表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたに、会えてよかった。  作者: 西崎小春


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/27

第7話 この距離は、近すぎる

店を出ると、夜の空気は少しだけ冷たかった。

恵比寿の通りは、まだ人が多い。

駅へ向かう人、二軒目を探して歩く人、タクシーを待つ人。

その流れの中に、私たちも自然に混ざっていく。

園田が、扉を押さえたまま私を先に通した。

「ありがとうございます」

「いえ」

たったそれだけのやり取りなのに、さっきまでの店の空気がまだ体の中に残っている。

隣を歩く。

でも、ほんの少し距離がある。

腕一本分くらい。

触れようと思えば触れられる。

でも、触れない距離。

それが妙に意識される。

夜の風が、さっきより冷たく感じる。

コートの襟を軽く押さえると、園田が気づいた。

「寒いですか」

「少しだけ」

「この時間、急に冷えますよね」

「そうですね」

会話は、ゆっくり進む。

急がない。

沈黙があっても、不自然にならない。

むしろ、その沈黙があることで、歩くリズムが揃っていく。

恵比寿駅の明かりが遠くに見える。

まだ少し距離がある。

この距離を、私は少しだけ長く感じていた。

「ななし、よく来るんですか」

園田が聞いた。

「たまに」

「橘さんと?」

「はい」

嘘ではない。

でも、それだけではない。

仕事帰りに一人で寄ることもある。

ただ飲みたい夜もあるし、何も考えたくない夜もある。

でも、それを全部説明する必要はない気がした。

「園田さんは?」

「僕は、わりと来てます」

「そうなんですね」

「落ち着くので」

園田は少しだけ笑った。

「人が多すぎない店って、いいですよね」

「わかります」

「話さなくてもいい時間があるというか」

その言葉に、私は思わず頷いた。

「沈黙が怖くない店って、あんまり多くないですよね」

「確かに」

園田は少し考えてから言った。

「沈黙って、相手によって重さ変わりますよね」

私は歩きながら、その言葉を頭の中で転がす。

沈黙の重さ。

たしかにそうだ。

誰かといると、沈黙が苦しくなることがある。

何か言わなきゃいけない気がして、焦る時間。

でも、園田といると、それがない。

今もそうだ。

少し会話が途切れても、ただ歩く音だけが続く。

それでも、不思議と居心地が悪くならない。

「今もそうですか」

気づけば、私は聞いていた。

園田が少し驚いた顔をする。

「今?」

「沈黙」

園田は一瞬だけ黙って、それから少し笑った。

「今は軽いですね」

胸の奥が、少しだけ揺れた。

軽い沈黙。

それはつまり、

一緒にいて楽だということだ。

でも、それを直接言われたわけじゃない。

だからこそ、余計に残る。

信号が赤に変わる。

横断歩道の前で、私たちは止まった。

人の流れが一瞬途切れる。

周りの音が、少しだけ遠くなる。

園田が、ゆっくり言った。

「さっき、少し驚きました」

「何にですか」

「美奈子さんが来たこと」

私は思わず笑う。

「私も驚きました」

「僕が?」

「いたから」

園田は、ほんの少しだけ目を細めた。

「じゃあ、お互い様ですね」

信号が青に変わる。

人の流れが動き出す。

また歩き始める。

でも、さっきより少しだけ距離が近い。

意識して近づいたわけじゃない。

ただ、自然に歩幅が揃っただけ。

駅前の広場に出る。

ネオンが明るい。

人の声が増える。

電車の音が遠くから聞こえる。

駅はもうすぐだ。

そのことに、私は少しだけ残念な気持ちを感じていた。

歩く時間が、思っていたより短かった。

「今日は」

園田が言う。

私は顔を上げる。

「来てよかったです」

たったそれだけの言葉。

でも、それは店の話でも、酒の話でもない。

この夜のことを言っているのだと、すぐにわかった。

私は少しだけ息を吐いた。

「私も」

それ以上の言葉は出なかった。

でも、たぶんそれで十分だった。

改札が見えてくる。

ここで別れる。

それは最初からわかっていた。

でも、ここまで歩いてきた距離が、もう終わることを少し惜しいと思ってしまう。

園田が立ち止まる。

私も止まる。

周りの人は、どんどん改札へ吸い込まれていく。

「今日はありがとうございました」

園田が言った。

「こちらこそ」

「また」

その言葉の続きは、言わなかった。

でも、私はその意味を知っている。

また、ななしで。

園田が軽く手を振る。

私は頷く。

そして改札へ向かった。

ICカードをタッチする。

機械の音が鳴る。

改札を通る。

その瞬間、なぜか私は振り返っていた。

園田は、まだそこにいた。

私を見ていた。

目が合う。

ほんの一瞬。

園田は、少しだけ笑った。

その笑顔は、大きくない。

でも、さっきまで一緒に歩いていた時間が、全部そこに残っている気がした。

私は軽く手を上げる。

それだけ。

それだけなのに。

改札の向こう側へ歩きながら、胸の奥が静かに温かくなる。

恋というものは、

劇的な瞬間から始まるわけじゃないのかもしれない。

手を繋ぐこともなく、

抱きしめられることもなく、

ただ、

駅まで歩いた距離が、

あとからゆっくり効いてくる。

そんな夜から始まることもある。

そのときの私は、まだ知らなかった。

この「駅までの距離」が、

これから何度も思い出すことになる夜になることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ