師走も二十五日
「じゃ、お疲れさまでーす」
マフラーを巻きながら、タクミはバイト先を後にした。
返事はない。いつものことだ。
商店街の端の方にある、客があまり来ない小さな書店。同級生のツテで紹介してもらった。レジカウンター奥の椅子に座っているのがタクミの仕事だ。
就業時間は、学校のある平日はだいたい夕方五時すぎから八時あたり、土日は九時ぐらいから五時あたりまでといった具合で、かっちり定まってはいない。遅刻早退欠勤に寛容、しかし給料はきっちり貰える、何とも恵まれた環境。
引きこもりの息子を更正させようと考えた親が、だったら息子の趣味を反映させればいいのでは――と開店してみたものの場所が悪いのか、はたまた昨今の活字離れなどという現象ゆえか、客が来ない。名義上のあるじは奥の部屋から滅多に出てこず、店員として雇われた人間はみな「暇すぎる!」と短期間で辞めていってしまう。
誰か長続きしそうな人材はいないものか。
親戚故に協力する羽目になったタクミの同級生と、手頃なアルバイト先を探していたタクミがいた。
(あー、今日もたるかった……)
確かに給料はいいが、ただ座って時間を潰すだけ。これから先どうしようか、タクミとて考えないわけではない。が、まだ情報誌を手に取るほどの真剣さはなかった。
「んん~」
人目もはばからず、腕をつき上げる。
そこかしこから聞こえる鈴の音と歌声。着飾ったアーケード通り。寄り添って歩く人々。
……正直、羨ましい。
手袋を忘れ、かじかむ指先に息を吹きかけ、白く溶けた吐息にやるせなくなる。
師走も二十五日。
夜には雪だという話だが今のところ、そんな気配はない。
(平和だよなあ……)
おととい太平洋のど真ん中が裂けたというのに、誰もそんなこと気にとめているようには見えない。
タクミだってそうだ。
(だってなあ……遠いし、現実感ないもんな)
みなが落ち着いていられるのは、海が裂けたというのにそれによる影響が何一つなかったからだ。地震や津波、土砂災害など一切起こらず。死傷者行方不明者もゼロ、現時点において生態系にこれといった観測できる異常なし。
正確には「裂けている」のではなく、円柱状の穴が開いている状態らしい。タクミが聞きかじったところでは、巨大なヒールが刺さるのを見たやつがいるとかいないとか。
(どう考えたってありえないけどな、……ん?)
鳴り出した携帯電話を取り出して、表示された名前にちょっと考えてから通話ボタンを押す。
「……はいはい、なんでしょーか」
「ちょっとちょっとー。テンション低いよ?」
「……お前に合わせてたら疲れる」
「ええ~っ」
受話器向こう、ぶつぶつ文句を垂れているがいつもどおり聞き流す。
電話の相手、ユヅルとは中学校からの腐れ縁になる。どんなやつかと訊かれたら「頭の軽さは保証する」とタクミは答えることにしている。
「……はいはい。それで?」
「えっとねえ。暇だから、あそぼう!」
「やだ」
「ぅおいっ! 即答かよ! なにそれ僕ら友達でしょ?」
「違うっつったらどうすんの?」
「……う、うん。フジくんがそういう人間だって事は知ってた。うん、知ってるけど、けど、もうちょっと俺に優しくてもいいんじゃないって思うのよ、俺は」
「なんでお前に気ぃ遣わなきゃなんないわけ?」
「あのさあ。カノジョと一緒にいられないからって当たるのやめてよね」
溜息混じりにそんなことを言われ、タクミの掌中で携帯の筐体がみしりと軋む。
「……おい」
「やだやだ。もしかして怒ってる? 冗談ですよ~、気にしない気にしない」
「……」
ふと、やつがどこからか自分を見て楽しんでいるのではないか――そんな思いつきに、あたりを見回す。
(…………いるわけないよな)
何をやっているんだか。自嘲まじりの息を吐いて、天を仰ぐ。
「切るぞ」
「えっ、ちょっ待っ……フ、」
最後まで聞かず、ボタンを押した。
ユヅルは昔から一言多い。例えば、とあるアイドルの話題でみんなが盛り上がっている中、彼だけがその娘の欠点をあげて場の空気を凍らせる。しかも本人に悪気は一切ないのだから性質が悪い。
「……考えないようにしてんだから黙っとけよ」
付き合って約半年の恋人、リサと今日を一緒に過ごしたいと考えなかったといったら嘘になる。
ただ二十五日というのは彼女にとっては特別な日なのだ。
(お父さんの命日で、弟と姪っ子の誕生日が近いから家族で過ごすの――なんて言われたら……ねえ?)
リサから一緒にどうかと誘われはしたが、家族団らんに入り込む度胸はなくて断った。
右手に意識を向ける。
薬指のシルバーリング。対のリングが恋人の指に同じく嵌っている。
それってなんて素敵だろう……なんて、眺めている自分が気持ち悪い自覚は十二分にある。おととい店から引き取ったばかりで、まだ自分のものである感じがしない。注意していないと無くしてしまいそうで、おっかなびっくりといった状態でつけている。
――と意識を改めたそばから、
「え? あっ」
腕を振り抜いた拍子にリングが地面へ落下する。
(やば、)
拾い上げてはめ直す。
ものは試しにと、手を振ってみるが今度は外れるようなことはない。
「……変なの」
さっきまでこんな事はなかったのに、どんな偶然が重なったのやら。
狐に摘まれたような気分も、家に着く頃には忘れてしまっていた。
「……で。おやすみ、っと。送信」
一日の終わり、彼女にメールを送る。たまに面倒臭いときもあるけれど、習慣化してしまったものを止めるのは怖くてできない。
好きになった弱みだと思う。
出会いは大切にするのよ(特に女の子とはね)――幼少の一時期同居していた祖母の教えは、今ではタクミが行動を起こす一つの指針になっていると言って過言ではない。
リサと出会ったのは中学のときだった。
道ですれ違った彼女に一目惚れした。
というとロマンチックだがつまるところ、見た目がもろ好みだったというにつきる。
制服を見れば学校は容易に判明したから、そのままの気持ちを持って告白しにいった。
結果は……。
タクミ自身、あの日を振り返って(まあそりゃそうだよな)と苦笑してしまうくらいだ。すれ違った人間全て記憶に留めているほうが少数だし、さっきすれ違ったばかりの相手から「一目惚れしたから付き合って欲しい」そう言われてすんなり頷けるほうが稀少でないだろうか。
振られたタクミは彼女の名前も聞かずその場を後にした。それも祖母の刷り込みだった。 ――振られたら潔く身を引くのよ、縁があるなら次があるわ。
はたして次なんて本当にあるのか。
祖母の言葉はタクミの思考を縛ったが、頭から信じていたわけじゃない。
だけど、高校の入学式でその姿を見つけたときは莫迦みたいに運命だと思った。
それでも再会したからすぐどうにかなったわけじゃなく、恋人として付き合うようになるまでには一年半ほど月日を要した。
――着信ランプが光る。
リサからの返信だ。
『我ながら上手く撮れたので弟たちの写真をつけてみました。どう? お母さんがまた来てねって。くわしい話はまた今度。
じゃ、おやすみなさい』
「……うん、おやすみ」
画面を閉じて、部屋の電気も消す。
風邪でももらったのか、さっきから身体がぞわぞわする。こんな時は――ちょっともったいない気がするけど、早く寝るに限る。
……気持ちが悪い。
吐き気や頭痛のように身体の内側からくるものでなく、何と言えばいいか、とにかく不快でしかたない。サイズの合わない服を無理に着ているような、あるいはなんとかして磁石を同じ極同士くっつけようとして跳ね返されるあの感覚。それがずっとタクミを苛んでいる。
はじめは風邪による悪寒かと思った。
違和感はもうはっきりしていて、布団の中にはもうこれ以上潜んでいられそうにない。
抜け出す前に携帯電話を掴む。時間を確認するのにわざわざ置き時計なんて見ない。
「え、」
伸ばした右手が空振りする。
(すり抜けた……?)
そんなはずないともう一度手を伸ばす。
何故か掴めない。
確かに握ったはずなのに、元の位置のままだ。
「……?」
訳が分からない。
もう一度試したいところだが、布団の不快感に負け、諦める。布団に追いやられるような形で、床に立った。
直後、足下から迫る不快感。自分の身体が磁石に変えられたような反発力を体重で押さえつける。
「何なんだよ……」
確かな足場を探すように、視線は机上で埃を被っている時計を探す。乾電池で動く時計
の針は午前九時ちょうどを指していた。
(あってる……んだよな)
秒針は動いているから、多少の誤差はともかく今の時刻はこれでいいんだろう。
幸い冬休みだから遅刻だと焦ることはない、が。
(母さんたちはもう仕事行ってるか……)
家の中にはタクミ一人だけ。
なんだこれ――立ち尽くして考える。この不快の原因は何だ。俺は病気なのか、それともこれは夢で、本当はまだ寝ている……?
古典的だが頬をつねってみる。
「……とりあえず顔洗おうか」
一旦目を閉じて深呼吸。ドアのところまでゆっくり歩いていく。
いつも通りドアレバーを握ろうとした手が、
「――っ」
触れる寸前で見えない力に跳ね返された。
思わず右手を見つめてしまう。
親指から順番に折っては伸ばし確かめる。どこもおかしな所はない自分の手だ。
……認めたくない。
勢いをつけて手を伸ばす。押しのけようとする力を意志のもとねじ伏せて、ドアを開けて――しゃがみ込んでしまった。
訳が分からない訳が分からない。
分からない。
……分かりたくない。
頬をつねっても痛くないとか、握ってもレバーの感触が分からないとか。部屋の暖房が切れているのにちっとも寒くないとか。
変だ。
どう考えても変だ。
おかしい。だけど。自分がおかしくなったとか、思いたくない。理解したくない。
(夢だっていうならいい加減さめろよ……っ)
願ったところで携帯電話が軽快に歌い出した。
「!」
救いを求めてベッドに駆け寄る。
表示されている母の名前に希望を見出して手を伸ばすが、
「うそだろ……」
何度やっても掴めない。手だけがすり抜けてしまう。そうこうしているうちに歌は終わってしまった。
「……」
頭を抱えてしゃがみ込んだ。
一体どうなっているんだ。誰か答えてくれ。教えてくれ。俺はどうなってしまったんだ。
誰か。
誰か!
「……たすけてくれ」
笑ってしまうくらい震えた声が唇から零れて。
「まかせて」
思いがけない返事に、のろのろとタクミは顔をあげた。
*
ツクル。
生まれたときからある本能。
本能のおもむくままに生み出される箱庭の数は増えていく。
自らつくったものを自ら管理するのは息をするように当たり前のことで、誰もが己のことしか眼中になかったから。
彼がいつのまにか消えてしまったことに、しばらく誰も気が付かなかった。
このボクもまた。