名無しの恋人
気が付いたら、知らない部屋だった。
白い天井、白い壁……病院? 目線を横にすると腕には点滴が刺さっている。どうやら頭には包帯。その他にもいろいろありそう。動けないからわからないけれど。
すると、ドアが開いて、誰か入ってくる。中年の女性だ。女性は私を見ると、瞠目した。
「一花! 起きたの!?」
女性は枕元に駆け寄ってくると、ぶわっと瞳に涙を浮かべた。
「よかった……! 本当にどうなるかと……。あ! そうだ、先生! 看護士さん! 呼ばなきゃ!」
言うが早いか、彼女は部屋から飛ぶように出ていった。
私は、ぼうっと考えていた。
今の人、誰?
というか……、私、誰?
***
私は交通事故に遭ったらしい。
不幸中の幸いというか、対人事故ではなく、1人で雨の日に車を運転していて、スリップしてガードレールに激突したそうだ。外傷はそれほどない。ただ、頭を打ったらしく、1週間、目を覚まさなかった。なるほど、頭を打つと、本当に記憶障害が起きるのか。
私は何もかも、さっぱり忘れていた。母も、父も、弟も、友人も。
母は毎日病院に来て、あれこれ世話を焼く。
娘が記憶をなくしたことをうっかり忘れてしまうらしく、ぺらぺらと過去のことなどを話す。そして、「あ、そっか。忘れちゃってんのよね。忘れてたわ」ともう何がなんだか。普段から私は口数が少なかったらしいので、記憶がなくてしゃべりようがなくても、そんなに変わらないらしい。そうなのか。それは、うん、よかった。
とりあえず、父と母はもう一度覚え直した。あと、大学の友人3人も。私はほんとに寡黙だったらしい。友人がお見舞いに来てくれたが、3人で勝手にしゃべって盛り上がっていた。「一花だって、そう思うでしょ」「うん」それですんでしまうのだからラクだ。居心地はいいから、きっと事故前もこんな感じの空気を味わっていたのだろう。
そういえば、私には年子の弟もいるらしい。
病室に来た母に聞いてみた。「弟は?」と。
「あんたが眠ったままのときはずっといたわよ。あの子、ほら、大学遠くて家出てるから。目覚めてあとは回復するだけってわかったから、アパートに戻ったわよ。大学もそうそう休んでいられないし」
そうなのか。それは悪いことをした。いずれ退院して、お盆にでもなれば、帰省するであろう弟に会えるだろう。そのときに心配かけたお詫びを言おう。
まだ見ぬ弟にとりあえず心の中で謝った。
***
目が覚めて、5日後に、その人は病室を訪れた。
20歳前後の若者だった。Tシャツの上にストライプのシャツをはおり、リーバイスを履いている。少し長めの髪の間から目を覗かせていたが、そこには若干疲れが見えた。
私は、ぐるぐると頭の中を探った。えーと、もちろん父母ではない、お見舞いに来た友人の中にサークル仲間だという男子は何人かいたが、その中の1人でもないと思う。親戚は、おじさんおばさんばかりで若い人はいなかった。うん、初対面だ。
たった1人で女性の病室に来る、その意味合いは。
あ、もしかして、弟?
私が訪ねようとしたら、先に彼が口を開いた。
「記憶が、ないんだって?」
掴みどころのない表情だ。何かを探っているような。
「……そう、です。あの、あなたは」
失礼ですが、弟ですか? と聞こうとしたら、彼が言った。
「俺は、君の恋人だよ」
***
私には恋人がいたのか。
ぴんと来ない。母や友人たちからもそんな話はきかなかった。けれど、私を見つめる彼の瞳は、確かに恋情のそれだった。そして、私の心の奥底にある、大事な大事な箱の中には、紛れもない彼への思慕が存在していた。彼の姿を見た途端、蓋が開いてそれが飛び出してきたのだ。それが彼の言葉が真実だと教えてくれる。
素直に彼の言葉をのみこんだ私に、彼は驚いたようだ。
「え、信じるの?」
「え、違うの?」
「……いや、違わないけど。いきなり来て『恋人』なんて言ったらちょっとは疑われるかなって思って、心配だったんだ」
「……でも、嘘とは思えなかった。私の中にすとんと落ちたから」
彼は目を見開いて、そして、嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべた。それから枕元の椅子に腰かけ、私の左手を両手で包んだ。
「すっげー心配した。目が覚めなかったらどうしようかと思った」
そのまま首をかがめて私の手を自分の額に当てる。
「事故の日、あのとき、一花は俺のところから帰る途中だった。……ちょっと、喧嘩、したんだ」
彼は、眉間に皺を寄せて、苦渋の表情を浮かべていた。
それは知らなかった。私がなぜあの日あのとき、車を運転していたかは、誰もわからなかったのだ。
「そう、だったんだ。うん、でも、もういいよ。心配かけたよね。ごめんね」
うん、と彼は言って、暫く黙って、私の手を握っていた。
***
彼は初めて来た日の3日後にまた来た。母には、恋人が来たことは言わなかった。こう言ってはなんだが、まだ母に完全に慣れたわけではなかったし、母が恋人の存在を知っているかはわからなかったし、恥ずかしかったからだ。
あと、彼との時間は、できる限りは私の中だけにとっておきたかった。
彼は私とのいろんなエピソードを話してくれた。
「付き合いは結構長いんだよ。子供の頃から知ってる」
幼なじみだったのか。それはそれで一途だ。私が? 彼が?
「ピーマンが嫌いで、こっそり俺の皿に入れて怒られてた。なのに、毎回やるんだ」
給食の話か。同じクラスだったんだ。先生は厳しかったんだろう。
「階段から落ちて3針縫った。お母さんが慌てて病院に連れてった」
結構おてんばだったんだな。お母さんにまたしても心配かけてしまった。
「怖い話が苦手で、布団の中にもぐってきたこともある」
移動教室で? 男の子の布団の中になんてよくもぐりこんだなあ。私は積極的だったんだろうか。
中学生のときに私がとある先輩から告白されて、それは断ったらしいのだが、それから彼は私のことを意識しだしたという。けれど行動には出なかった。高校生になり、私は彼以外の男子と初めてお付き合いなるものをして、それで彼はヤケになって他の女の子と付き合ったらしい。なんと、そんな擦れ違いをしていたのか。それにしても、小・中・高と、ほんとに付き合いが長いんだな。
「それで、どうやって私と付き合うことになったの?」
そこが気になる。
「……ナイショ」
ええーーー!
あ、そういえば、私ったら肝心なことを聞いていない。
「ごめん。今更なんだけど、あなたの名前は? 私は何て呼んでた?」
「……教えない。一花が思い出して」
ええーーー!!!
抗議しようと思ったけれど、彼が何故か哀しそうな顔をするので、口を噤んでしまった。すると、暫くの沈黙の後、彼が訊いた。
「キス、していい?」
彼が私の頬に手を添えて、顔を近づけてくる。私は目を閉じた。そっと触れた彼の唇は少しかさついていた。柔らかく温かなこの感触はまるで彼との初めてのキスのような気がした。記憶がないからだろうけれど。
***
それから退院するまでの約1ヶ月、彼は週に1、2回程度の頻度で病室に現れ、その度に昔話や彼の今の大学生活のことなど(彼とは大学は違うらしい)、いろんな話をした。彼は幼なじみだけあって、本当に驚くほど私のことを知っていた。彼とは違う日に来る母に、「私ってこんなことしたの?」と聞いては「思い出したの?」と詰めよられ、友達に聞いた、とごまかした。彼はいつも帰り際に、やさしくキスを落としてくれる。愛されてる、と思った。
「思い出せなくて、ごめんね」
ある日、私は彼に言った。本当に申し訳なく思ったからだ。でも彼は思いもかけないことを言った。
「全然、いいんだ。むしろ、この状況に感謝してるんだ」
この状況に感謝? どういうことだろう。
そうして、私は退院の日を迎えた。
***
私は、記憶をなくして、すっかりボケてしまっていたらしい。彼の連絡先を聞いていなかったのだ。私のものだったらしいスマートフォンの電話帳を探すが、彼らしき人物の電話番号は入っていない。発信履歴も、着信履歴も、見当たらない。直近の履歴は両方とも弟が相手だった。そして、彼からの連絡は、退院してから、2週間たっても来なかった。
恥を覚悟して、母に聞いてみた。私に恋人はいたのか、と。母の返事は否だった。母には話していないだけかもしれない。けれど、なんとなく真実な気もした。友人にも聞いてみた。友人たちも同じく否といった。友人に話さないことも、ある、か……?
でも、私は確かに彼を好きで、彼も私を好きだった。あれは一朝一夕で作り出せる感情ではなかったはずだ。
なぜ? 彼は一体誰だったの?
***
母が小さい頃のアルバムを見る? と訊いてきた。アルバム! 彼と私は幼なじみだったはずだ。彼が写っているかもしれない! 私はまずは小中高の卒業アルバムを出してもらった。
端から彼を探す。まずは一番今の姿に近いであろう、高校時代のものから。けれど、何回見ても、彼らしき男の子はいなかった。同じ高校じゃなかったの? いやでも確かに彼は校歌を歌っていた。途中で歌詞があやふやになってしまい、適当な替え歌になってしまって、2人で笑ったのだ。「高校の校歌なんてそんな真面目に覚えないだろ」と。それから小学校のならカンペキ、と小学校の校歌を歌っていた。そして、しかしというかやはりというか、中学校のアルバムも小学校のアルバムにも彼はいなかった。
仕方なく、幼い頃からの家族で撮ったであろうアルバムを見せてもらおうと母に頼んだ。
「あら? なんか足りないわね。小学生ぐらいのまではここにあるんだけど……まあ、中学生や高校生のときのは卒業アルバムがあるから、まあいいわよね」
そういって、幼稚園ぐらいから小学生ぐらいまでのアルバムを今度は母と居間で見た。退院してから私は、父母に多少は慣れはしたものの、やはり居間でくつろぐことはまだなんとなくできず、自室にいることが多かった。居間にじっくりいたことはない。55インチのテレビに、アップライトピアノ、それから観音開きのガラス戸のはまっている背の高い本棚。やはり憶えはない。
母が語る思い出は、彼が語るそれと似通っていた。彼は間違いなく、幼い私と一緒にいたのだ。ふと、いつも一緒に写真に写っている小さな男の子が目にとまる。
「あ、それが零よ」
年子の弟か。そういえばまだ会ってないな。
「一花も退院したから、土日にでも一回帰ってらっしゃいって言ってるんだけどね」
まあ、二十歳の大学生じゃあ、バイトやデートに忙しいだろう。
……。
ふと、何かひっかかった。
そこで、今まで気に留めなかった本棚にふと目をやる。そのガラス扉の内側には、家族4人の写真が飾ってあった。
父と母と私と、……弟。
「あ、あれね、一花が高2で零が高1のときに、家族で伊豆いったときの写真」
そこに写っている弟は、病室にいた私の恋人だった。
***
「零」
電話の向うで、息をのむ気配がする。暫く沈黙が続いた。
『……思い出したの?』
「うん」
『そっか。……バレちゃったか』
少し茶化すように答えた零はしかし、そのまままた黙った。沈黙が続く中、私が声を出そうとしたとき、零の方がそれを破った。
『騙すようなことしてごめん』
「……」
『母さんには、言ったの? 本当のこと』
「思い出したことだけ、言った。それについては、喜んでた。零には私が電話するって言ったの。あと零、子供のころのアルバムどこ?」
『こっちにある』
零の語った思い出話は学校での話じゃない、家庭の中での話だったのだ。家族として過ごしてきた日々の中の。そりゃよく知ってるはずだ。
見当たらなかったアルバムは、自分の素性がバレるのを防ぐために零がどこかへ隠したのだろうと私は踏んだ。隠したところで私が思い出せば終わりなのだが。
「あれ大事なんだから。ちゃんと返して」
『……うん、ごめん。──嘘ついて、ごめん。それと……キスして、ごめん』
***
私と零は血が繋がっていない。親が再婚同士だったからだ。けれど私たち二人はあまりに幼かったので、それを理解していなかった。親もあえて、それを私たちに言わなかった。
零が、先に知った。零の実の母親が、小学校の校門で待ち伏せしていたのだ。けれど、真実を知った零は、それを私たち家族には一言も話さなかった。
私が知ったのは、高校2年のとき、偶然両親が話しているのを立ち聞きしてしまうという、なんとなくマヌケなパターンだった。両親もうっかりすぎる。だんだん隠す気もなくなってきていたのか。
でもすごく腑に落ちた。私たちは普通の姉弟にしては仲が良すぎた。零から向けられるそれが、姉に対するものではないとも、薄々感じていた。そして、自分の気持ちも。
それからは私は零をさりげなく避けるようになってしまった。両親は気づかなかったけれど、零は些細な私の変化にも気づく。そして必然的に、私が真実を知っていることを零も覚ることになる。私は、家族のカタチを歪めるのがどうしても怖かった。零は直接的なことは一切言ってはこなかった。ただ、私を優しく囲ってくれているだけだ。けれど私はそれさえも息苦しくなってしまった。零はそんな私を見て、少し遠い大学へ進学し、家を出た。
あの雨の日は。
あの雨の日は、それでも、どうしても零への気持ちを捨てきれなかった私が、零の部屋を訪ねていったその帰りだったのだ。零の部屋には女の子がいて、私は咄嗟に姉の仮面を被ったものの、ひどく動揺して、慌てて踵を返したのだった。
そして事故を起こした。
***
『家を出たときに、もう姉貴のことは諦めるつもりだったんだ。でも事故が起きて……失うって思ったらもう怖くて真っ白になって』
「零」
私は彼を呼ぶ。
『騙して、ごめん。でもあの1ヶ月、俺幸せだったよ。嘘でも、姉貴と恋人ごっこができたから』
「零」
『姉貴がいやなら、俺はもうあの家には帰らない。姉貴が無事だったから、もうそれだけで俺はいいんだ』
「零」
『でも俺、ほんとに姉貴のこと』
「零!」
電話口でちょっと強めに声をあげ零の言葉を遮る。
「零。会いたいよ……」
『……え……?』
私は事故に遭って、一度頭と心を空っぽにした。それでも心の奥の大事な大事な箱の中に残っていたのは、零への愛情だ。どうしたってこの気持ちはもう切り離せない。
「零、会いたい。零、私……」
声が震える。
すると、通話口から零のきっぱりした声が聞こえた。
『ちょっと待って。今言わないで。今からこっち出るから。最終になんとか間に合うと思う。待ってて』
顔見て直接言いたいし聞きたいんだ、と言って電話は一方的に切れた。私はスマートフォンを耳に当てたまま、暫くそのままの姿勢だった。電話をかける前に注いだ氷入りの麦茶のグラスは周りにたくさん結露をつけて、自室のミニテーブルを濡らしている。
待ってる、と音にならない声でつぶやいて、私は麦茶を飲み干した。
end