2010年5月14日
いつもの帰り道。
校門を出る時にはまだ薄い紫色をしていた空は、歩いているうちに青黒くなっていた。家に着く頃には、いつものように真っ暗になっているだろう。
真奈美は空が表情を変えていくのを見ながら帰るのが好きだった。中学校が山の上にあるので、遠く家並みの端に切れるまで見渡すことができる。薄青い空にピンクの雲が浮かび、それを目に焼き付けておこうをしているうちに、空が薄い紫色になり雲は灰色になる。やがて空も雲も紺色に移り変わり、黒く切り取られたビルの上に、紺色の空が広がる。
こんなにきれいな色なのに、それを留めておけないのが残念で、しかしすぐにそれを頭に残しておこうとしたことさえ忘れてしまう。それでいいと、どこか諦めに似た感動に浸りながら帰るのが、真奈美は好きだった。
この日はいつもよりも帰りが遅くなってしまった。日が長くなって、吹奏楽部の部活時間が延びたからだ。それぞれの楽器のパート練習が終わった時には、空はすでに紺色に近かった。
人通りの少ない暗い道。縮こめた腕を胸元に引き寄せながら、真奈美は足速めた。空を見上げても、光は入ってこない。この道は街灯が少なく、さらに今日は新月なのだ。
周りの民家を見れば、家の暗い窓が並んでいる。もし何かが起こっても誰も気がついてくれない。そういえば、先月末に起こった強盗事件は、まだ犯人が捕まっていない。道の端には「変質者に注意」と書かれた看板が置かれている。自分なんて誰も襲わない、と思いながらも、真奈美の足取りはさらに速くなった。
少し進んでは振り返って歩いた。後ろを見て、前に顔を戻そうとしたそのとき、正面から何かにぶつかってよろめいた。
「っ!」
弟の悠一郎だった。
止めていた息を吐いて、でくの坊のように突っ立ったまま見下ろしてくる弟を見上げた。中学1年生の一樹は、すでに真奈美よりも頭半分背が高い。真奈美が低いわけではなく、悠一郎が高いのだ。
「ちょっと、びっくりしたじゃん」
弟の表情は暗くて見えなかったが、じっと見下ろされていることは分かる。
「なによ?」
真奈美は尖った声で、不自然なほど近くに立っている弟に尋ねた。しかし聞くまでもなく、彼の言いたいことは予想がついている。悠一郎から返ってきた答えは、真奈美は予想していた通りだった。
「なに、じゃないでしょ。どうして先に帰ったの?」
怒っているのが分かる、低い声。しかし真奈美は、もう一緒に帰らないって言っておいたじゃん、とあえて軽く流して悠一郎の横をすれ違い、先に歩く。
「俺が中学入ったばっかのときに『これからは一緒に帰れるね』って言ったら、『うん』って言ったのに」
ずんずん進む真奈美の背後にぴったりと張り付きながら、悠一郎が言う。
「そんな前のこと!あんたが入学したときって、1ヶ月以上も前のことじゃん。そのときはまだ中学に慣れてないだろうから、そう言ってあげたの。もういいでしょ」
「よくない」
「なんでー?先輩にもかわいがられてるみたいじゃーん。同級生にもきゃあきゃあ言われてるし。よかったね」
真奈美は投げやりに言った。
「‥‥よくない」
二の腕を強く引かれ立ち止った真奈美の耳の近くで抑えた声が囁く。
「マナがそんなふうに言うなら、全然よくない」
掴まれている二の腕をぐるりと一周してしまう大きな手。真奈美はその手から視線をそらし、うつむいた。
「‥‥そんなふうってなに。あたしは、よかったね、って言ってんだから別にいいじゃない」
真奈美は地面を見ながら答えた。
「‥‥」
悠一郎が黙って手の力を緩めた。腕を解放された真奈美は、ゆっくりと歩き出した。
真奈美の『よかったね』と言ったときの口調が示すように、本心からそう思っているわけではなかった。
入学前の春休み、悠一郎は夕食後にしきりと真奈美の部屋を訪れていた。中学校の様子をしきりに聞く様子に、この弟も新しい学校生活に不安になるものなんだ、自分が先輩として不安を解消してあげなければと、色々とアドバイスしてきたのだった。
しかしそれはまったく余計なお世話だった。一樹は、むしろ真奈美よりも学校生活をうまくやっていた。
バスケ部の2年生からは入部の勧誘をされ、同学年の男友達には慕われ、女たちからは目の色を変えて追いかけられている。
なんだか裏切られた気分だった。
――よく考えれば、分かりきっていることだ。
真奈美が中学に上がってから2年間、学校が離れていたのですっかり忘れていた。
同じ髪質だというのに、自分のボリュームのある黒髪は何も手入れしていないただの癖っ毛で、弟の髪型は無造作ヘアスタイルになるという理不尽さ。
この違いは何だ。やはり、見た目の違いなのだ。
すらりと伸びた伸びやかな肢体。大人びた雰囲気。すっと通った鼻筋。びっしりと生えそろった繊細なまつげ。今は不機嫌に閉じられているが、笑ったときのきゅっと上がった口角や、いたずらっぽく輝く色素の薄い瞳は、自由奔放な野生の猫のようで、ついつい可愛がりたくなる気持ちもわかる。
授業中などに、ふと悠一郎のことを思い出すとき。たびたび頭をもたげる疑問がある。
『美しさ』とは何だろう、と。
美しい人は尊敬される。美しくない人は見下される。しかし美しさの基準は国によっても、時代によっても違うという。これだけ心の奥底から揺さぶられるというのに、それは絶対的なものではないというのだ。美しいものに惹かれる気持ちが本能ではなく幻や錯覚のようなものだとしたら、美醜の基準に個人差があってもいいはずだ。多少の好みの違いがあるとはいえ、なぜみんながみんな、同じようなものを美しいといい、同じようなものを醜いというのだろうか。もし『美しさ』というものが本当に、真実一時の流行のようなものだとしたら――人間としての価値までも否定されたような疎外感を、真奈美が抱えることはなかっただろう。
真奈美が小学校6年生の時のことだ。
漫画もアニメも大好きだったが、当時アニメを見るのは子どもっぽくてダサい、というのがクラスの間での常識だった。
それを真奈美も知っていたので、口では漫画やアニメになんて興味ないと言いながらも、家に帰れば本棚にずらりと並んだ漫画を読んだり、録画しておいたアニメを見たりしていた。
そんなある日、隣のクラスの女の子たちが、突然家に遊びに来たいと言ってきた。ほとんど話したことのない子たちだ。
今にして思えば、その頃すでに騒がれていた悠一郎に会いたくて来たのだとわかる。しかしそんなことを思いもしなかった真奈美は、不思議に思いながらも首を縦に振ったのだった。
両親は仕事で家には誰もいない。居間に案内すると、女の子たちは行儀よくソファに腰をかけた。ジュースを出したが、手をつけようとしない。ただそわそわと家の中を見回したりなぜか扉を気にしたりしている。真奈美は声をかけずに、ジュースを片手にそんな彼女たちを観察していた。
その状態が5分ほど続いたころ、しびれを切らした一人が真奈美に尋ねた。
「家に誰もいないの?」
真奈美はあっさりと答えた。
「うん、お父さんもお母さんも仕事だし、ユウはいつもバスケで遅いもん」
それを聞いて少女の様子が一変した。突然席を立ち、せっかく遊びに来たのに、まなみちゃんってぜんぜん楽しくない、と言い出した。一人が言い出すと、別の少女も真奈美に対して怒り始めた。 「家に呼ぶときって、もっとこうやって遊ぼうとか言ってくれるのがふつうじゃない?」
「家になにもないじゃん。まなみちゃんもぜんぜん話さないしさぁ」
「ゆうくんって、いつ帰ってくるの?」
「ちょっとそれまで時間つぶすことないの?つまんないなぁ。しょうがないからテレビでも見よっか」
真奈美が止める間もなく、リモコンでテレビの電源が入れられた。パチパチとチャンネルをかえていくうちに、何かの拍子で録画アニメが再生され始めた。女の子たちの視線が真奈美に集中した。ごまかし切れるものではなかった。少女たちの瞳が、獲物を見つけたとでも言うように、残酷に輝いた。
「なに、まなみちゃんって、アニメ録画してるの?」
「うそ、ださぁい」
くすくすと顔を見合わせて笑う少女たち。真奈美は弁解の言葉が出てこなかった。ただ少女たちが豹変したことに対するショックで言葉を発することさえできなかった。
そのとき。
「意外とおもしろいけど?」
声を張り上げているわけでもないのに、よく通る声が部屋に響いた。
真奈美が振り返ると、いつの間に帰ってきたのか、ランドセルを背負った悠一郎が入り口の扉の前に立っていた。
「ゆうくん、あのっ‥‥」
慌てて取り繕おうとする少女たちの様子に、悠一郎はまったく頓着していない様子だった。
「マナの友達?」
友達などではなかったが、彼女たちが自分のためでなく悠一郎に会いに来たということは、恥ずかしくて言えなかった。
真奈美は取り繕って笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。引きつりながらも、うん、まぁ、と答える。
悠一郎はランドセルを下ろすと、少女の前に立ち「リモコン」と言って手を伸ばした。
そのたった一言で、呆然していた少女は雷に打たれたように震え、リモコンをさっと差し出した。
「よかった、今日の分もちゃんと録れてる。これからここでアニメ見るけど、なんなら一緒に見る?」
軽く首を傾げて女の子たちを誘う弟に、何を言い出すのか、と眉をひそめた。なぜ、まるで悠一郎が録画していたかのように振舞うのだろうか。真奈美がアニメを見ているときに、隣に座って一緒にみていることはあっても、悠一郎が自分からがアニメをみることはないというのに。
「な、なんだぁ。ゆうくんが録画してたの?なんか、意外だね」
「そんなにおもしろいなら、ちょっと見てみたかな」
媚びた笑みを浮べて、少女たちが悠一郎に席を譲る。まるでハーレムの主のように、悠一郎はさも当然のような顔をして、ソファの真ん中に腰かけた。少女たちが一樹を囲んだ。
さりげなく悠一郎の肩に手を置いている一人が、真奈美を振り返った。
「ちょっと、ゆうくんのジュースがないじゃない。もって来てよ。気がきかないわね」
真奈美はジュースのお代わりを用意しに冷蔵庫に向かいながら思った。
――顔がいいってだけで、なんでも許されちゃうんだぁ‥‥。
あれは決定的だった。悠一郎と一緒にいることで何度もつまらない思いをしてきたが、あそこまで決定的に差別されたのは初めてだ。
悠一郎が悪いわけではないことは理解している。しかし周りの人間が悪いとも言えない。彼らが美しいものを大切にする気持ちも理解できるからだ。
比べられることはもちろん嫌だった。しかし何よりも、そのことによって自分の心が歪められてしまうのが嫌だった。悠一郎の隣にいると、自信を失って卑屈になってしまう。
真奈美はだんだんと悠一郎を避けるようになった。
中学校に入ったばかりで不安そうな弟に優しくしていたが、それはあくまでも学校に慣れるまでの間。一緒に帰ろうとする悠一郎との言い合いは、ずっと平行線だ。
悠一郎のためにもならない、と真奈美は弟を説得しようとした。中学生の男の子が姉についてまわっているなど不自然だ。もっと姉から離れて、同じ学年の友達といる時間を増やしたほうがためになると話しても、聞こうとはしない。
真奈美にしても、自分の友達のほうが大切だ。お互いのために度な距離を保ったほうがいい、と心に決めたのだった。
無言の空気に、足音だけが響いた。
街灯がまったくない道に入った。フェンスで囲まれたバスの倉庫に面した道で、昼間でも人通り少なくて薄暗いこの道は、その日特に不気味だった。
突然視界に入った黒い影に、真奈美がびくりと震えて一歩引いた。
「マナ?」
悠一郎が背後から真奈美の顔を覗き込んだ。真奈美は息を吐き、前を見たまま小さく笑って指を指した。
「なんでもないよ。見間違い。そこに人が立ってるかと思ったら、電信棒だった」
再び歩き出した真奈美の後を追いながら、悠一郎が言った。
「ねぇ、気のせいじゃないよ。人がいた、あそこ。マナにも見えたんだね」
「えっ?」
ばっと振り返ったが、やはり誰もいなかった。
「いないじゃん」
「今は見えないかもね。でもいたよ」
喜色を含んだ声に、からかわれていると分かった。
「ちょっと、やめてよ――」
からかうのは、と続けようとした真奈美よりも早く、悠一郎が口を開いた。
「夜の時間は、界が重なりやすいって知ってる?みんなが目の錯覚だと思ってるのはね、別の世界の影なんだよ。真奈美はさっき、界が重なったところから、その人が立っていたのを見たんだよ」
「ちょっと、何言ってんのよ。やめてよ、そういうこと言うの。あたしが怖い話が苦手って知ってんでしょ」
真奈美は両手で耳を塞いだ。
「太陽の支配は強い昼間は、界が重ならない。でも夜は太陽の支配が外れて、月の時間だ。月は支配しない。あちこちで世界が綻びて、一瞬異界と重なるんだ。特に今日は新月。月の力の一番弱いときだから、マナにも見えたんだね」
耳を塞いだくらいでは、悠一郎の声を遮ることはできなかった。まるで脳に直接流れ込んでくるように、はっきりと聞こえる。真奈美は諦めて両手を降ろすと、足を速めながら吐き捨てるように言った。
「くだらないっ。あんた、そういうこと他の人の前で言ってないよね?」
「どうして?」
「そういうこと言うのって、不思議ちゃんみたいじゃん。漫画と現実がごっちゃになってんじゃないの?うちのクラスにも、いつも変なこと言ってる子が一人いるけど――」
みんなから気持ち悪いって言われて無視されてる、という言葉は言えなかった。悠一郎がもし変なことを言っても、真奈美のクラスメイトのように孤立することはない気がした。3年前のように、同じ言葉でも悠一郎が言うだけで受け入れられてしまうのではないだろうか。
「不思議ちゃん?」
「頭ん中がアッチの世界にイッちゃってる人のこと」
「アッチの世界って、異界のこと?」
まだ引っ張るつもりか、と真奈美は振り返らずに先を歩いた。
「ねぇ、面倒くさいんだけど。わざと分かってないふりしてるでしょ。ほんと、面倒くさい」
「異界のことじゃないの?」
「もう!ほんっとにやめてってば!」
叫びながら、真奈美は勢いよく振り返った。
しかし、振り返った先には、誰もいなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように、街灯ひとつない、がらんとした道があるだけだ。
真奈美の頭が凍りつくのとは逆に心臓がどきどきと大きく脈打ち、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。
息が荒くなり、パニックを起こしかけたとき、背後から声をかけられた。
「まなみちゃん?」
びくりと体を震わせて勢いよく振り返った真奈美が見たのは、同じ部活の友達だった。
「ゆ、友里?」
友里は帰りの方向が同じで、最近まで一緒に帰っていた。その友里が、目をまん丸に開いて真奈美を見ていた。
「あれ、え、なんで?」
誰もいない道を見て、再び友里を振り返る。よくよく見れば、道の片側にはフェンスが続いている。バスの倉庫の道にいるのだ。
「なんでって、あたしのほうがびっくりだよぉ。『ほんとにやめて』って、今度のテストのはなし、そんなにいやだった?」
高い甘ったれた声で、小首を傾げた友里が尋ねた。そんないつも通りの友人の様子に、やっと真奈美の表情が緩んだ。
真奈美は、今度は落ち着いて周囲を見回したが、弟の姿は見えなかった。まるで最初からいなかったかのように、影も形も見あたらない。
真奈美はのろのろと首をそらして、空を見上げた。
今夜は新月。
月の支配の、もっとも弱くなる夜だ。
生ぬるい風が真奈美の頬をぺたりと撫でて通り過ぎていく。ひどく虚ろな気分だ。
「まなみちゃん?」
心配そうな声をかけられて、真奈美は緩く首を振った。
「あの、ユウ‥‥悠一郎って、さ‥‥」
「ユウイチロウ?」
真奈美の心に、うっそりと不安が寄り添う。
「あの、まなみちゃんの弟の?」
「そう、それ」
真奈美はいつの間にか止めていた息を吐いた。
「ゆうくんがどうかした?」
友里はいつもよりも瞳を輝かせて尋ねた。彼女も悠一郎のファンの一人だったことを思い出した。
「さっきさ、あの、この辺にいなかったっけ?」
変なことを言っていることは分かっていたので、しどろもどろに尋ねた。
「やだぁ、まなみちゃんったら。やっぱり気になってるんだ。だから待っててあげようって言ったのに」
「え?」
「ゆうくんがここにいるわけないよ。だってあたしたち、ゆうくんよりも先に学校でてきちゃったじゃない」
すとんと胸の中に、何かが落ちた。
「そっか‥‥そっか。ユウを置いて、先に学校を出たんだよね。そうだった‥‥」
真奈美は呆然としながら、そうだ、そうだと繰り返した。
「変なの。でもまたまなみちゃんと帰れてうれしいな。三年生になってからあたしたちと一緒に帰らなくなっちゃってたから、さみしかったんだよぉ。なんなら、ゆうくんも連れてくればいいのに。そうしたらさ‥‥」
まだ友里は話していたが、真奈美の頭には入ってこなかった。
本物の弟はどこへ行ってしまったのだろうか。どこまでが夢で、どこからが現実なのだろう。そればかりが頭をぐるぐると回った。
夢遊病者のように、ふらふらと夢を見ながら歩いていたのだろうか。
釈然としないまま、真奈美は友里と並んで帰り道を歩いた。友里がしきりに話しかけることに、うわの空で頷きながら。
そんな二人を後ろから見詰める瞳があった。黒い髪と黒い学ランは闇夜にまぎれ、はしばみ色に光る一対の瞳だけが暗闇に浮かんでいた。
別れ際に、ゆうくんによろしくね、と決まり文句を言う友里に生返事をして、真奈美はのろのろと家に帰った。
「ただいま」
家に着くと、倒れこむように居間のソファに腰を落ち着けて、すぐさまリモコンでテレビのスイッチを入れた。明るい電灯の下で賑やかなテレビの音を聞いて、やっと帰ってきた気がした。
「おかえりなさい」
背後のオープンキッチンからは、トントンと、母親がまな板で野菜を切る音が聞こえてくる。真奈美は母のその姿をぼうっと見つめた。いつもの光景に、心が落ち着く。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
視線を上げないまま答える母親。
「ユウってもう帰ってる?」
「あら、一緒じゃなかったの?まだ帰ってきてないわよ」
「‥‥そう」
テレビに集中できず、ちらちらと壁掛けの時計を見上げた。何度見ても、針は全然進んでいかない。どうしてこの長針はこんなに動くのが遅いのだろう、と真奈美は理不尽な怒りを感じた。
「ねぇ、なんかユウ帰ってくるの遅くない?」
「そうかしら」
「だって、いつもだったらもう帰って来てるよ」
「そうねぇ。そろそろ帰ってくるんじゃない?」
母ののん気に返事を聞いて、分かってくれない母親に焦れた。
根拠はないが、弟がもう帰ってこないのではないかという気さえした。たとえ帰って来たとしても、それはもう、今朝までの弟ではなくなっているかもしれない。
「ただいま」
突然、真奈美の背後、居間の入り口から悠一郎の声がした。とっさに、真奈美はその声に背を向けてしまった。玄関を開ける音はしなかった。
「お帰りなさい。真奈ちゃんが心配してたわよ。帰ってくるのが遅い、って」
「そんなに遅くないのに」
背後に母親と弟の声を聞きながら、真奈美はテレビを見ているふりをした。ぎし、とソファの背もたれが逆から押され、ソファ越しに弟が寄り添うのを感じた。
「ただいま、マナ」
その優しい声に励まされて、勇気を出して振り返った。
見上げた先には、いつもと変わらない悠一郎がいた。
「おかえり‥‥」
悠一郎は見透かすような笑みを一瞬浮べると、くるりと真奈美に背を向けて自分の部屋へ続く階段へと向かった。
「ねぇ!」
真奈美は身体をひねり、背もたれに身を乗り出しながら呼び止めた。悠一郎は真奈美に背を向けたまま、階段に差し掛かる手前で足を止めた。
「先に帰って、ごめんね?」
悠一郎が振り返った。
こめかみに落ちたくせのある黒髪が影となり、少年の表情を隠していた。それでも口元が笑みの形に歪んでいることには分かった。
背筋に何かが走った。しかしそれは一瞬のことで、すぐに霧散する。
「もう怒ってないよ」
そう言い残して、少年の背中は二階へと消えた。