エイス
それから。
二十四、二十五、二十六……。
日付が更新されてもタクミの身にはなにも起こらなかった。世界にも、何も。
物に触れられないとか、あの不快な苦しみに襲われることもなく、またエイスが現れることもなかった。
かといって時間が巻き戻ったぶん生活が有利になるようなことはなかった。
引っかかったのは、確かに見聞きしたはずの「太平洋が裂けた」とかいうとんでもニュースがどこを探しても見つけられなかったことだ。大して賢くもない頭を精一杯働かせて、ひょっとするとそれが、エイスの失敗とやらが目に見える形で世界に現れた結果だったのかもしれないと導いてみたが、いかんせん判定してくれる人はいないのでタクミは早々に投げた。
全ては夢だったのだ、そう思うことにした。それがこれからの人生を楽に過ごすなによりのヒントだ。
そう完全に振り切るまでにタクミがしたことといえば、一つはユウマを探すことだった。これが意外にも近所の小学校に通っていると分かって、拍子抜けした。やっぱり自分から声を掛けるのは怖くて、視界に入るように何度か横切ってみたが彼は無反応だった。
時折、街中でネネを見かけるが、あちらも反応はない。
リサも、ユヅルも今まで通り、普通に接してくる。
化け物も魔法も何もない。
タクミだけが憶えている。
もし、声をかけて思い出してしまったら? そう思うと声なんてかけられない。忘れているなら、そのほうがいいに決まっている。
あんな悪夢のような時間。
そうは思うのだが、共有する相手がいないのはそれはそれで辛くもあった。どこかに吐き出したい、けれど誰が信じてくれるだろう。
だからやはり、早く忘れてしまうのだ。あれらはみんな夢だった。悪い夢。夢はもう醒めた。
「はあ……」
本日の仕事を始めて早々、タクミは何度となくため息をついている。
仕事と行ってもタクミの仕事は基本的に椅子に座っていて、客が来たらレジを打つことだ。棚卸しや本のシュリンク掛けなどは妖精さん、もとい店長が夜のうちに行うからタクミにそれらは無縁だ(よって商品が発売当日、店頭に並ぶことはまずない)。
ほとんど客も来やしないのに、大晦日の今日もまた、店を開けている。
タクミが店番をしている間、店長が奥の部屋から出てくることはない。だからタクミの行動は自由だ。うたた寝しても、ゲームをしていても指摘するしてくるものはない。
思考を放棄してタクミが携帯ゲーム機をいじっているといきなり、いつもはびくともしない奥の扉が開いた。
「――っ!!」
何事だと、肩を震わせて立ち上がり振りかえれば。
戸口に、くすんだ肌に死んだ魚のような目をした青年が立っていた。数えるほどしか顔を合わせていないが、それがこの店のあるじであることをタクミも忘れてはいなかった。
(――……っの、驚かせんなよっ!)
タクミは力の限り罵倒した。とはいえ仮にも店長だ、面と向かってそんなことが出来るわけもなく、胸の中だけにとどまる。
戸口で仁王立ちの店長は、その濁った眼をぎょろっと動かしてタクミを見た。
(うう……)
生気に欠ける容貌も相まって、タクミは彼と面と向き合うのを苦手としていた。何だか見ていると「この人大丈夫? 今ぶっ倒れたりしないよね……」と、とても不安になるのだ。
(な、何の用だろ……)
引きつりそうな唇の端をなんとか水平に保って、タクミは彼の言葉を待った。店長が息を吸う音がはっきり聞こえて、この場の状況を嫌でもタクミに思い知らされる。
(だいじょうぶ……だよな)
視線で背後、店の正面出入り口の場所をつい再確認してしまった。
人前に現れることがほとんどない店長が今日に限って、年の瀬になって、当然姿を現した。その意味は何だろう。いきなりやる気に目覚めてタクミへ解雇通告にきたとか。それとも何だか色々吹っ切れてしまって目標への第一歩を踏み出そうとしているのか。
かすかな息苦しさを感じながら辛抱強く待っているとようやく、店長が口を開いた。
「すまない、待たせた」
親しげに話しかけてきた店長をタクミは穴が開くほど見つめた。
(……なんだって?)
すまない? またせた?
意味が分からなければ、いきなり心の距離を詰めてきたこともられたことも信じられない。今まで直にやりとりした内容を原稿用紙に落とし込めば間違いなく四百字詰めでおつりが来る。その程度の仲でしかない、それが……。
「……エイス……なのか?」
まさかと思いつつも恐る恐る口にした名に、店長が頷いた。
「といっても……ああ、なんだっけ。きみの言葉を借りるなら「本体」の方だけどな。説明するとこの状態は一時的にこのの身体を借りているだけだから、用が済めば彼は元に戻る。心配には及ばない」
「はあ、」
信頼関係の稀薄さから店長の身はさほど案じておらず、それよりも、もしも誰かこの場に来てしまったらなんと言い逃れすればいいのかというほうがタクミには重要だった。
その心を読んだように店長もといエイスが付け加える。
「ちなみに。しばらくは誰も来ないようにしてある。もっともボクが気を回さなくても閑かな店のようだけど……。
さて。一段落ついたらきみに説明をしようと思っていたんだけど、ちょっと手間取ってしまってね、遅くなった」
戸口で不動のまま、エイスが言う。
「説明、ですか」
エイス「本体」の話し方は居丈高というほどではないが偉そうに聞こえて、自然とタクミの話し方も、学校の先輩に対するときのような丁寧な物になってしまう。
「そう。気になっているはずだ、なぜ自分だけ憶えているんだろうって。
ざっといえば仕様だよ」
「……しよう?」
エイスが自分自身を説明するときに使っていた言葉だ。
「順を追って説明しよう。
ボクがこの世界を探るために自分のいわばうつし身のような存在を送り込んだのは知っているだろう?」
「エイス、ですか」
「まあ、うつし身と呼ぶには不完全極まりないものなんだけど。ともかくあれはボクでもある。その体験はボクに還ってくる。事が済んで全てのエイスは回収されたわけなんだけど……中にはおかしな奴もいてね。なんていうのかな、ボクであってもうそいつはボクじゃない。が、やはりそれもボクなんだ」
「……意味が分からないんですけど」
正直に言えば、エイスは「そうだろうな」さも当然そうに頷く。
「ボクにも分からない。よく分からないが、あのエイスはきみと友だちになりたかったらしい」
「は……い?」
「だからあれはきみを守った、きみに憶えていて欲しいと願った」
「……だから、叶えたんですか?」
声が震える。
友だちになりたいから守った? なんだそれ。それで友だちになれると本気で思っていたのか。
(……そうか)
うつし身としての「仕様」ではなくエイスが「個」として考えた出したこと。そこへ至ったとき、彼は個として生まれたのだ。その思考が利己的で破綻していても無理はない、彼は生まれたての赤子のようなものであり、そして矛盾というバグを抱えた存在になってしまったのだ。
しかしエイス「本体」はそうではないと頭を振る。
「それを抜きにして、ボクはきみには憶えていて欲しいと思ったよ。なにしろきみはボクらの会話を傍聴していたただ一人だ」
「…………俺は忘れたい」
エイスは溜息を吐いて、
「……きみの前のやつもそう言ったけど、説得するのに苦労したよ。だからここへ来るのに時間掛かったんだ」
「ほかにも……いるんですか」
「いるよ。きみはまた特別だけど、きみみたいにうつし身に願われた存在がね、世界中に存在する」
「世界中……」
「そう数はないけどね。
ああ、そうそう。誰にいくらきみの想い出を訴えても思い出すことはないから安心するといい」
「……ホント、勝手だな」
聞いているうちにふつふつと沸き上がってきた憤りをそのままぶつければ、彼は笑った。とはいえ笑ったのは店長の顔で、初めて見る表情にタクミはぞっとして鳥肌が立った。
「ああ、ほんとにな。それでも仕方ない、ボクはこの箱庭を引き継いだわけだし、きみはそのなかで息づくもので、その関係はどうあったって覆されやしないんだから」
諦めて受け入れろと、彼は言外にそう説いてくる。
そこでふとタクミは気がついた。エイスの言動に腹が立ったりしたのは何もエイスの仕様だけじゃない、「本体」によるところが大いにあったに違いないと。
「……最初からむかつくやつだったんだな」
「何か言ったかい?」
タクミは頭を振った。
何が説明なものか。そちらの事情を勝手に押しつけてきただけじゃないか。聞いたところでタクミにはどうしようもない。世界が元通りになったとしても、これから死ぬまでタクミはこの世界のバグだ。
それもこの箱庭世界に神さまのせいでだ。
「言っておくけど、ボクの仕事は箱庭を眺めることで、きみのこれからに干渉したりはしないから。……もうしたじゃないかって顔だな」
是と答える代わりに、タクミは無言で返す。
「記憶以外は一切手を出してないさ、誓ってね。ああ、誓って。……そろそろ時間だな。もう会うことはないから安心するといい」
つらつら訴えると、エイスは踵を返した。そのまま消えるかと思いきや、後ろ手にドアノブを掴み振り返った。
「ボクがいかに碌でもないか、きみには憶えていてほしいのさ」
ドアが閉まる。
戻ってくる足音もない。
「なんだよそれ……」
とんだ言い逃げだ。
タクミは立ち上がった拍子に倒してしまったパイプ椅子を起こした。
「そんなの、忘れられるわけねえだろ」
了
本編これにておしまいです。ここまでおつきあいくださりありがとうございました。
(このあとちょろっと雑文が続く予定です)




