弦だ。
「……い、ら、ねえ……」
己が運命を呪うように課題を見つめて弓弦が項垂れる。匠はメニューを眺めつつ、
「そう言うなよ。つか、さんちゃん教え方うまい方だろ」
「そうかもだけどさあ。あの人、眠れない夜はどうしてますかって訊いたら、ひたすら素数を数えますってきらきらした目で答えたんだぜ? じゃあ君はどうしてるのって、俺、しょうがないから兄貴の部屋からくすねたDVD観てますって言えなかったもん」
俺空気読んだろ、と得意気な満面な彼に、匠の表情は自然と渋いものになる。
(言わなくて正解だよ)
散田のことだ、純粋無垢な顔で「何のDVDなの?」と訊いてくるだろう。そうしたら弓弦はきっと答えたはずだ、惜しげもなく朗々と題名を。
三十秒後に顔を真っ赤にして、何にも言えず口をぱくぱくさせている彼女が匠には容易に想像できた。
(さらし者にならなくてよかったな、さんちゃん)
しみじみ思う。
身長が低く小柄なことと、箱入り娘のような性格が相まって、散田は多くの生徒からマスコットキャラ扱いされている。匠もその中の一人だ。
そんな散田を泣かせる弓弦は一部から目の仇だ。もっとも弓弦の方は苦手教科の教師以前に、彼女が苦手らしい。だが散田の方は持ち前の母性が放ってはおけないのか何かと構ってくるので、見かけたら逃げる、それを散田が追うという光景は校内においてさほど珍しくない。
「藤くん、代わりにやってー」
「いやだ」
「ちょっと即答すぎやしない? それが一人は淋しかろうと誘ってあげた友人に対する仕打ち?」
「仕打ちもなにも、味方するなら女子だろ」
「なにその贔屓。俺の方が付き合い長いじゃんか」
「……それ、やめれ」
両手の指を組んで上目遣い、を男にされても寒いことこの上ない。が、弓弦は面白がってくるくるその場で回り出した。
(うざ……)
それでもなんやかんや言いつつこの場に来ている自分も同類なんだろう。匠はゆるりと息を吐くする。
メニューの唐揚げを延々眺めている時点で。
*****25
『……午後からは次第に曇りがちになり』
『ホワイトクリスマスとなるところも――』
『こまめに予報のチェックを……』
夕べ見たテレビの内容が断片的に半覚醒の匠の脳裏を過ぎる。
ああ、そういえば今日は当日なんだっけ……。思考はふわふわ、とりとめもなく流れていき、まだ微睡んでいたいから瞼に力を込める。そうすればいつまでも夢中にいられるというように。
けれど思いと裏腹に意識は鮮明になっていく。それが口惜しい。
――それにしても。
何か妙だ。
眠りから目覚めるきっかけは大きく二つに分けられるように思う。
一つは自然な目覚め。その時が来たから意識が覚醒するパターン。二つに、外的要因によって起こされるパターン。物音や目覚ましなど。
今朝の匠の場合、それは後者で――。
「……」
違和感を、今度は意識して追ってみる。
匠が目を覚ましたきっかけは、毛布から、ベッドから、妙な力を感じたせいだ。
それらがまるで意思を持ち、全力で自分から離れたがっているような感覚が分かるだろうか。あれだ、磁石が同じ極同士では必ず反発し合う、あの感じに似ている。
初めは気のせいだと無視していたのだが、頭が冴えていくにつれ如何ともしがたくなってきた。
気持ちが悪い。
たまらず匠は身体を起こした。
違和感は消える――上半身からは。
「……なん……なんだよ……」
見えない違和感から追い立てられるようにベッドを抜け出した。
しかし悪夢は続く。
「え……?」
床に降り立ってぎくりとする。
さっきの喩えではないが、まるで自分が磁石になったのでないかと疑いたくなるような反発力が足の裏を襲ったのだ。
でも匠は磁石ではない。だから上から押さえつけなくとも独力で立ってはいられる。
けれどこの拭い去れない違和感は何だ。
胃を直に撫でられているような心許なさを連れたまま、匠は部屋を出た。
(……とりあえず顔洗おう)
そうしてすっきり目が醒めてしまえばきっと、大丈夫。
ふんふんふん、と声高に鼻歌を歌いながら階段を下りていく。
匠は一人っ子だ。共働きの両親はいつも通学する自分と変わらない時間に家を出て行く。階下が静かなのは二人がすでに出かけてしまったからだろう。
昨夜、弓弦は朝まで盛り上がろうぜと言ったがとてもそんな気になれなくて、日付が変わる前に解散となった。弓弦は遊び足りないと文句を垂れていたが知ったことではない。
(……そういやケーキがあるんだっけ)
自分の分が冷蔵庫にとっておいてあるらしい。晩酌でほろ酔いの母親が言っていたのを思い出す。起き抜けに甘い物ってのはなあ……まずは水分だろう、などと考えながら洗面台へ向かう。
カランを捻れば水が蛇口から流れ出す。
視線を上げると鏡に映った顔が自分を見返した。特別なところなんてない。今だけは何にも取り繕う必要のない自分がそこにいる。
少し、途方に暮れて。
それを見て何だか胸の奥こみ上げてくるものがある。
思考を断ち切るべく匠は大きく息を吐いて、流水にもう一度手を伸ばした。
(どうして)
結果は変わらなかった。
水の方が匠の手を避けていく。
子供の頃、下敷きを擦って静電気を溜めて色々な物に近づけた覚えはないだろうか。蛇口の水は下敷きを避けていかなかっただろうか。
(俺は……静電気の塊にでもなったのか)
それならドアノブを握れば痛みを感じただろうし、髪の毛だって天を衝いていそうなものだ。けれど、そうじゃない。
手のひらに、足の裏に感じているのは触れる物、触れようとする物からの拒絶。
(……どうなってるんだ)
焦燥に駆られて洗面台に手をつけば今度はそれに拒まれて、匠は台を押さえ込むように指先に力を込めた。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。
「…………だいじょうぶ」
鏡を見ないようにして深呼吸をしてみた。
――もしかしてこれはまだ夢の中なんだろうか?
そうであってほしい。期待して、その場を離れる。
夢なら必ず醒める。ならばその前に好きなようにやってみようじゃないか。まずは――そうだ外は、天気はどうだろう。一瞬躊躇って、勢いよくカーテンを開け放つ。目映い光に圧倒されて目を眇めながら空を仰ぐ。外は気持ちの良い冬晴れが広がっている。
(……いい天気だ)
しばらく突っ立って眺めていた。
自分は何を焦り、何を怯えているのだろう。そんな気がしてきて、嗤いが込み上げてくる。
大丈夫、これは夢だ。言い聞かせて冷蔵庫に向かった。
「ケーキケーキ、っと。……お、チキンもあるじゃん」
生クリームを指で掬って舐める。
味がしない。
欠けたはずのケーキは匠が触る前と同じ形をしている。まるでその時間だけ巻き戻したみたいに。
「……」
そっと扉を閉めて、シンクのかごび伏せてあるグラスを手に取る。水を注いで中身を見ないで口元へ。グラスをシンクに置いて目を開けた。
注いだのと同じ量がそこにある。
水の味なんてしなかった。
匠はおもむろにグラスを指で弾いた。
簡単に転倒するグラスからは水が零れ、排水溝へと小さな川を作る。
(……なんだこれ)
気持ちが悪い。気持ちが悪い!
腹の中で暴れる感情そのままに匠は着の身着のまま家を飛び出した。
――ッワン!
玄関を出たところで吠えられた匠は足を止め、そちらを見た。
赤いリードで繋がれた子犬がしきりに吠えている。明らかに飼い主だろう熟年の女性がそれを宥めようともしないで、匠を凝視している。
まるで今にも――……そうな引きつった顔で、
「……あ、あの」
「きゃああああああああ――!」
響き渡る絶叫。破られた均衡。
「――」
言葉が出てこない。
頭の中が真っ白になる。けれど身体は手に動いていた。まるで逃げるように走り出していた。
(……叫ばれた)
――俺が?
俺じゃない違う――そうは思っても、それが正解でないと認識はあって。だけどそれを認めることはできない。
どうしても!
けれど、すれ違う全員が自分を見て悲鳴を上げる。
誰か、と叫びたくなる。どうにかしてくれと。これはまだ夢なんだろうか、教えてくれと。
はち切れそうな心臓で、匠は自動販売機の陰に逃げ込んだ。頭を抱え、蹲る。
もう嫌だと、鼻の奥がつんと熱くなる。
「……ったすけて」
口をついた掠れ声。
返事など期待していなかった。
けれど。
「――もちろん」
尊大な口調で返ってきた。
流れるような黒髪の。
成人だろうにそれはそれはセーラー服がよく似合っている女だった。
*****
『……先に好きになった方が負けって本当だと思う』
いつだったか喧嘩した後に匠が言った。
思い返すにいつだって先に謝るのは彼の方だった。しかし梨沙も決して自分は悪くないとふんぞりかえって謝罪を待っているわけではない。謝りはする。けれど割り振られているのが赦す側なのだ。そしていつも彼が先回りして謝ってしまう。
自分の気持ちの方が足りないんだろうか、その度に梨沙は不安になる。けれど安堵している彼の顔を見たら、胸の奥はもやもやするけれど言葉にはせず流してしまう。その繰り返しだ。
(嫌われたくないって必死なのは、あたしだって同じなんだよ……?)
ベッドの中、仰向けになった梨沙は左手を掲げる。小指にはシンプルな銀のリング。同じものが匠の指にも嵌っているはずだ。
クリスマスプレゼント。ペアリングを二人で買った。
『こういうのって男の俺がサプライズで、とかそういうのじゃないの?』
『うーん、一方的な好みを押しつけられても面白くない』
『……えーと、面白いとか面白くないとか、そういう問題?』
『あたしはね』
プレゼントのためにバイトをして、そのせいでまた喧嘩をして、仲直りして。
二十四日、指輪は晴れて二人の指に嵌った。
(……さすがにもう起きてるよね)
ベッドの中から視線を窓へやる。カーテン越しに見ても外はすっかり明るいことが分かる。暗転した携帯電話の画面を復活させると、十時三十四分の表示。
今日から冬休みに入って、いくら夕べ遊び疲れていたとしても、メールを送ったら返事をくれるくらいにはぼんやりでいいから起きていて欲しい。
(……なんて。あたしもさっきまで寝ていたわけだけど)
メールアプリを立ち上げようとして、画面下に流れるニュースに目を惹かれた。
「そくほう……?」
ぐるりと横転して身体の向きを変え、画面を覗き込む。
《世界各地で謎の生命体確認》
「なんだろ……」
スクロールする見出しをクリック。
《世界各地で謎の生命体の存在が報告されている。発生源は不明だが公式で確認されるようになったのは二十四日あたりのことで、尚も目撃者は増えている。国外だけの問題かと思われたが今日に入って我が国でも目撃情報が確認された。
その生命体は姿こそ人のような形状をしているが、全身が白黒の砂嵐で出来ているようだったと証言は一致している。こちらに何か伝える素振りを見せるが聞いたこともない言語を操り、それはまるでハウリングを起こしたスピーカーのようで聞くに堪えないものだという。
今のところ被害報告はないが、万一遭遇した場合は大声をあげ、直ちに退避して欲しい。見かけても不用意に近づかないよう気をつけて欲しい。》
「……なにこれ」
捉えた者がいないのかそれとも規制が掛かっているのか、記事に画像はない。ではデマかと言えば、報じているのはゴシップ屋でなく名のある新聞社だ。
「どういうこと?」
気になって他のニュースサイトを回ってみれば同じような記事はすぐに見つかった。しかもトップニュース。ほかにも色々見て回るが話題はこれで持ちきりだ。
(寝てる間になんか大変なこと起こってる……?)
首を傾げつつ、検索をそこで打ち切った。
画像があれば違っただろうが、遭遇したわけでもないから現実味が薄い。
「……もう知ってるかな」
おはよう、と件名に入れ、匠宛てに本文を打つ。昨日はどうでしたか、と。半分冷やかしで。
「送信っと、」
ごろんと仰向けになって返信を待つ。
一分、二分……。
「……来ない。寝てるのかな」
起きているなら、迅速に返信をくれる彼だ。それがないのだから、そうとしか考えられない。
「……」
どうしよう、と少し考えて電話をかけてみることにする。
「………………出ない」
戸惑いに揺れる瞳は画面を見つめる。
設定に従って左右に駆ける絵の兎。繋がったら飛び跳ねてウインクを飛ばしてくれるのだが、兎はずっと走り通しだ。
(……寝てるんだよね)
謎の生命体だなんていうニュースを目にしたせいか、胸がざわつく。
(そうよ、考えすぎ)
記事にも被害報告はないとあった。
(考えすぎだって)
そうは思うに、どうしても不安を拭えない。
繋がりさえすれば全ては杞憂で終わる。
もう一度、梨沙は匠の番号を呼び出した。
「何してんのかねぇえ、藤くんは」
歩道の車道側、両手を頭に回して後ろ向きで前進する百道弓弦が芝居掛かった調子で嘆く。「そうね」梨沙はおざなりに返す。
街灯が頼りなく足下を照らす中を二人は進む。一度無灯火の自転車が曲がり角から現れたときは心臓が止まりそうになって、お互いの顔を見て胸をなで下ろした。
あれから梨沙は何度も匠に電話してみたのだが結局繋がらず、不安になって百道と連絡を取った。そして一緒に匠の家まで様子を見に行くことなった。
「もうさ、彼女ほったらかして寝てる? ありえなくね?」
「……ほったらかしって、まだそうと決まった訳じゃ、」
「やっさしいな。なんで出ないの~って、もっと怒った方がいいんじゃない?」
「事情も分からないうちからそんな……疲れることしたくない」
「ほへぇ~」
返事が意外だったのか百道がじっと視線を向けてくる。
「……なに?」
「前から思ってたんだけどさー、よく藤くんと続いてるよね」
(はい?)
思わず耳を疑う。そんな梨沙など眼中にもない様子で百道は話を続ける。
「やあさ、藤くんはいいやつだけどさぁあ、けっこう頑固っていうか、ぶれないっていうの? でさ、君って一見流されやすそうなイメージだけど、結構我がしっかりあるじゃない? 疲れたりしないの?」
(……藤くんの言ってたことが分かったよ……)
百道と梨沙とはクラスメイトでなければ古くからの友人でもない。匠経由で知り合った、どちらかというと「顔見知り」という存在に分類される。
『騒ぎたいときはちょうどいいけど、それ以外だとちょっとうざい』
いつだったか匠がそう評していた。無駄に明るく空気が読めないやつだと。
梨沙は肺から息を押し出した。
「……それ、今しなきゃいけない?」
向けられる冷ややかな眼差しにさすがの百道も気がついたようだ。
「にゃ、俺なんか間違えた……?」
それに梨沙は沈黙で応える。
こんなことなら一人で来ればよかったかな、と考えてから(やっぱりだめ!)と足下を見つめる。今なら匠が、しつこく誘っても家族水入らずのところを邪魔したくないと頑なに固辞した本当のところが分かる。
安直に言えば怖いのだ。相手の家族に会うのが。
(だって。この娘どこの子よって値踏みされちゃうかもしれない……)
だから、玄関先で済ませるだけなのにどの服を着ていけばいいのかとても悩んだ。最終的にコートでほとんど隠れてしまうことに気付いて晴れ晴れした気持ちになったがすぐ、徒労だったと落ち込んだ。
(あーあ……)
梨沙は天を仰ぐ。
百道は夕べ匠と一緒だったし、仮にも匠の友人だし、胡散臭いが謎の生命体のこともあるから道案内もかねて同行を頼んだが、少し後悔し始めている。
(ユウコに言えば……ああでも謎の生命体? は、怖いし……)
それさえなかったら友人を頼っていただろう。弟が小学生でなければお願いしていた。
ああもう今更だ、と頭を振る。
「どしたの?」
怪訝そうな百道が理解できず「なにが?」と返せば「……別にいいけどさ」と背を向けられる。
(……よく分からない人)
むしろ梨沙の方が匠に訊いてみたかった。何だかんだ言って、仲がいいのねと。
(……)
返事を予想して笑いそうになる。はたと気付いて百道を確認した。
(よかった、見られてない……)
ほっと息を吐き出したところで「ねえねえ」と百道が振り返った。
「知ってる? 太平洋におっきな穴が空いてるんだって」
「……なにそれ?」
そんなの初耳である。
怪訝な梨沙に百道は得意げな顔で、
「ハイヒール? のヒールがこう、柱みたいにぐさって刺さって、抜けたあとがすっぽり穴が空いてるんだってさ」
「……新しい映画のはなし?」
「ううん。いんたーねっとの匿名掲示板で地味ーに話題の噂」
「信憑性の薄い話ね」
「でもどきどきしない? ただ穴が空いたっていうんじゃなくて、でっかいハイヒールとかいうんだよ。しかも真っ赤だったとかさ」
「そんなのいくらでも付け足せるじゃない」
「そうだけどさぁあ」
「それに。穴が空くくらいなら私たちの方にも何かあるはずよ」
「何かって、地震とか津波とか?」
梨沙は頷く。
「だいいち、海に穴が空くってどういうこと?」
穴が空けばそこに周囲の水は自然と流れ込むだろう。
たとえば海底が隆起して地表面が海面を割ったなら、それを真上から見たら海に穴が空いたように見えるだろう。そういう喩えなら理解できる。
(水が干上がったっていうならわかるけど……)
大量の海水がそんなことになれば大問題で、マスコミが黙っちゃいないだろう。そんな話題、梨沙は欠片も目にしなかった。
無自覚に唇を尖らせて、梨沙は考える。が、学者でなければ思考回路も文系寄り。解答などひねり出せるはずはなく、諦めて浮上させた視線が百道とぶつかった。
あ、と思った時にはもう遅い。
「わお、いっがーい。きみってこういうの好きなの?」
「別に……百道くんがふわっとした話するから」
「へええ?」
そういう百道は完全に信じていない顔だ。これは何を言ったところで無駄だろう。悟った梨沙は黙って唇を噛みしめ耐える。
にやにやと腹の立つ笑みを浮かべた百道を前に、後悔の念は絶えない。
(早く藤くんに会いたい)
そうしたら気分だって晴れるのに。
***
「ボクはエイス」
セーラー服の女は匠が問わずとも早々に自ら名乗った。
自動販売機にもたれ掛かると、にこにこと屈託ない笑顔を浮かべ匠を見てくる。
(………………え?)
ごく自然に受け入れる所だったが、ちょっと待て。
「……ボク?」
女性の一人称では少数派に属すると思われる。少なくとも匠の認識はそうであって、普段ならすぐさま反応していたはずだが、目の前の人物にかぎって不覚にも聞き流すところだった。
不自然さがないのだ。
服装といい、普通ならおかしいと思ってしまいそうなところが何故だかすんなり受け入れることができる。
妙に整合性があるのだ。自然すぎて不自然なくらいに。
「ん? 変かい? まあ設定だから諦めてよ」
柳眉を下げるでもなく同じ笑顔でエイスは言う。
「は? 設定?」
莫迦にしているのか。ふざけるなと匠は立ち上がる。が、エイスは気にした風もなく飄々と、
「そうなの。だけどそれを説明する前に大事なお話があるんだ。君も知りたいだろ、自分の身に何が起こっているかをさ」
「!」
「さて、その前に一つ言っておくけど。これからしばらくボクがいいよって言うまで黙ってボクの話を聞くんだ。たとえどんなに信じられなくてもね」
「何だよそれ……」
「予告だよ。今から君が信じるには難しいお話をしますってね。途中で茶々入れられたら話が進まないだろう? いちいち立ち止まるより、あとでまとめて質問に答える方がずっとすっきりしない?」
「……聞いてる間に忘れたらどうするんだよ」
生憎今ここに便利なメモ帳は持っていない。
「それはそれじゃない? というか、ここでやりあっても時間の無駄じゃない?」
「……」
どうあっても主導権を握りたいらしい。
(いやもう握られてるんだ……)
真偽はともかく、これから与えられる情報をいらないと匠には突っぱねる事が出来ない。なにしろこの状況への判断材料が全くないのだ。
「……わかったよ」
言って、唇を噛む。初見で頼もしいと思えた笑みが今はどことなく腹立たしい。
「うん。まあそんな長い話にはしないから」
「はあ、」
「さて。
あるところに箱庭作りを生業とする集団がいました。その中に独特のセンスを持ったやつがいました。おかしなくらい頭がいいそいつは、一つの箱庭を作り上げた後、行方が分からなくなります。
箱庭は作るだけじゃなくて管理するところまでが仕事なのね。
だけど周りも、自分が作った物じゃないから手を出しません、というか出せません。誰だって面倒は嫌だもの。
箱庭は長いこと管理者放置されることになります。
あるとき、これに見かねて手を出した者がいました。そいつは設計を完璧に掌握した気になって、試しに箱庭に分身を送り込んでみることにしたんですが――ご覧の通り、失敗したわけ。――はい、もういいよ」
ぱん、と胸の高さで手を合わせるエイス。
匠は喉の奥から絞り出すように呻いた。
「……まさかその箱庭がここだっていうのか」
「そ、」
「じゃあ、消えたっていうのはその、あの、神様……ってやつか?」
エイスは考えるように腕組みして、
「うーん……。作者とか制作者とかの方がしっくりくるけど、まあそういうのもご大層に言えばそうだよね。好きな解釈でいいよ」
「ずいぶん……ざっくりなんだな」
「えー、だって肩書きを決めるのは他者でしょ。自分で名乗っちゃってもさ、認められなきゃただの単語だし」
「……」
しかめ面で匠は目を閉じる。
この世界はみんな創作り物、あなたもその中に含まれるんですよ――漫画やゲームで遭遇する設定。それをまるで創作物から抜け出てきたような人物に笑顔で宣告される。
(それこそ創作めいているっていうのに……)
この身に降りかかっている異常が否定することを拒む。
「なあ、その送り込んでみることにした分身って――」
「もう破棄されているよ」
「そう、なのか。……ええとだなその、」
欲しい答えがちょっと違う。
「――あ! ボクのこと? そうだよ。この緊急事態用に作られて送り込まれたんだな」
「だから設定――」
「そ。今、世界のあっちこっちにボクみたいなのがいるんだ」
「え?」
匠はまじまじとエイスを見つめる。ここでようやくエイスの笑顔が崩れた。
「断っておくけど、全員がこういう訳じゃないから。ランダム設定の結果がこれだから」
あからさまに莫迦にした目だ。
「はあ……」
すいません、と匠は続けかけて踏みとどまる。それを口にしたらきっと終わりだ。堕ちるのは簡単だけれど這い上がるのは容易ではない。
(そんな関係ごめんだ)
匠は深く息を吐く。
「で、俺の身に起こってること。もうちょっと具体的に教えてくれないか」
「ああそうだね」
エイスはまた笑顔に、今度は穏やかな微笑を浮かべ、
「バグ」
「は?」
「異物。ボクの本体がしくじったせいで世界から弾かれたんだ。人間の一部にだけ発生している。ボクの本体から言わせれば世界の方こそがバグなんだけど――なんて、言っても負け惜しみにしかならないけどさあ」
尻すぼみに言葉が消え、エイスがはじめて真顔になった。
「ごめん!」
頭を垂れる勢いに匠はぎょっとした。
(……直角?)
唖然と、つむじを見つめる。
「不測の事態って言い方は好きじゃないけど、こんなつもりじゃなかった。必ず元の状態に戻すから。時間は掛かるけれど、必ず――」
「…………それ、本当なんだろうな」
「うんっ」
返事だけは力強い。
匠はこっそり息を吐く。
「……だったら目ぇ見て言えば?」
「え……?」
のろりと顔をあげるエイスは理解が及ばないのか、首を傾げる。匠は、今度は分かるように溜息を吐いた。
「誠意ってやつ、見せてみろって話」
「! ああ――」
合点がいったらしく手を打ったエイスはにっこり笑って、
「――もちろん」
力強く言い切った。現れたときと同じように。
それは安心感を匠に与えた。
(……信じるからな?)
今一度、心の声で問いかける。耳に草木の葉擦れが届いて匠ははっとした。
音の割に長いエイスの髪ちっともなびいていない。
ぞわりと鳥肌が立った。風の影響を受けていないのはエイスだけではない。冬の冷たさは匠の肌を刺さない。その代わり現実を突きつけてくる。
(……梨沙は)
長い髪に彼女の事を思い出して、匠は驚いた。今の今まで少しも考えなかった自分に。
(ごめん)
咄嗟に携帯電話を取り出そうとして、愕然とする。
自分の部屋だ。
「あ゛~っ」
叫び頭をかきむしる。
思いやるという行為は余裕があって初めて為せるのかもしれない。などと自己分析してみたところで取り返せるわけではない。自己嫌悪に歯噛みする。
「どうしたのさ?」
「ケイタイ持ってこなかった……」
「んー、無意味じゃない」
あっさりした物言いが勘に障り、匠は反射的にエイスを睨んでいた。
「どうして?」
「まず携帯電話に触れられるかどうか。仮に触れたとして、ボタンが反応するか分からない。まして音声通話は厳しいんじゃないかな」
「え?」
「たぶん、向こうには聞き取れない。バグって言ったでしょ。見た目もそう。同じ人間に見えるなら叫ばれる事なんてない。…………どうやら向こうにはボクらが化け物みたいに見えているらしいよ」
「化け物って……」
言葉は現実味に欠けるが、実際問題叫ばれただけに否定が出来ない。
匠の胸に不安が影をさす。
(梨沙は……)
匠と同じ側なのか、それとも反対側なのか。
(……)
どちらなのだろう。
(俺は……)
彼女がどちらであることを願い、喜べばいいのだろう……。
***
「どーこ行ったんだろうね」
帰り道、百道が言う。
同意を求めているようでいないような、空気に溶けてしまいそうな平淡な調子で。それが梨沙の耳にはまるで他人事めいて聞こえた。
藤原家を訪れた梨沙たちを迎えてくれたのは、ちょうど帰宅したばかりの匠の母親だった。連絡が取れないことを伝えると反対に吃驚されてしまった。
『玄関開いてたし、自分の部屋にいるんだと思って声かけなかったのよ』
そう言うと彼女は引き返し、匠を呼びに行った。だが待つ二人のところへ聞こえてくるのは彼女の声ばかり。不安になった梨沙がそろりと隣を見れば、同じ事を思ったらしい百道と視線がかち合う。
『たーくー? いないの?』
階段を上がる音。しばしして戻ってきたのは匠の母親だけだった。右手に匠の携帯電話を持って――。
無言で歩く梨沙は無意識に溜息をついていた。
(……藤くんどこ行ったんだろう)
まだ梨沙自身遭遇していないからそれがどんな危険か分からないが、もし謎の生命体にからまれ、事件や事故に巻き込まれたらどうするのだろう。
不安いっぱいの梨沙の肩を「大丈夫よ、ひょっこり戻ってくるわ」と匠の母は優しく叩いてくれたが、梨沙は頷くだけで精一杯だった。
(ごめん、じゃ、赦さないんだから)
吐く息の白さに胸の締めつけが増していく。寒い。夜空に星は見えない。天気予報では雪が降るかもしれないと言っていた。
手袋をしていても夜気が指先まで染みる。温もりが恋しくなって両手を口元へそっと寄せた。
「――泣いてるの?」
やけに近いところからの問いかけ。はっとすると、下から覗き込むような百道の顔と目があった。
「きゃっ」
「ええ? ちょっとやめてよー。俺を変質者にするつもり?」
「ご、ごめんなさい……」
「いいけどー? ……そんな下ばっか見てたら地面にめり込んじゃうよ?」
梨沙を案じての発言なのだろうが、言い方のせいで素直に受け取ることが出来ない。むっとしたがそこは咀嚼して、ありがとうと返した。
「どういたしまして」
百道はにやりと笑う。見方によってはドヤ顔、あるいは小莫迦にされたと感じる人もいるだろう。
(……藤くんなんでこの人と友達なの?)
改めてその不可解さに梨沙は首を傾げた。
会ったら色々文句を言いたい。
――今、どこにいるんだろう。
*****26
胸のあたりがずきずきと痛む。
無意識にさすりながら暗い夜道を巽悠真は前進する。とはいえはっきりと目的地があるわけではない。そう言う点でいえば、ただ向いている方向へ進むことが後退ではないといいきれるだろうか……などと小難しいことを彼に考える余裕はなかった。
幼子というには大きく、大人と言い切るには小さな足を引きずるようにして進む。靴もはかずに。
『いやあ! 来ないで!』
『近づくなこの――、化け物がっ』
耳の奥でこだまする両親の声。
何を言っているの?
どうしてそんな目で見るの?
どうしてそんなこと言うの?
あんな両親は初めて見た。恐怖に捕らわれながらそれでも懸命に家族を守ろうとする。だけどそんなもの、少し考えれば意外なことじゃない。家族の一員なら、そんな頼もしさを心の奥底で信じているものだ。
ただその矛先が同じ家族に――まさか自分に向けられるとは露ほども想像していなかっただけで。
足の代わりに、ずきずきと胸が痛む。
***
勢いよく玄関が開くその音に匠の母は肩を震わせた。
反射的にテレビを見れば、時刻は深夜を回っている。
最初はちゃんと起きてテレビを見ていたのだが、それに疲れて横になったのは覚えている。しばらくガールズトークに見入っていた気がするが、どうやらいつの間にか寝入っていたらしい。
「無事だったか……」
息を切らせて入ってきた夫に、彼女は咄嗟に対応できなかった。
「どうしたの?」
「見たんだよ!」
妻の反応の悪さは気にならないのか、むしろそんなものは待っていられないと言わんばかりの勢いだ。
「あの化け物だよ、遠目だったけど、見たんだ。角の所を曲がっていくのを見たんだよ」
「――」
彼女は無意識に二の腕をさすっていた。
テレビではニュースになると必ずその話題が取り上げられる。その度に意識してチャンネルを切り替えた。
やめて、と心のどこかで悲鳴が上がる。
彼女がこの件を知ったのは職場だった。同僚が話してくれた時は「なにそれ」と莫迦にしていたが、昼食時にわざわざニュース動画を見せられたときはさすがに笑えなかった。それでもしばらくは忘れていた、帰宅時、昇降口で知人に話しかけられるまでは。
忘れていたかったと知人を呪いつつ、駅から自宅まで一人怯えながら帰った。
ほっとしたのも束の間、息子の友人が訊ねてきて言う。息子と連絡が取れないと。
いるとばかり思っていた息子は携帯電話を置いて不在。
どこに行ったのか。
不安より疑問の方が大きいのは、普段の彼を信用しているところによる。自分たちが働いているのもあり、幼いときからほったらかし気味だったためか、わりと自分のことは自分でする癖がついている子だ。
それに、まだ高校生なのだが、もう高校生だからと見てしまう部分もある。
息子の彼女には悪いが、よその娘のところじゃないのかとそんなことも過ぎりはした。
(……)
目の前で血相を変えた夫に、彼女の中の躊躇いは消えた。
普段であれば、すぐ戻ってくるだろうと高を括って胸に秘めるところだが。
「ねえ、あなた。あの子と連絡がつかないのよ」
***
東、空の端がうっすら白んでいる。
風に混じってちらちらと舞う雪を、匠は誰もいない雑居ビルの屋上で寝そべりながら見上げていた。そうしていると雪が降っているのではなく巻き上げられているような錯覚に陥りそうになる。
大の字になって寝転ぶ匠を咎める者はここにはいない。
(……ドラマとかでありがちな死んでいくやつみたい)
もしここが路上であって、通りすがりの一人くらいは同じ事を思ってくれるかも知れない、なんてことを思って自嘲に唇が歪む。
相も変わらず、夜気を吸収して冷たいだろうコンクリートの床は全力で匠の身体を押し返してくるし、雪は匠の上をきっちり避ける。現状に変化はない。
人の心などお構いなしで日付は変わった。
雪は街を白く塗ったがそれもうっすらと薄塗りで、少しして単なる風雪に変わった。残っている積雪はほとんど見あたらない。やがてすっかりやむだろう。
(大したことなかったな……)
瞼を閉じる。
何度目かの試みだったが結果は同じ。
視界が暗転しても睡魔はやってこない。だが眠いわけではなし、眠りたい訳でもない。夜は寝るものだという慣習が匠にこの異常を教えてくれた。
「――落ち着いた?」
投げかけられた声に視線を合わせた。
丸い給水塔に背中を預けて座り込む彼女が見える。こんな時でも――いや、どんなときであれ笑顔で、その安定ぶりは時間経過とともに慣れつつあるがそれでも完全に許容できているわけではない。
エイスの言うところによれば、匠たちは限定措置として人間なら持っているはずの三大欲求を凍結されているのだという。
(……勃たない、空かない、眠くならない)
おまけに疲労も蓄積されないらしい。
こうなると何故生きているんだろう、などと日頃滅多にしもしない禅問答まで始めてしまう始末である。
「……はあ、」
「ちょっと。答えないなら、そうだってことにするよ?」
「……どうぞお好きに」
「……。なんなら君が葬り去りたいポエム披露しよっか」
「! 待て!」
慌てて起き上がるが、エイスの顔を見て意味がなかったことを悟った。
「やっと起きた」
「……いい性格してるな」
「そんなのボクの知った事じゃないよ。それにそんな機能ないって説明したとおもうんだけどな」
エイスが持つ機能はかなり限定的で、極端な話、事態の説明役程度しか匠たちにとって有益な機能は持っていないと言い切っていい。
説明されたとき、匠はかなりがっかりした。が、仕方ないとも言えた。真に事態を収束しようと努力している(らしい)のはエイスの本体の方なのだ。子の機能が限定されるのはおかしい話ではない。
匠は息を吐いて天を仰いだ。
(みんな寝てるよな)
両親のことを思う。たまに自分が不在のことに気付かない親だ(メールなり伝言を残しても記憶に留めないから困る)、まだいないことに気付いていない可能性がある。
梨沙はどうだろう。
メールに返信がなかったくらいで不審に思ったりしてくれるだろうか。
(内容にもよるか……?)
妄想だけは無限に膨らむ、嫌な方へとばかり。
「……そろそろ行くか」
匠が立ち上がると、待っていたかと言わんばかりにエイスが駆け寄ってくる。
エイスには探知機能が備わっていないから、匠は自分と同じ状態の人間を自力で探すしかなかった。またそれはエイスよりの頼みでもあった。
現状、本体の方で人数把握がうまくいっていないらしい。そのせいばかりではないが、対象者への説明一括送信もできないのだという。
そんなやつが本当に事態を収拾できるのか匠にはいささか疑問だったが、ここで寝ていて何か変わるわけでもない。
一度、転落防止フェンス越しに真下の道路を覗いてみる。
エイスの言葉を信じるなら、助走をつけてもフェンスが歪むことないし、五体満足で地面に着地が可能となるが……。
(精神の不死は約束されてないしな)
そのまま唯一の出入り口に向かう。ドアノブと手が半分融合する(テレビゲームでキャラクターが背景に刺さっているのを想像するといいだろう)奇妙で気分の悪い事象に顔をしかめつつ、何とかドアを開け、その場を後にする。
空に端、朱が滲み始めていた。
人目を忍んでの移動は精神的に堪える。ゲームの中ならともかく、これは現実世界だ。訓練を受けたわけでもない素人には難易度が高い。
迷彩機能のようなものがエイスについていたらと、物陰に身を潜める匠は、考えずにはいられなかった。早朝は歩行者が限られるのでそれなりに堂々と表を歩けたが、日中ともなればそうはいかない。
暗い脇道の物陰から通りを観察する。
冬休みが始まっていることも手伝って、常日頃から若者で賑わう街はさらに人で溢れている。先へ進むためにはどうしても横断する必要があるのだが、人通りの絶える気配は一向にない。
いっそ日暮れまでどこか人気のないところで息を潜めていようか……そんな諦観じみた考えが脳裏を過ぎる。しかしそれでは屋上を後にした意味がない。
ねえねえ、とエイスが肘で突いてくる。
「走り抜けちゃえば? 驚く人はいても、追いかけてまでは来ないんじゃないかな?」
「……んなの分からないだろ。それに、叫ばれるの結構しんどいんだよ」
お前は感じないのかもしれないけど……、と言外に含めて吐いた。それがエイスに響くとは思えなかったが、意外にも「ごめん」と殊勝な言葉が返ってきた。その顔から笑みが消えている。
「エイス……?」
「ボクは役立たずだよ、ただこうして傍で喋って気を紛らわせるぐらいのことしかできない。なのにそれもあんまり上手くないし」
そう言ってエイスは困ったように笑う。
卑怯だと匠は思った。それまでとは落差のある表情は作り物とは思えなくて、心が揺さぶられる。まるでこちらに非があるような……。
だからつい、口走っていた。
「お前のせいじゃないだろ」
「え?」
「設定なんだろ? お前に文句言ったって仕方ないぐらい分かってるよ頭じゃ」
「……ありがと」
エイスの顔に笑顔が戻る。
(……なんかそれ卑怯だ)
匠は視線を逸らした。
ずっとそうだと苛々させられるのに。時々違う顔を覗かせるから、今、まるで花が咲いたように魅力的に映る。
これは仕様、それとも計画的なものか。どちらであっても性質が悪い。
そこでふと思う。
「改めて訊くけどさ」
「いいよ?」
「お前が話してることはさ、お前の本体が考えてることなんだよな?」
「そうだよ。ただ設定っていうフィルターを通るから、そのものってわけにはいかないのが難かな――」
「「「――きゃああああああああ!」」」
饒舌に語りだしたエイスを遮るように、通りの方から複数の悲鳴があがった。
***
カーテンをそっと開いてみると窓の下部は結露で曇っている。そこを人差し指で一筋なぞって、梨沙は溜息をついた。
窓の外が白くなかったから……というのも、ほんの少しある。
だけど一番の理由は匠のことだ。
日付が変わったら何か進展があるかと思ったが、何もない。
無意識に携帯電話に手を伸ばす。何度画面をスクロールしても、溜息しか出てこない。しまいに心配を通り越して腹が立ってきた。
(……もう知らないっ)
携帯電話を枕に投げ落とす。
こっちの気もしらないで、どうせひょっこり戻ってくるんでしょう? そうよ、そうに決まっている。殊勝な顔して謝ったって赦さないんだから。
(……でも。……きっと、無理……)
「あー……」
顔から枕に飛び込む。
(なんでこんなに好きなんだろ……)
やるせなく溜息を吐いたところで軽快な着信メロディーが流れた。画面に表示された友人の名を確かめて通話ボタンを押す。
「――あ、リサ? ねえねえちょっと聞いてよ!」
咄嗟に梨沙は携帯電話を耳から離した。曲がり角で出会い頭にぶつかるような、そんな勢いある高音に思わず顔をしかめてしまう。
クラスメイトでもある美夏との「ねえねえ」から始まる会話は今に始まったことではないが、今日はまた一段と向こうが話したがっているのがその弾んだ声音から伝わってくる。
「……なあに、どうしたの?」
「遭っちゃった!」
「え?」
「だーかーら。遭ったんだってば」
「……だから、何と?」
「そんなの一個しかないでしょ。今話題の謎の生命よ!」
「……ほんとなの?」
運は関係ないだろうが、梨沙はまだ実物と遭遇していない。
(……遭いたいとも思わないけど)
そもそも、得体の知れないものに遭遇するよりしない方が良いに決まっている。何かあってからでは遅いのだから。
けれど……気にならないといえば嘘になる。
大なり小なり、好奇心というやつだ。
「ほんとにテレビとかで言ってる感じなの?」
どういう訳か、騒がれているにも関わらず、未だ画像は公に発表されていない。梨沙がちらと眺めたネット情報によれば、撮影を試みた者はいるらしいが何度シャッターを切っても記録に残らないのだという。
まるでそれではお化けか幽霊ではないか。
霊感皆無、心霊体験などしたことのない梨沙からすれば眉唾ものだったが、文言だけが徒に繰り返される現実に、やはりそうなのだろうかと考えが傾きつつある。
「そう。モザイクじゃなくて砂嵐。もう夕方で薄暗かったんだけど、はっきり輪郭わかるの。でも線みたいにはっきりしてるんじゃなくて、ジーンスの裾のほつれみたいな感じっていうの? 暗い色なのに溶けあってないわけ。わかる?」
「う、うーん……?」
「で、しかも周りに誰もいなくてさ。でもこっち向かってくるのがわかるし、」
「うん、」
「怖いじゃない? しかも甲高い声で何か言ってるんだけどさっぱりだし、」
「……うん、」
「どうしようって思って咄嗟に持ってた鞄投げたの、そしたら――どうなったと思う?」
「どうって……ふつう、ぶつかるんじゃない?」
「ううん、それがね……すり抜けたの」
***
「きゃあああっ」
「うわああ出たぞ!」
「なにあれ?!」
「嘘だろっ」
「逃げろー」
人々の上げる悲鳴が渦を巻いている。たった一人の少年をその場に押しとどめるように、取り囲むように。
「……やだなあ。ボクから言わせてもらえば、おかしいのはそっちだけど」
成り行きを一緒になって眺めるエイスがぼやく。……といっても、嘆いているのは科白だけで、実の伴わない言葉は白々しいだけだ。
黙ってろよと匠は思う。
化け物だ、と叫ぶ声がそこかしこであがっているが、匠にはどうしても彼は人間にしか見えない。
(小……中学生……か?)
体格から推測してみる。顔を俯かせているから表情は読みにくい。が、明るくないことぐらい分かる。自分に自信があるなら俯く必要などないからだ。
(……何か言えよ)
違う、とか、助けてとか。
「……っ」
匠は奥歯を噛みしめる。そこではたと気付いて頭を振った。
(そうじゃない)
少年はちゃんと言っている。
逃げ惑う人々の声がかき消していてもいなくとも。
匠には分かる。同じだからこそ、分かる。少年の心はきっと叫んでいる。匠がそうだったように。
「タクミ?」
身体が動いていた。
エイスが自分の前に現れたときのことを思い出してではなく、まして彼を救おうなんて大層な思いに突き動かされたからではなく。
直感だ。
出会いは大切にしろという、祖母譲りの行動理念。
――今行かなければきっと後悔する。
それが匠を突き動かした。
通りに出た途端、ざわめきの温度が増した。
「――っ」
飛んでくる言葉は矢となり弾となり匠の心を刺し、貫く。
(うるさい)
(うるさい)
(黙れ)
(だまれ!)
匠に出来る対抗策はちっぽけで、壁はほとんど役に立たない。それでも引き返す気は起こらなかった。
「おい!」
呼び声に、少年の細い両肩が震える。ゆっくりと面をあげ、その面構えが露わになろうとした矢先、
「これでも喰らえ!」
漫画の中でしか見ないような定型句に匠の意識がそちらを向く。そしてぎょっとした。
(嘘だろ)
放物線を描く空き缶。
その終着点、狙われたのは少年の方だ。
「……避けろっ」
「え?」
「だから――……くそっ」
事態が飲み込めていない少年に上手く説明できる自信も余裕もない。じれた匠は放物線の軌道に割り込もうと疾走を加速する。
すっかり失念していたのだ。
世界が自分たちを拒絶していることを。
だから余計に混乱した。
「――え?」
伸ばした右手をすり抜けた缶が――それを見送る匠の目は、少年の頭を通過して無様に地に転がり落ちるのを見た。
束の間、時間が凍りつく。
揺り動かしたのはエイス。
「こっち!」
「!」
呼ばれてはっとする。
「行くぞ、走れ!」
問答無用で少年を促す。
「あ、わ……うんっ」
少年を先へ行かせてしんがりを務める。
現実問題、時は誰に対しても平等だった。
「待てぇ!」
後ろの方から複数の声が追いかけてくる。
(待つわけないだろ)
匠は振り返らない。いちいち確認しなくても、追いかけてくるのが善意の行動でないことは明らかだった。
面白がっている。
(……くそっ)
獲物をいたぶる強者気取りだ。
「振り向かなくていいからな。あいつについてけ!」
少年が首肯する。
先頭のエイスは目的地があるのか足取りに迷いがない。路地の合間を縫うように突き進む。
(……信じるからな)
この場を切り抜けることにだけ注力していた匠は、追っ手の気配が遠ざかったことにしばらく気付かなかった。走るのに疲れた彼らは結局、あっさりと目的を投げ出したのだ。
やがて、薄汚れた白い蓋付きポリバケツに行く手を塞がれる形でエイスが足を止めた。
「揚げ物屋さんかな?」
エイスが裏口を見やる。その、息も乱さず、けろりとした顔に匠は驚きかけて、ああそうだったと落胆する。自分だって同じだった。全力疾走したが、身体は疲れ知らず。時間帯的に言えば、路地に漂う揚げ物の匂いに腹の虫がないたっていいはずだが、そんな気配は微塵もない。
「あの……」
「ん?」
「なになに? 何が知りたい?」
戸惑い気味に口を開いた少年に、エイスがすっと膝を曲げ、肉薄し、視線を合わせる。少年がじりと後退った。
「え、やだ。どうしてさがるの?」
「え、えと……」
「知らない人間にすり寄られたら誰だってビビるって」
「そっか、ごめん、気をつける。でも、人と話すときは目線を合わせるものなんでしょ?」
「あー、間違っちゃいないけど、距離が近すぎるんだよ」
「なるほどね」
エイスは一人、うんうんと頷いている。そんなエイスと匠の間で、少年は小動物のように縮こまっていた。
(まあ、無理ないよな)
匠は息を吐いて、改めて少年に向き直る。
「とりあえず名前な。俺は藤野匠。こいつはエイス。で、お前は?」
「ちょっと自分で言わせてよ」
「はいはい。……で?」
無邪気に絡んでくるエイスを適当にあしらう。
「ぼ、ぼくは――」
少年はすっと息を吸い込んで、
「……悠真。巽、悠真」
***
「だからね。きっと宇宙人なのよ!」
見えないながら、拳を握り込んでいそうな友人の鼻息の荒さに、梨沙は溜息をつきたくなった。
「…………寝る前に何観たの?」
「どーしてわかったの? 同僚刑事が犯人を捜してやってきた宇宙人だったってやつなんだけど」
(……あなたいつもそうじゃない)
と、思っても口にはしない。
美夏は夢見がちな少女ではないが、その場のノリと勢いで喋る傾向が強い。
だが、本人に自覚があるのか、言わずとも伝わったらしい。
「でもね、ほんとにそう思うんだって」
茶化すような色が声から消える。
「美夏……」
「だってさ。じゃあさ、梨沙はどう思う?」
「え?」
「あんな得体の知れないのがさ、地球上の生物だと思う? テレビ観たって何にも言わないじゃん? だったらもう宇宙人しかないじゃない!」
(だったら、って……)
そうは思うものの、否定反論できる材料も意見も梨沙は持ち合わせていなかったし、早々に結論づけにかかった美夏の気持ちも理解は出来る。未だ実物を見たことがない梨沙と違い、彼女は実際に遭遇したのだ。推し量っても量りきれないが、きっと相当恐ろしかったに違いない。
人は訳の分からないものをどうにかして型に嵌めようとする。自分の理解できる形にしてしまえば不安を軽減することができるから。
優位に立ちたいから、平均以下に貶める。
宇宙人という何でもあり枠に分類しておけば、何があっても「ほら、宇宙人だからしょうがない」と心の平穏を保つ事が出来る。
「でも、宇宙人だったとして、どうなるの?」
「どうなるって……そんなの、とっくに政府が動いてるに決まってるじゃん。古今東西、宇宙人が栄えたたとえなし、でしょ?」
それを言うなら「悪」……と喉元まで出かかって、飲み込む。悪も宇宙人もこの場合同じだ。
(確かに……)
それなら公に出回っている情報がいまいちぱっとしないのにも説明がつく。
(……ような気がする。けど、)
所詮想像の域でしかない。しかも所謂どこにでもいる、普通の女子高生の頭が紡ぎ出した代物。
梨沙の胸でくすぶる不安を一掃してはくれなかった。
***
(……もしかして夢なのかな)
名前を尋ねられた悠真はまだ、現状に戸惑っていた。危機を脱したというのに、手放しで安堵できない。
どこからどこまでが本当なんだろう。
最初からずっと夢なんだろうか。
(そうだったらいいのに……)
現実なんて認めたくない。
もしこれが夢なら、それはとんでもない悪夢で。目の前の二人は一時的にせよ、自分を救い出してくれた。
束の間の安堵に自ら水を差すようだが、悠真は口にせずに入られなかった。
「……どうして?」
「え?」
「どうして助けてくれたの?」
「どうしてって……なあ、」
匠は口をすぼませ、後頭部を右手でがしがしと掻いて、
「身体が動いたんだからとしか。それに。俺からすりゃ、おまえはどっから見ても人間だし。……お前は違うの?」
全力で悠真は首を振った。
目の前にいるのは、匠の言葉を借りるなら「どっから見ても人間」だ。悠真のことを見て悲鳴を上げたりしない、化け物だと非難しない。逃げもせず、そこにいる。それだけでたまらなく胸の奥が温かくなる。
「ありがと……」
鼻の奥がつんとする。
(なみだ……)
咄嗟に指が目頭に伸びる。
それを見るなり匠が顔をしかめた。
「……おい、やめとけ。こいつの話聞いたらもっと泣きたくなるぞ」
「え?」
言葉の意味が分からず、促されるまま視線をエイスに流す。エイスは器用に眉を八の字にして笑っている。不自然に綺麗な笑みは、出会ったばかりの悠真に警戒心を抱かせるに充分だった。
(この人なんか……変?)
「ボクの話、聞いてくれるかな? ううん、大事なことだから、黙って聞いてね」
言い方は丁寧なのに有無を言わさぬ力があった。気圧されるほど眼光鋭くもないのに、悠真は頷いていた。
エイスの話――事態の説明は悠真を絶句させるに充分だった。
「意味が……分からない。僕らがゲームの中の登場人間と同じだって言うの? なにそれ……。バグ? はあ? 僕が化け物なのはきみのせいなの?」
「ボクっていうか、ボクの本体ね」
「一緒だろ!」
「違うよう」
「――っ」
終始ニコニコしている存在に悠真の中の何かが振り切れそうになる。
(何なの何なの、何でこの人ずっと笑ってるの!)
暴発しそうな頭にふっと差し水が注がれる。
「割り切った方がいいぞ」
でも水は一瞬で蒸発した。悠真は匠に食ってかかる。
「なんでそんなに冷静なんだよ?」
「そうでもないぞ。改めて話聞いてたらムカムカもやもやしてきたし。――けど、いちいち食って掛かったって、俺らに何が出来るんだ? こいつ糾弾したからって現状が改善される訳じゃない。そしたらもう、なるようになるしかないって、割り切るしかないじゃないか。俺らは待つしかないんだよ。人目につかないに逃げて、その時を待つしかない」
「でも……」
「わかるよ。こいつの顔見てたらやりきれなくなる。見た目がこうだから、つい俺らの感覚で計りがちだけど、こいつは人間じゃない。本人も設定が~って言ったろ。あれだよこの世界の本当の異分子、非プレイヤーキャラっていうか。うん。頭がいいから対応はできるけど、ほんと俺らの事なんて理解できてないっつうか、しちゃいないんだ、たぶん」
匠は途中合いの手を入れながら、悠真に語った。まるで自らにそう言い聞かせたがっているように悠真には感じられた。
(エイスは……この人にも、僕みたいに説明したのかな)
悠真と違い、たった一人で聞いた彼はどうやって怒りを飲み込んだんだろう。しかも行動するするなんて、相当ストレスが溜まったのではないか。
(この人たぶんまだ高校生とかだよね……)
高校生ともなれば、これぐらい当然のようにやってのけられるんだろうか。思考の片隅で、悠真はそんなことを思った。
*****27
(あ~……)
月並みな表現だが、彼は己の運命を呪った。
時間がない。
時間がない。
あと十数分で日付が変わってしまう。それでは近所のコンビニまでダッシュしてポイントカードを買いに来た意味がない。
(まあ、期限忘れてたこっちも駄目なんだろうけど……)
このところ友人が行方不明になったり、心配する友人の彼女に付き合ったりで忙しくてログインすらしていなかったものだから失念していたのだ。
目を逸らしていた現実を再認識すべく、自分を取り囲む連中をさりげなく観察する。俗に呼称される、典型的な不良たち。薄暗い路地裏であらためてみなくても、彼らが時間を延長してくれる神様にはとても思えない。
(選択肢次第じゃ、時間を飛ばしてはくれるだろうけど……)
四対一。痛いのは嫌だ。勝利の兆しなんて見えないどころかそもそも殴り合いなんてやったことがないし、勝つ手段一つ浮かばない。
むしろ、そんなことを考える時間すら惜しい。だったら、とっとと財布の中身を披露してこの場を納めるのがいいに決まっている。
(あ、駄目だ。何だよ、ねえのかよって絡まれるパターンか、これ)
真冬の寒空の下というのに汗が止まらない。
「ほらほら、さっさと出せよ。ああ?」
(うわあ、凄んでくるよおおお……)
もう泣きそうだ。いや、もう泣いているのかも知れないが焦燥と恐怖が感覚を麻痺させているのだろう、思考は危機感に欠けるし、表情筋の現状把握が困難だ。
(うわあああん、誰か助けて~!)
この際お母さんでも先生でも、一番いいのはお巡りさんだけど――
(――っ!?)
恐慌状態真っ直中、彼はそれに気付いた。
暗闇に埋没することない輪郭を持った例の生き物。
ブラウン管テレビの砂嵐に喩えるのを覚えていたが、一目見て、白紙を黒線でできるだけ塗り潰したあの感じを想起させた。
もちろん、これが初めてだ。
(……どうしよ)
想定だにしない状況は空転する思考を凍り付かせる。
目は「それ」に釘付けで。
足は地面に貼り付いて。
不良が何か言っているが、それより耳元の鼓動がうるさくて。
唇の隙間から音にならない呼気だけが漏れて。
ほんの数分ながら、まるで誰かが故意に引き延ばしているんじゃないかというぐらい、濃ゆい時間で。
「お、おい」
不良Cの声に仲間たちが「何だよ」と怪訝な目を投げる。が、不良Cは仲間の態度に構うことなく(というかそんな余裕はなかったに違いない)、Bの後ろを指差す。
「あぁ?」
Bは振り向こうとして自分の肩から生えた黒いものに気付き、ぎょっとした顔でそのまま目線を背後に流した。
「うわあああっ!」
Bの悲鳴が引き金となり、不良たちの興味対象は一気に「それ」へ移る。
これを好機だと逃げられなかったのは、背後が袋小路だと知っていたのもあるがやはり好奇心だろう。
「%wj$g0¥ljk」
黒いそれが何か言う。
「何か……言ってるけど……」
「な、何語?」
「知らねえよ……っ」
「こっち来るなよ、触るなよ……っ!」
判別不可能な言語を形作るのはひどく耳障りな音で、彼らを困惑と不安の渦に突き落とした。
恐慌状態の一人が手を払う。俺に触るなと、突っぱねるように。
その先は、目を疑うような一瞬の出来事だった――
「こう、手のひらがちかっと赤く光った――と思ったら、消えたんだよ!」
「……」
右手を振りかぶって実演してみせる百道に、梨沙は反応に困った。
こちらの興味を惹こうという意図が見え見えなだけに、どうしても話を素直に受け取れないのだ。
「消えたって、その……化け物が?」
「そうなんだよ! 跡形もないんだって。もう、不良もびっくりな展開? 勢いで掲示板に書き込んだら「俺も見た」っていっぱい返ってきて、超コーフンするってば!」
「う、うん……」
「ちょっとー、反応悪くない? これホントの話なんだから」
「それは……だって。手をかざしたら消えるだなんて普通あり得ないことでしょう?」
「何言ってるの。あんなのがうろついてる時点でもうフツーじゃないじゃん」
梨沙は返す言葉に詰まる。そう言われてしまえば、その通りだ。少し前まであんな生き物はこの世界にはいなかった。
(でもまだ実物見たことないのよね……)
それを幸、不幸で量るなら、おそらく後者なのだろう。だが好奇心の観点からみれば「ついていない」この一言に尽きる。未だにその像は公に明らかにされておらず、他者の言葉から想像するしかないからだ。
そのせいもあって、余計に百道の話が信じられない。
彼は朝十時に梨沙の家まで訪ねてきて、居間で梨沙の母親が出した紅茶を息継ぎ代わりに飲んで昨夜の体験談を無駄に熱く語った。どうして家が分かったのか、困惑しつつ訊ねたら「同中のやつあたったらすぐ分かったよ」とあっさり返され拍子抜けした。変に勘ぐりすぎた自分が莫迦みたいだ。
(恥ずかしい……)
口にしなくて良かった。
百道はクッキーをまるまる一個口の中に放り込んで、
「れされさ。俺もできるかにゃーってひゃってみたんだけどさあ……ん。これが、なあんにも起こらないわけ。ね、ね。どういうことだと思う? もしかして、あいつら限定とか?」
「わたしに……きかれても……」
「だよね~」
(分かっているなら聞かないでよ……!)
眉間にぐっと力がこもるのを感じて、梨沙は指の関節を押し当てて誤魔化した。
(いけないいけない)
彼氏の友達だから気を遣って、でなく、単なる一個人の好みの問題。
素直に反応したら、倍になって返ってきそうで嫌なのだ……あくまで予感だけれど。
「――あの、さ」
百道の声の調子が落ちて、おや、と思ったらとんでもないこと言われた。
「思うんだけど、あれ、実は行方不明の人たちなんじゃないかな」
(何言ってるの?)
「何言ってるの?」
思ったままがするりと口から零れた。
ふざけたことを言わないで――違う。理解できない――これも違う、けれど惜しい。
何て莫迦なことを言うのだろうこの人は――不思議な思いで梨沙は百道を見ていた。
あの化け物が人間? そんなことはあり得ないし、そんなことを考える方がどうかしている。
どうしたらそんな考えに至ったのか。梨沙には全く理解が出来なかった。
「やだな、冗談だよ。じょーだん」
そう言って百道は笑ったが、一瞬だけ醒めた目をしたことを梨沙はちゃんと気付いている。
(あたし……何かおかしかった?)
いくら考えてみても自分に非があったとは思えない。だから、いつの間にか忘れていた。
*
「妹かあ、可愛いんだろうな」
「うんっ。手なんてこんな小っちゃいし、やわらかいし、あったかいんだよ。僕の指をぎゅって握ってさ、くりくりした目で僕を見つめてくるんだよ」
そう、妹のことのことを語る悠真の顔は生き生きしている。知り合ったときの、疲弊しきった状態を見ているだけに、匠は彼を茶化そうとは決して思わない。
(小五って言ったっけ)
小学校高学年にしては背の高い方だろう。もっとも、まだまだ匠の方が余裕でつむじを見下ろせる。
悠真曰く、先々月生まれた妹がとにかく可愛くてしょうがないらしい。
(人って好きなものを語るとき、こう、いい顔するよな)
匠はそっと視線を上向ける。寒々しい青空。あの後どこに身を潜めるか話し合って結局、最初の屋上に戻ってきた。
(何にも進んでない)
本当に全てが元通りになるんだろうか。不安が腹の底に沈殿していくばかりだ。
「ねえ藤野さん」
呼ばれて隣を見る。抱えた膝に顔を埋めるようにして、悠真が言う。
「僕、うちに帰れるのかな……」
ああ、何言ってるんだよ、大丈夫だよ――言えなかった。年長者なら嘘でも励ますべきなのかも知れないけれど、結んだ唇が貼り付いていて解けなかった。迷いに揺れる自分自身に言い聞かせることに躊躇った。
何しろ、呑気にフェンス越し、地上を見下ろすエイスからは目に見える成果が得られない。いくら説明をされても、それに実感が伴わなければ安心感など得られしない。
(そもそも「本体」ってほんとにいるのか)
疑い出すときりがないというが、行き着くところはそこになる。
目に見えぬ存在を信じて待つ――何とも滑稽で、けれど匠たちにはそれしかできない。
(あー……せめてこいつがもっとこう、頼りがいある感じだったら……)
そう考えてしまうのももう何度目だろう。無駄な思索。
それでも、
『もちろん』
あのときは本当に、その一声が地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸だった。
救われると思った。
「ちょっと悪いお知らせがあります」
エイスが匠たちの方へ戻ってくるなり言った。
「わるい――」
「――おしらせ?」
匠と悠真は顔を見合わせた。今の状態もひどいのに、一体何だというのだ。
エイスは器用に眉を八の字にして、
「進化しちゃったみたい」
「は? 進化?」
「進化……って、あの進化?」
「うん。魔法使いにジョブチェンジってやつ」
「あー……悪いお知らせってことは俺らの事じゃあ、ないんだよな?」
「そうだね」
(そうだね、じゃねえよ……)
ふつふつと胸の奥、怒りが湧いてくる。
「で、具体的にどう進化なんだ?」
「え、言ったじゃない。魔法使いにジョブチェンジって」
「たとえ話じゃなかったの?!」
「それなら最初にそう言うよ」
笑顔で返された悠真が物言いたげな顔をして、黙り込む。
エイスの方に他意はなくとも、その言動一つ一つが、気にし出すといちいち勘に障って仕方ない。そんな悠真の気持ちは匠にも痛いほど分かる。匠もそのうち感情を爆発させていただろう。
(……こいつのおかげだな)
悠真が加わったことで沸点が幾分下がったが、それもぎりぎりのラインである。
匠は拳の関節で眉間を小突きながら、
「……もうちょい詳細な説明頼む」
「はいはい。えっとね、向こうに備わったのはとてもシンプルな力。ボクらを消す力。どうやら手のひらを――、こう、翳す? みたいにされると消えちゃうみたい。今のところ、効果範囲は手のひらの直線上だから避けられないことはないかな。それにまだ自分が進化したこと気付いてない人の方が多いみたいだけど、これは時間の問題かな。僕らの方がこうなったのだって最初はじわじわだったからねえ」
深刻な話のはずが、遠い国の話を聞かされているようだ。
「……ねえ、それって死んじゃうって事?」
「そうだね」
「……っ! そうだね、じゃないよ! 何でそんな呑気なわけ? ねえ、助けてくれるんじゃなかったの? 早くなんとかしてよ! それとも、分身だから、自分は死なないからどうでもいいの? ねえ、そうなの? 違うの? …………もうやだ、」
声を詰まらせ、悠真は顔を覆ってしゃがみ込んでしまう。
「……悠真」
「……言っても無駄って分かってても無理だよ……だってむかつくもん……」
気持ちは痛いほど分かる。だけどこんな時こそ冷静でいなくては――そう思う反面、どこか胸がすっとしたのも事実で。
そっと息を吐き出して、匠はエイスを見た。
エイスはやっぱり笑顔で。それが匠をもやっとさせる。
「対抗策は本体が思案中だよ。夜明けまでには実装可能になるんじゃないかな」
「夜明け……。半日我慢しろって?」
「うん、ごめんね」
「…………なにがごめん、だ」
ぼそっと、しかし聞こえるように悠真が毒を吐く。
エイスが眉尻を下げた。
匠は、また仕様か程度にしか思わなかったが、
「今言うのはちょっと気が引けるけど、ボクは、心がないなんて最初から言ってないから」
匠は瞠目し、悠真が弾かれたように顔を上げる。
エイスはさっと二人の間をすり抜けて、
「とりあえず夜明けまでここで待ってようよ」
「……」
「……」
申し合わせるわけでもなく二人は出入り口の方へ向かい、ドアを挟んで壁に寄りかかって座り込んだ。僅かな庇から伸びる影が彼らをすっぽり覆う。
「冗談……だよね」
悠真が茫洋と呟く。
二人の前方、エイスはその身を午後の日差しにさらしてフェンス越し、下界を眺めている。
(……ほんと、悪いお知らせだよ)
なんて爆弾を投下してくれたんだ。苛々と匠は頭を掻いた。
これまでのやりとりを顧みれば――「分身」や「設定」「仕様」だの、いろいろ言われたが「心がない」とは確かに聞いていない。
こっちの気持ちなんて理解できやしないと勝手に決めつけていたけれど。
本当は自分たちと同じように感じて、傷ついていたのだろうか。
(……ずっと笑ってるから分かんねえよ)
息を吸って――「分からないけど」吐き出す。
「喋り方はあんなだし、いっつも笑ってるし。だけど表面上のそういうの取っ払って考えてみるとさ、多分……だけど。あいつ嘘だけはついたことないんじゃないかなって思うんだ」
「……さいあく、」
絶望の淵に立ったような声をあげる悠真に、匠は視線を向ける。
「何が?」
「藤野さんが、」
「俺?」
抱えた膝に顔を埋めた悠真がじと目で頷く。
「あんたが分かりっこない的なこと言うから、信じたじゃん!」
「それは……」
釈明の言葉はすぐそこまで出かかっていたが飲み込んだ。
「ごめん、俺が悪かった」
「……一回口にしたことは消せないって先生が言ってた」
ぐうの音も出ない正当な文句に黙るしかない。
「こうも言ってた。こんにちはごめんなさいありがとうはちゃんとしましょうねって。心がこもってないのはすぐ分かるのよって」
「……」
「でも時々うそが上手い人がいて先生すぐ騙されちゃうのって、よく言ってる」
匠は少し迷ったが、
「……先生美人?」
「まあそこそこ。……藤野さんはそれなりにごめんなさい出来る人なんだね。……むかつく。だって……ほんとは、」
「……はいはい、もういいよ。それより先生いくつ?」
「…………、にじゅうく。……トシマが好きなの?」
「違うけど、それ先生には言うなよ、泣くぞ」
「言われなくてもしないよ……――――――」
悠真はもごもご早口で言うとまた、顔を膝に埋めてしまう。
それを横目に、匠はひっそり笑った。弟というものはこんな感じなのだろうか。
「別に――。だって。どっちが、じゃなくてどっちも、だろ」
「……うん」
顔を伏せたまま、悠真が頷いた。
*****28
(何で言ったんだろうなあ)
傍目には街を眺めているようにしか見えないだろうが、それもエイスの仕事だ。
エイスは、俯瞰でしか状況を見られないエイス(本体)の触覚である。もっとも急場しのぎで作ったことが徒となり、対応範囲が狭ければ出来ることも少ない。その点を匠らは問題にしたしエイスも申し訳ないと思ってはいるが、大した問題ではなかった――向こうが進化するまでは。
(ボクはエイスだ)
エイスはエイスだが、エイスではない。あくまで本体より抽出された一部、分身は分身。本物になりたいとかそんなことは思わない。
(自分について考えてみる、なんて。人間みたい)
人間かと問われればエイスは違うと言う。人間ではないのかと問われれば、言葉に迷う。
(ボクが仕様だなんだというから、無機的なものだと思ってたみたいだけど……)
エイスを構成するものは匠たちと似通っている。
(亜種、ううん。もどき、かな)
だけどそれを詳しく説明すること、また理解して貰う必要性はないのだが。
(……なのに、なんで言ったかなあ)
考えるほどに首を傾げる。仕様にない(むだな)ことをしている自覚はある。
(静かだなあ)
街の明かりが一つ、また一つ消えていく。
(すっかり黙り込んじゃって……ボクのせいかなあ。なんて言ったら絶対否定するんだろうなあ……うーん、なんで言っちゃったかなあボク)
巡る思考と平行して、エイスは今後を考える。
(じき魔法は公認される。手段を手に入れたんだ、狩りが始まるのも時間の問題だろう)
いまは静かだが、そのうち上空を偵察ヘリが飛びかうようになる。
残存する規定のプログラムが異物を排除するために人間を急速進化させている。その速度は、人間に考える暇を与えない。
異物は排除しなければならない――誰に言われるでもなく、人間はそれを自覚し行動に移す。自分たちが動かされているなんて知らず。
(排除するために手段を選ばない、か。まったく、よく出来たもんだ――)
エイスの思考にエイス(本体)の思考が混ざる。
(まあ、今に見てろってわけで――転送)
ああ、できたんだ――送られてくるファイルが展開され、新しい項目が上書きされる。
エイスは二人を無邪気に振り返った。
「お待たせ!」
*
どうにも我慢ならないことが誰にだってあるはずだ。
愛車を押して朝の巡回を始めた道すがら、古林は目を光らせる。
世間を騒がせている化け物が潜んでいやしないか、物陰の向こうまで回り込んで確かめる。
……温い。温すぎる。
なぜに化け物への対策が「遭遇しても慌てず騒がず、周囲の民間人へ避難指示を努めること」なのだ?
否定するわけではない。だがどうして危険対象の排除はそこに含まれないのだ。
(触れることが出来ないというのは本当なのだろうか……)
だというのならもっと、民間人に注意喚起を促すべきではないのか。
(それこそ戒厳令のような……。それで一掃するなり……)
古林は舌打ちした。
これまで何度か化け物と遭遇したが、いずれも向こうに逃げられていた。
(あいつら……妙にすばしっこくて。……ああ、腹が立つ!)
曲がり角にさしかかり、愛車の前輪を少し内側へ傾ける。逸れた意識を前方に戻したところで、
――きたああああっ!
古林は声ならぬ声で叫んだ。
ついに遭遇した。
化け物だ!
*
「もう……っ、なんだっていうの」
路面を踏み割るような勢いで歩きながら、相田寧音は堪えきれずに想いを吐き出した。
最近周りがひどい。
自分を見てぎゃっと悲鳴をあげたかと思えば、「あれ、あんたそこにいたの?」なんて真顔で言ってくる。
「もうほんっっと、訳わかんないっ」
あたしは最初からそこにいたっての!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(書きかけ没なので話はここまで)
これにて、今度こそおしまいです。
ここまでお付き合いくださった方、ほんとに本当にありがとうございました。




