第8話 気づかれてしまった
家のドアを開けると、部屋は静かだった。
靴を脱ぎながら、私は一瞬だけ時計を見る。
夜の十時半。
橘の会食は長引くと言っていたから、まだ帰っていないだろうと思っていた。
それでも、玄関の灯りがついていると、少しだけ安心する自分がいる。
バッグをテーブルに置く。
コートを脱ぐ。
キッチンの蛇口をひねって、水をコップに注ぐ。
そんな当たり前の動作をしているのに、頭の中にはまださっきの帰り道が残っていた。
恵比寿の駅前。
夜の風。
園田の横顔。
「今日は来てよかったです」
その言葉が、思い出すたびに胸の奥を少しだけ揺らす。
私は軽く頭を振った。
まだ何も始まっていない。
そんなことを考える段階ですらない。
ただ、同じ店で飲んで、駅まで歩いただけ。
それだけだ。
スマートフォンが震える。
橘からだった。
もうすぐ帰る
短いメッセージ。
私は
はい
とだけ返す。
それ以上書くことが思いつかなかった。
冷蔵庫を開けて、残っていたサラダを皿に移す。
夕飯というほどでもない。
でも何か口に入れておかないと、あとで余計に空腹を感じる。
テレビをつける。
ニュースが流れている。
音が部屋を満たす。
それなのに、どこか静かだった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
橘の声。
「おかえり」
私はキッチンから顔を出す。
橘はネクタイを緩めながら、いつもの場所にバッグを置いた。
その動作は慣れている。
毎日繰り返される帰宅の流れ。
「今日は遅かったね」
「うん、先方がちょっと長くて」
橘は冷蔵庫からビールを取り出す。
プシュッ。
缶が開く音。
私はその音を聞きながら、なぜかさっきの店の氷の音を思い出した。
カラン。
同じような音なのに、どうしてこんなに違って聞こえるのだろう。
橘がソファに座る。
「今日はどうしてた?」
「普通」
私は答える。
「仕事して、帰ってきて」
嘘ではない。
でも全部でもない。
橘はビールを一口飲んで、テレビを見ながら言った。
「ななし行った?」
私は一瞬だけ手を止めた。
「うん」
橘は画面から目を離さない。
「そっか」
それだけ。
質問もない。
誰がいたとか、どんな夜だったとか。
普通なら、それで楽なはずだ。
詮索されない。
自由に過ごせる。
でも、私はその「そっか」に少しだけ引っかかった。
「橘は?」
私が聞く。
「会食」
「楽しかった?」
橘は少し笑った。
「まあ、仕事だからね」
それ以上話さない。
私は皿をテーブルに置く。
沈黙が落ちる。
ニュースの音だけが流れている。
ふと、思う。
もし今、園田が隣に座っていたら、どうだろう。
そんなことを考えてしまった自分に、私は驚いた。
園田なら、きっとこう言う。
「今日はどうでした?」
そして、ちゃんと聞く。
そのあと、ちゃんと聞いてくれる。
それだけのことなのに。
それだけのことが、どうしてこんなに違うのだろう。
橘が言う。
「そういえば」
「うん?」
「最近、ななしよく行ってるよね」
私は顔を上げる。
「そう?」
「うん」
橘はビールを飲みながら続けた。
「まあ、いいんじゃない」
その言い方に、少しだけ違和感があった。
許しているような、
興味がないような、
どちらとも取れる声。
私は軽く笑う。
「橘も来ればいいのに」
橘は首を振った。
「いいよ、ああいう店」
「なんで?」
「なんかさ」
橘は少し考えてから言った。
「落ち着きすぎてる」
私はその言葉を聞いて、静かに息を吐いた。
そうかもしれない。
橘は、昔から賑やかな場所が好きだった。
人が多くて、音があって、誰かと誰かが話している場所。
それが悪いわけじゃない。
ただ、私が少しずつ好きになってきた場所とは、少し違うだけだ。
「園田って人」
橘が突然言う。
私の心臓が、一瞬止まる。
「覚えてる?」
「うん」
「まだ来てる?」
私は一拍置いた。
「来てた」
橘は「ああ」と小さく言う。
それだけ。
それ以上は何も聞かない。
普通なら、それでいいはずだ。
でも私は、その沈黙の中で、はっきり気づいてしまった。
橘は、
知りたいわけではない。
ただ思い出したから聞いただけ。
それだけ。
園田の顔が、頭に浮かぶ。
「今日は来てよかったです」
あの声。
あの静かな言葉。
私はグラスを手に取る。
水を飲む。
胸の奥に、ほんの小さな違和感が残っていた。
橘が悪いわけじゃない。
冷たいわけでもない。
むしろ、優しいほうだと思う。
それでも。
それでも、私は気づいてしまった。
恋は、
嫌いになったから終わるわけじゃない。
好きなままでも、
少しずつズレていくことがある。
そのズレは、
ある日突然大きくなるわけじゃない。
今日みたいな夜に、
ほんの少しだけ顔を出す。
そして気づかないふりをしても、
またどこかで思い出す。
ななしの静かなカウンター。
園田の横顔。
駅まで歩いた距離。
私はその夜、ようやく理解し始めていた。
何かが変わり始めていることを。
でもその変化が、
どこへ向かうのかは、
まだわからなかった。




