「名は近しい順に」と女友達を先に呼ばせた夫へ。では次第書きから、わたくしの名を消します——招きの絶えたお家に紙は残して
笑い声が上がったとき、わたくしは遅れていらした老翁の草履をそろえておりました。
片方は土間、片方は戸口。新年早々、夫婦のように離ればなれです。放っておけば老翁のお帰りまでに家同士の仲まで悪くなりそうなので、つま先をきちんとそろえておきます。わたくし、離れたものを寄せるのは得意でございますの。
「名は近しい順に」
座敷で、夫が朗々と言いました。夫はわたくしの手から次第書きを取り上げ、当主の器量を証明する旗のように掲げました。
「あら、お兄様ったら」
義妹が半歩遅れて笑い、客と親族もそれに続きました。笑いは祝いの席で便利です。何を笑っているのかわからなくても、とりあえず口を開けておけば場に馴染んだ顔ができる。お餅よりよほどよく膨らみますわね。
夫が最初に読み上げたのは、幼馴染の未亡人のお名でした。
「私より、まず奥方をお呼びになったほうが……」
奥様は笑みを残したまま、わたくしのほうへ顔を向けました。あの方が悪いわけではございません。呼ばれた声に応えただけで罪になるなら、鶏など毎朝裁かれております。
「遠慮は要らん。昔からの仲ではないか」
「でも」
「祝いの場だ。堅いことは言うな」
夫は奥様の返事を待たず、次のお名へ移りました。客の前では言い切るのがあの方の流儀。間違いも大声で申せば、三人くらいは作法だと思ってくださいます。家格とは、たいへん喉に良い薬でございますこと。
わたくしは座敷へ戻り、夫の肩越しに次第書きを見ました。ひとつ、抜けております。
「あなた様。北外れからお越しのお家のお名を」
「後でよい」
「三年前、雪で道が塞がった折、人を出してくださったお家ですわ」
それだけ小声で申し上げ、夫が息を継いだところへお名を差し入れました。老翁の眉間がほどけ、向こうで講元のおばば様が一度だけ顎を引きます。見ている方は見ている。見ていない方ほど、よく喋る。
「女主人は最後でよろしいですわよねえ」
義妹が兄の言葉を借りて、わたくしへ笑いかけました。客の笑いがまだ残っている間だけ、よくこちらを向く方です。
「ええ。お椀が冷めますもの」
「まあ、何のお話?」
「こちらのお話でございます」
祝いの膳には、白味噌の雑煮、尾頭付き、艶よく煮た黒豆。たいへん結構。あの羽織一枚で祝いが四度は立ちますのに、呼ぶお名のひとつも数えない。見栄とは、ずいぶん場所を取るものですわね。
客へ温かい椀を回し終えるころ、わたくしの名もようやく呼ばれました。返事をするころには膳が足りず、わたくしは台所口で冷えた煮しめを二切れいただきます。
蓮根は冷えても穴が開いております。先を見通せるとは、この蓮根、夫よりよほど縁起がよろしい。
* * *
従兄の還暦祝いでは、夫は前より手際よくわたくしの手から次第書きを取りました。
「今日も、親しい者から呼べばよかろう」
親しい者。その便利な一言に、恩も喪も仲違いも、ぜんぶ押し込むおつもりらしい。押し寿司なら喜びますけれど、義理を押して平らにすれば、端から酢ではないものが漏れますわよ。
「あなた様、そちらのお家は」
「何だ」
「喪が明けるまで、あとひと月でございます」
わたくしは夫が指を置いた一行を示しました。先方は端のほうで、手にした杯を膝へ戻していらっしゃいます。
「もう十一月になる。細かいことを言うな」
「十一月と一年は、祝いの場ではずいぶん違いますわ」
「皆、気にせん」
気にせん、と申したご本人以外は、きれいに口を閉じました。ひと月を待てない方が十二年の加減を直すとは、なかなか景気のよいお話ですこと。義理にも値引き札がつくなら、夫は初日に半額へ落とすでしょう。
夫は奥様のお名を呼び、次に義妹、遠縁の親族と続けました。わたくしの名が書かれた一行へ指が近づきます。そこで杯を上げ、紙を伏せました。
「以上だ。皆、従兄の長寿を祝ってくれ」
「あら、女主人のお名は?」
奥様が小さく尋ねました。
「身内にいちいち呼び上げは要らん」
「けれど、先ほどは妹御を」
「細かいな。めでたい席だぞ」
義妹は口元を袖で隠し、夫と目を合わせました。兄が笑う。妹も笑う。なるほど、これなら責任も半分ずつ——とは参りませんわ。黙って載せておきます。わたくしの頭の中の、決して読み上げない欄へ。
その頃の夫の胸には、たったこれだけしかなかったのでしょう。
——呼ぶ順など、親しい者から読み上げればよいだけのことだ。
宴の後、わたくしは喪の途中で名を呼ばれたお家へ遣いを出しました。先方は包みを開けもせず、「奥方が承知でなかったなら」とだけ返してくださったそうです。
「ほら、怒ってなどおらん」
夫は上機嫌で杯を干しました。
「ええ。怒るほど近しくないと思われたのでございましょう」
「何か言ったか」
「お酒はもうおしまいになさいませ、と」
夫は聞きたいところだけ受け取り、空の杯を差し出しました。たいへん結構な耳ですこと。わたくしもそれがあれば、冷えた煮しめを鯛と思って食べられたかもしれません。
* * *
三度目は、甥の婚礼でした。
夫の名だけで出す招きの文面を確かめようと、わたくしが紙を持ち上げたところで、また夫の手が伸び、紙を取り上げました。三度とも同じ手です。指輪まで同じ。変わったのは、わたくしの名が後ろへ下がり、とうとう紙から消えたことだけ。
「こちらでよい」
「わたくしの名がございませんわ」
「甥の祝いだ。俺の名があれば家からの招きとわかる」
「では、先方のお家へは、あなた様おひとりがお出迎えを?」
「お前は女主人だ。言わずとも働くだろう」
名前は要らない、働きは要る。なんという無駄のないお考え! 鯛から身だけ食べて、骨に泳いでおけとおっしゃるようなものですわね。
義妹が客のいる前で招きを開き、わたくしの名がない箇所を指でなぞりました。
「近しい方からですものねえ。お義姉様は、呼ばれなくてもお家の方ですもの」
笑い声が起きるのを待ってから、義妹はこちらへ顔を向けました。兄の決めたことですもの、と言える余白をきちんと残した笑みです。逃げ道まで整った遊びほど、楽しいのでしょう。
「左様でございますね」
わたくしはそう返しました。
その日のうちに、四軒へ遣いを出しました。一軒は喪の加減、二軒は同じ日に呼べば帰り道で揉めるため時刻をずらすお願い、残る一軒は夫が招きそのものを出し落としていたため。ひとつの婚礼で四軒。夫の見栄を相場に直せば、ずいぶんな赤字でございます。
「そこまでせずとも、皆、当日は来る」
「参りますでしょうね」
「ならばよいではないか」
「一度は」
夫は鼻で笑い、義妹もそれを真似ました。遣いへ向かう者だけが、戸口で一度振り返ります。
「奥方様。四軒とも、今夜のうちで?」
「ええ。日が変われば、こちらが忘れていた時間が一日ぶん増えますもの」
「承知しました」
戸が閉じました。座敷では夫と義妹がまだ笑っております。祝いのたびに家の角が丸く収まるので、ご自分たちの笑いに御利益があるとでも思っていらっしゃるのでしょう。
角を削っていたのは、いつも別の手でございましたのに。
* * *
翌朝、わたくしは文机に次第書きを一枚広げました。
新しい祝いに使うはずだった紙です。先頭から、恩のある家、喪の明けた家、昨年こちらが招かれた家。夫にはただ縦に並んだ文字でも、わたくしには十二年ぶんの声と顔が見えます。
「何をしている」
「あなた様のお考えに従おうかと存じまして」
夫は向かいへ腰を下ろし、わたくしの手元を覗き込みました。義妹も襖の脇から顔を出します。兄と二人なら強い方ですから、朝からたいへん血色がよろしい。
「近しい方のお名から、どうぞお呼びくださいませ。わたくしの名は要りませんわね」
筆先を、自分の名へ置きました。
「何を馬鹿な。女主人の名は残せ」
「なぜでございます?」
「家のためだ。当然だろう」
「近しくなくとも、家のためなら名を置いておけと?」
「そういう話ではない。お前は妻だ」
「妻であれば呼ばず、女主人であれば残す。ずいぶん忙しい一行ですこと」
夫が次第書きを取ろうとしたので、わたくしは紙を押さえました。止めたのは、その一瞬だけです。
細い一本の線を引きました。
紙は破れません。墨も滲みません。十二年、どのお家の間へどのお名を置けば笑って杯を上げていただけるか、迷いなく動いてきた目が、その線の上で止まりました。
「わたくしはこの一行を、十二年、わたくしの名だと思うて書いておりました」
夫の指が、線の端へ触れました。口が開き、それから閉じます。客前ならあれほどよく育つ言葉が、朝の文机では一粒も実らない。
「お義姉様、少し大げさではありません?」
義妹が言いました。
「兄の決めたことに、わたくしは従っただけですもの」
「ええ。ですから、わたくしも従いますわ」
それ以上、申すことはございませんでした。わたくしは次第書きの折り目を正し、文机の中央へ置きます。紙も、夫の家も、そこで必要とされる働きも、すべて残しました。
最上の外出着に袖を通して戻ると、夫が玄関に立っておりました。
「どこへ行く」
「わたくしの名を呼んでくださるところへ」
「いつ戻る」
「その問いのお答えも、紙には書いてございませんわ」
裾をきれいにさばいて敷居を越えました。ここは見栄の張りどころです。十二年の終わりに裾を引っかけて転ぶなど、冷えた煮しめにまで笑われますもの。
胸の奥では、細い線がまだまっすぐ引かれておりました。
けれど、まっすぐなら歩けます。
* * *
夫は残された次第書きを使いました。
春の祝いに人を集め、以前の紙を広げ、書かれているお名を自分なりに直したそうです。わたくしの名へ引かれた線だけはそのまま。そこへ指を置くたび、夫は眉を寄せたと聞きました。
「では、次のお家を」
夫の呼び上げに、座敷の端で一人が顔を上げました。三年前、婚家が人手に困った折、真っ先に人を出してくださったお家です。けれど、そのお名は最後まで呼ばれませんでした。
「当家の名がないようですが」
「今日は身内の祝いだ。次の機会に」
「左様ですか」
それだけ言って、その方は杯を置きました。声を荒らげない方ほど、次の機会をご自分でお消しになります。
続いて夫は、十年いがみ合っている二軒のお名を続けて読み上げました。片方が扇を閉じ、もう片方は杯へ口をつけないまま、祝いの言葉だけを述べます。二軒の間へ誰かのお名を挟む理由は紙に書いてございません。結果だけ見てきた夫には、二行が隣り合うと何が起きるのか、わからなかったのでしょう。
「本日の寿ぎに、こちらのお家からも献杯を」
三つ目のお名が響いたとき、座敷から息が引きました。喪の途中のお家です。呼ばれた方は立ち上がらず、膝の上で両手を重ねました。
「当家は、まだ寿ぎの杯を上げられません」
「もうじき明けるではないか。堅いことを」
夫の声はまだ太うございました。客が大勢いるうちは、家格もよく響きます。
「失礼いたします」
最初に立ったのは、幼馴染の奥様でした。
「どうした。あなたの名は最初に呼んだだろう」
「ええ。今日も私の名ばかり」
「昔からの仲だからだ」
奥様はわたくしの名へ引かれた線を見て、それから座敷を見回しました。戸惑いを隠す笑みは、もうございません。
「今日は失礼いたします」
「待て。祝いの途中だぞ」
「ですからです」
奥様は一礼し、そのままお帰りになりました。誰も追いません。客と親族は声を荒らげず、用意された膳を少しずつ残して席を立ったそうです。
冷えた料理は、残されたほうにも堪えますでしょう。ようやく夫と同じものを食べられた気がいたします。まったく嬉しくはございませんけれど。
* * *
翌月、婚家へ届く招きが減りました。
その次の月には、夫婦で招かれていたお家から夫の名だけが消え、さらにその次には招きそのものが来なくなりました。親族も出入りの家も、理由を長々とは申しません。
「あの家は順が読めん」
町で交わされたのは、その一言だけだったそうです。
半年後、他家の祝いで夫の名は最後にも呼ばれませんでした。夫が祝いを立てようとしても、身内から届く返事さえ遅くなります。義妹は小さくなった座敷で兄の後ろへ下がり、以前のようにこちらへ向ける笑みをどこへ置いたものか、襖の桟ばかり見ていたとか。
「お前も客へ声をかけろ」
「わたくしは、兄の決めた通りにしただけですもの」
「お前も笑っていただろう」
「兄が先におっしゃったからでしょう?」
二人で育てた笑いも、枯れれば相手の庭へ捨てたくなるものらしい。連名で引き受けるほど近しくはなかったのでしょう。
夫は町の講へ出向き、おばば様へ日取りを頼みました。
「当家の祝いだ。来月の吉日に人を集めたい」
「あいにく、その日は座が立ちませんので」
「まだ日を言っておらん」
「どの日も立ちません」
「当家がどれほど古い家か、知らんわけではあるまい」
「知ってますよ」
「ならば話は早い」
「古い家なら、古い付き合いを粗末にしちゃいけません」
夫は家格をもう一度口にしかけ、飲み込んだそうです。妻へなら返事を待たずに命じる方が、おばば様の前では語尾を整えました。
「……どうすれば、お受けいただけますか」
「あたしに聞くことじゃありませんね」
その少し前、わたくしはおばば様のところで、祝いの日取りを三つ並べておりました。一軒は喪が明けるまで待ち、一軒は遠方から来る方の足に合わせ、残る一軒は仲違いした二軒の祝いと重ならぬようにする。頭が勝手に数えてしまうのです。十二年も使った癖は、家を出たくらいでは抜けません。
「奥さん」
「はい、おばば様」
「うちらはあの家に呼ばれてたんじゃない。あんたに呼ばれてたんだ」
おばば様はそれ以上、理由を重ねませんでした。代わりに、町の講の次第書きをわたくしの前へ置きます。後日には、本家筋からも頼みが届きました。
「わたくしに、でございますか」
「あんた以外に誰がやるのさ」
「では、お汁粉は出ます?」
「働く前から食べる話かい」
「十二年、働いた後に冷えた煮しめを食べてまいりましたの。今後は先に確かめますわ」
おばば様の口の端が上がりました。
「熱いうちに食べな」
なんと信頼できる講元でしょう。日取りより先に湯気を約束してくださる方へは、こちらも全力で義理を尽くさねばなりません。
* * *
わたくしが初めて自分の名で整えた祝いの日、座敷には女衆の明るい声が満ちておりました。
呼ぶべきお名を落としていないか。喪の加減は合っているか。並べて呼んではならない二軒の間には、きちんと別のお家を挟んだか。何度確かめても胸が騒ぎます。あら嫌ですわ、自由とはもっと優雅なものだと思っておりましたのに、たいへん腹が減ります。
「始めるよ」
おばば様が呼び上げ役へ合図しました。
最初に響いたのは、わたくしの名でした。
一瞬、返事が遅れました。女衆がこちらを見て、ひとりが肘でそっと脇腹をつつきます。
「ほら、あんたの名だよ」
「はい」
声はきちんと出ました。呼ばれたから嬉しいのではございません。次に呼ぶお名を、わたくしがひとつずつ選べた。その方々がここへ来て、笑って返事をしてくださる。それが、なんとも腹の底へ温かい。
祝いが半ばへ差しかかったころ、門前が騒がしくなりました。
夫が立っておりました。義妹はついてきておりません。客前で張っていた肩は落ち、声も、あの広い座敷で響かせていたころの半分ほどです。
「話がある」
「祝いの最中でございます」
「すぐ済む」
「以前のあなた様なら、そう言って紙をお取りになりましたわね」
夫の手がわずかに動き、けれど、もうわたくしの次第書きまでは届きませんでした。
「家へ戻ってくれ」
命令ではございませんでした。
「お前が出てから、誰も来なくなった。祝いをしても続かない。招きもない。妹も何もわからんと言う。だから……戻ってくれ」
「わたくしが戻れば、また奥様のお名を最初に?」
「今はその話ではない」
「では、何のお話でしょう」
「家の話だ。お前の家でもあるだろう」
夫の指先には、あの日の細い線をなぞった墨の色など、もう残っておりません。何を取り戻しに来たのか、わたくしには決められませんでした。妻か、女主人か、人の集まる声か。どれであっても、わたくしの次第書きには載っておりません。
「名は近しい順に」
夫は頭を上げました。
「あなた様が教えてくださったことでございます」
「俺の名は、もう呼べないのか」
「本日は、お呼びするお名がたくさんございますので」
後ろで、おばば様が咳払いをしました。
「奥さん。汁粉が冷めるよ」
「まあ、それはいけませんわ」
わたくしは夫へ一礼し、門を閉めました。裁きではございません。祝いの途中に、呼ばれない方を入れなかっただけです。
座敷へ戻ると、女衆が椀をひとつ空けて待っていてくれました。わたくしはその輪へ入り、両手で椀を持ちます。白玉が二つ、つやつやと浮いている。これだけで過去十二年の煮しめに勝てます。圧勝です。
「熱いから気をつけな」
「承知しておりますわ」
ひと口すすり、舌の先を焼きました。女衆が笑い、わたくしも椀を抱えたまま笑います。
熱い。甘い。座って食べられる。
祝いとは、こうでなくてはいけませんわ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




