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気付きたくなかった


 タクミは今一度、背後を確かめた。

 空を見上げれば切った爪のような月がある。そのか細い明かりは足下を照らすには弱く、けれどタクミの視野は明るかった。

(フクロウとかこんな感じなのかな)

 テレビで時々目にする「暗視カメラによる映像」というものがあるが、それとは違うだろうとタクミは思った。

 タクミの目には昼間と変わらないそのままが見えている。これも自分がバグだからだろうか。しかしエイスの説明はまだない。

 ユウマが怒り喚いてもエイスは顧みず、街を眺めていた。明らかな説明義務の放棄にタクミたちはもう、答えを諦めた。そっちがその気なら、もういい。

「……」

 ビルの外観を改めて目に焼き付けて背を向けた。

 普段足を向けない場所だから、初めて見るものだらけだ。このビルだってそうだ。覚えておかないと戻ってこられなくなってしまう。

 けれどタクミがわざわざ確かめたのはそれだけではない。

 誰かに見られていないかどうか。

 でなければこっそり出てきた意味がない。

 確かめたい、その気持ちがタクミを動かした。

 エイスと一緒にいればこの先きっと危険な目に遭うことはないだろう。だけどそれじゃ駄目なのだ。自分の力で、知りたい。世界を、自分を。

(たぶんここを、右――)

 とりあえず家に帰ろうと思った。

 色々考えて、最短で確実なのが自分の家だと思えた。といってもスタート地点に馴染みがないので、まずは場所を把握するところから初めなければいけない。それでも普通の人間は夜目が利かないのだから、夜道に強い今の状態なら、明かりを避けていけばそう危険なこともないだろう。

 鼓動が逸るのは緊張しているせいだ。いくら疾走しても息は苦しくならないのだから。

 やがて見慣れた景観が視界の先にあらわれる。

(……やっと出た、あと……もうすぐだ)

 安心感から、歩調が緩む。

 独居老人が住まう、やたら凝った門扉の家。安アパートの、一つだけなおす気配のない角のへこんだ郵便受け……。

 三日と経っていないのに懐かしく思う。

 静かな住宅街で自分の息づかいがやけに耳につく。

(こんな静かだったっけ……)

 感覚は曖昧だ。

 遠く、帰るべき我が家が見えてくる。

 目指す場所が近く見えてきたことで警戒心の薄れていたタクミは、どこからか人の声がするのにはっとして足を止めた。

 あと少しなのに。じれったい思いで電柱の影に身を潜める。

 声はタクミとは反対方向から、徐々に大きくなる。

(この時間に誰だ。うちに用か?)

 それとも近所の誰かだろうか。

 なかなか姿は見えず、タクミは固唾を呑んで待つ。

 ようやく現れた人影は二つ。

「――」

 二人はタクミの家の前で止まった。

(どうして)

 タクミは電柱の影から飛び出した。

 自分が向こうにどう見えるのか、その結果まで考えて次の行動に移れるほどタクミは冷静でなければ大人でもない。

(どうして、)

 どうして二人一緒なんだ。

 訪ねてきたということは、用事は俺だろう?

「おい――」


 振り返ったリサが手のひらを突き出した。


 こちらの声を聞くよりも、感じた気配に振り返ったような獣じみた反射速度にタクミは思考も身体も動かせない。


 遅れて振り返ったユヅルがはっとしたようにリサを見て、その腕に取りすがる。タクミはそれを視界におさめながら、でも動けず、突き出されたリサの手のひらに見入っていた。

 手のひらを向けられる、その意味を忘れたわけではない。

 消される、俺が、リサに――?

 突きつけられた本当の現実に頭の中は真っ白だ。


「――センパイ!」


 背後から怒りにも似た声が飛んできて、タクミの肩を揺らす。視線を傾けてその存在を確かめた。

 ネネだ。

「ど――」

「黙ってください、逃げますよ!」

「いや、俺は」

「うだうだ言ってないで――」

 俺はまだ用があるんだと言い募ろうとしたが、強い口調で切り捨てられる。が、ネネも最後まで言い切ることは出来なかった。

 ユヅルの制止を振り切ったリサが再び、その手をタクミたちに向かって突き出してきたからだ。

「――」

 今度こそ本当に消される。

 迫り来る赤い光にタクミが覚悟した瞬間、紫の光が散った。

「あ……」

 リサが放った光はタクミたちの手前で見えない何かに阻まれていた。その激突面から冷たい火花が散っている、音もなく。

 ぶつかり合う力と力。凄まじいはずなのに、けれど風が起こる事はなく、地が揺らぐこともなく。ただ光と色だけは華々しく美しく。

「なん、だこれ……」

 開いた口が塞がらない。

 一体誰の仕業か。考えなくても自分でなければ一人しかいない。タクミは傍らを見る。ネネはただ胸に手を当てリサの方を睨み付けているだけだったが、違いない。

 ネネだけが持つ力なのかは知らないが、助かったことは確かだ。

「……センパイ、逃げますよ」

「……」

 タクミはすぐには頷けず、向こう側のリサを見た。

 とても苛々しているのが表情で分かる。歯がゆそうな顔。こちらを消せない事への焦りだろうか、あんな顔は初めて見る。なのにちっとも嬉しくない。

(リサ……)

 呼べば届くだろうか。

「――っリサ!」

 意を決して叫んでも、返事はない。不快げに顔を歪ませるだけだ。

 ……やっぱり駄目なのか。

 こんなにも近いのに、ひどく霞んで見える。

「――隙ありっと、」

 ユヅルが再びリサの腕に取り縋った。「放してっ」攻撃が途絶える。

 これが、機会なのだろう。

「センパイっ」

「……分かってるよっ」

 タクミはネネの腕を掴んだ。ネネの声など無視して一目散に走り出す。一度でも振りかえれば足を止めてしまうと分かっていたから、とにかく走った。

(なんて悪夢だよ)

 耳で聞くのと実際に体験するのとでは違う、その文言は知っているし理解しているつもりだった。しかし喰らったのは想像以上のダメージだ。

 立ちはだかる壁はどうやっても越えられない壁だった。敵前逃亡。逃げるが勝ちとはよく言うが、そもそも勝負すらしていない。

 確かめたいと思った自分はなんと浅はかで愚かだったのだろう。

 それなのにまだ考えてしまうのだ、確かめたいと。

 リサの目に自分はどう映ったのだろう。それはそれは醜い化け物だろうか。

 だけどそれをすることは自ら進んで消されに行くようなもので、消されたくないとはっきり願う自分を自覚してしまった今、ここで踵を返す度胸はなくて。それにあの反応を見ればどう見えているかなんて容易に想像できる。わざわざ確かめに戻る方が愚かだ。それぐらい重々承知している。

 部屋に迷い込んだちっぽけな羽虫を追いかけてなかなか叩き潰せないような、そんな表情はもう見たくない。

 ましてその羽虫が自分だなんて、気付きたくなかった。




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