第6話 また会ってしまった
その一週間、私は自分でも少しおかしかった。
昼休みにスマートフォンを見る回数が増えたとか、仕事帰りにふと「今日は寄ろうかな」と考えることが多くなったとか、そういう、言葉にすると取るに足らない変化ばかりだったけれど、確かに何かが違っていた。
園田から次の連絡が来たわけではない。
私も、あの夜のあと自分から送ってはいない。
最後のやりとりは、たったあれだけだ。
ありがとうございます。
美奈子さんもゆっくり休んでください。
また、ななしで。
何度見返しても、特別なことはどこにも書かれていない。
でも、だからこそ厄介だった。
「また、ななしで」
その言葉には、約束みたいな強さはない。
待ち合わせでもないし、誘いでもない。
ただ、同じ場所に来れば、また会えるかもしれないという、曖昧な余白だけが残されている。
その余白が、この一週間ずっと私の中にあった。
木曜日の夕方、定時を少し過ぎた頃だった。
パソコンの画面を閉じ、肩を軽く回したとき、向かいの席の後輩が「お先に失礼します」と立ち上がった。
その声に頷きながら、私は自分の予定を頭の中で確認する。
急ぎの仕事はない。
橘からも、今日は少し遅くなるとメッセージが来ていた。
先方との会食が長引きそうだと、事務的な文面で書かれていた。
まっすぐ帰ってもいい。
コンビニで何か買って、動画でも流しながら一人で夕飯を済ませてもいい。
それが一番、楽なのかもしれない。
それでも私は、バッグにスマートフォンをしまいながら、もう答えが出ていることを知っていた。
ななしに行こう。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った気がした。
期待、というほど強くはない。
でも、ただ飲みに行く夜とは明らかに違う、小さな熱だった。
外に出ると、空気は思っていたよりもやわらかかった。
昼間の冷たさが少しだけほどけて、夜の入り口にしては歩きやすい。
コートの前を閉めるほどでもなくて、私はそのまま駅へ向かった。
電車の窓に映る自分を、なんとなく見る。
会社帰りの顔だと思う。
いつもと同じ髪、いつもと同じメイク、いつもと同じネイビーのコート。
でも、ひとつだけ違うのは、降りる駅に少しだけ気持ちが向いていることだった。
恵比寿に着いて改札を出る。
いつもの道を歩く。
飲食店の明かり、すれ違う人の笑い声、少し湿った夜の匂い。
あの店の近くまで来ると、私は無意識に歩く速度を落としていた。
来ていないかもしれない。
来ていたとしても、今日は別の席かもしれない。
誰かと一緒かもしれないし、そもそも私が勝手に気にしすぎているだけかもしれない。
そんなことを考える自分に、少し可笑しくなる。
たった数回顔を合わせて、短いメッセージを交わしただけの相手だ。
まだ何も始まっていない。
始まっていないものに、こんなふうに心が先回りするなんて、どうかしている。
それでも、店の引き戸に手をかける直前、私はほんの一瞬だけ呼吸を整えていた。
扉を開ける。
木の匂い。
低い照明。
ジャズ。
グラスの気配。
「いらっしゃい」
マスターが穏やかに言う。
私は軽く会釈して、店の中を見た。
その瞬間、心臓がひとつ、強く鳴った。
いた。
カウンターの奥から三番目。
黒縁の丸い眼鏡。
ダークグレーのジャケット。
右手に細いグラス。
こちらに背中を向けるでもなく、かといって入口ばかり気にしていたふうでもない、自然な横顔。
園田がいた。
見間違えるはずがなかった。
たったそれだけで、店の中の空気が少しだけ変わった気がした。
いや、本当は変わっていない。
変わったのは私のほうだ。
足を止めそうになるのをこらえて、いつもの速度で歩く。
カウンターに近づいたところで、園田がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一秒か、それより短いくらいだったと思う。
でも、その一瞬で、私は自分が今どんな顔をしているのかわからなくなった。
驚いたような顔をしたくない。
嬉しそうに見えても嫌だ。
偶然です、という空気を壊したくない。
なのに園田は、そんなこちらの小さな動揺を見透かしたみたいに、ごく静かに笑った。
「こんばんは」
先にそう言ったのは、園田だった。
「……こんばんは」
私も返す。
声が少しだけ柔らかくなった気がして、自分でわかった。
「お一人ですか」
園田がそう聞く。
「はい。今日は」
「そうなんですね」
それだけの会話。
それだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
マスターが「こっちどうぞ」と、園田のひとつ隣の席を軽く引いた。
私はその動きに一瞬だけ戸惑う。
前にも思った。
この店の距離感は、ときどき残酷だ。
隣でもなく、向かいでもなく、
ひとつ空けた隣。
近すぎないのに、遠くもない。
声を張らなくても届く。
でも、腕が触れることはない。
この絶妙さが、やけに心を揺らす。
「じゃあ、そこに」
マスターに促され、私は席に座った。
バッグを膝の横に置き、コートを脱ぐ。
その一つひとつの動作が、妙に意識される。
視線を上げると、園田がグラスを置くところだった。
「お仕事帰りですか」
「はい」
「お疲れさまでした」
あの夜と同じ言い方だった。
会社の人から何度も聞くはずの言葉なのに、やっぱり少しだけ違って聞こえる。
「園田さんも」
「ありがとうございます」
会話がいったん切れる。
でも不思議と気まずくない。
マスターが水を置きながら、「今日は何にします?」と聞いた。
私はメニューに目を落とすふりをしながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
園田がいる。
本当にいた。
それだけで十分なはずなのに、心のどこかが勝手に次を期待している。
話すだろうか。
どこまで話すだろうか。
この夜は、ただ同じ店にいただけで終わるのだろうか。
「この前と同じでもいいですか」
口から出たのは、そんな無難な言葉だった。
「もちろん」
マスターが頷く。
グラスに氷が落ちる音がする。
カラン。
その音で、あの夜の帰り道が一瞬だけ胸に戻ってきた。
「この前と同じ、っていうの、なんかいいですね」
ふいに園田が言った。
私はそちらを見る。
「そうですか?」
「はい。前に来た夜をちゃんと覚えてる感じがして」
少しだけ笑いながらそう言う園田に、私は返事を迷った。
うまい言い方だと思った。
踏み込みすぎないのに、確かにこちらの記憶に触れてくる。
「たまたま、これが飲みたかっただけです」
そう返すと、園田は「たまたま」と繰り返して、少しだけ笑った。
その笑い方がずるいと思う。
大きく笑わないぶん、こちらだけが余計に意識してしまう。
飲み物が来る。
グラスに触れると、指先に冷たさが移る。
「今日は橘さんは?」
園田が自然な調子で聞いた。
「あ、今日は会食みたいで」
「そうなんですね」
「園田さんは?」
「今日は一人です」
その答えに、なぜか少しだけ安心してしまう。
自分で自分に呆れるくらい、単純だった。
店の奥では、常連らしい男性二人が小さな声で話している。
スピーカーから流れるピアノは静かで、会話の邪魔をしない。
ななしのこういうところが好きだと、私は改めて思った。
誰かと話していても、一人になれる。
一人でいても、少しだけ誰かの気配がある。
その曖昧さの中で、園田の声だけが妙にはっきり耳に残る。
「この前のあと、少し気になってたんです」
グラスを置いたまま、園田が言った。
私は思わず顔を上げる。
「……何がですか」
聞き返した声が、少しだけ小さくなった。
園田は一度だけ視線を落としてから、穏やかに続けた。
「ちゃんと帰れたかな、って」
私は一瞬、言葉を失った。
そんなの、ただの気遣いだ。
わかっている。
夜に別れた相手へ向ける、普通の優しさ。
でも、女性はたぶん、こういう普通に弱い。
大げさな口説き文句より、
後から思い出したみたいな一言のほうが、ずっと深いところに入ってくる。
「帰れましたよ」
私はようやくそう答える。
「ならよかったです」
園田はそれ以上言わなかった。
その引き方が、またずるかった。
もっと喋る人なら、そこから「よかった」「安心した」で終わるはずだ。
でも園田は、必要以上に広げない。
だからこそ、その一言の余韻が消えずに残る。
私はグラスに口をつけた。
冷たい液体が喉を通る。
少しだけ呼吸が整う。
「私も」
気づけば、言っていた。
園田がこちらを見る。
「私も、少し気になってました」
言った瞬間、言わなければよかったかもしれないと思った。
何をだ。
何が気になっていたのか。
それを説明しなければならなくなる。
でも園田は、すぐには聞かなかった。
ほんの少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「僕のことですか」
その聞き方が、冗談っぽくなくて困る。
「……まあ、少しだけ」
私はグラスの縁を見たまま答えた。
正直に言いすぎた気がした。
でも、嘘ではなかった。
園田はすぐには笑わなかった。
何かを受け取るみたいな顔でこちらを見て、それからようやく少しだけ表情をゆるめた。
「嬉しいです」
たった四文字。
それだけなのに、体の奥が熱くなる。
女性読者が好きなのは、たぶんこういう瞬間だ。
大きく口説かれたわけでもない。
好きだと言われたわけでもない。
でも、たしかに今、こちらの言葉が相手に届いたとわかる瞬間。
私はごまかすように笑った。
「そんな大した意味じゃないですよ」
「わかってます」
「ほんとですか」
「はい。大した意味じゃない言葉のほうが、残ることもあるので」
その一言で、私はもう何も言えなくなった。
この人は、時々だけ、急に核心に触れてくる。
普段は静かで、輪郭もやわらかいのに、
こちらが油断したところへだけ、正しい温度の言葉を置いていく。
ずるい。
本当に、ずるい。
「園田さんって」
私は思わず言う。
「はい」
「そういうこと、いつも自然に言うんですか」
園田は少し考える顔をした。
「どうでしょう。たぶん、相手によるかもしれないです」
心臓がまた、わかりやすく鳴った。
相手による。
その言葉の意味を、勝手に広げたくなる。
でも広げたら負けだと思う自分もいる。
だから私は、グラスを持ち直して、なるべく平らな声で返した。
「それ、ちょっと危ないですね」
「危ないですか」
「勘違いされるので」
私がそう言うと、園田は今度こそ少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、気をつけます」
「もう遅い気もしますけど」
言ってから、しまったと思った。
でも、園田は目を伏せて短く笑っただけだった。
「それなら、少し安心しました」
また、安心。
その言葉を聞いた瞬間、あの夜の帰り道が、今の店内と一本の線でつながった気がした。
園田は覚えていたのだ。
私が言ったあの一言を。
いや、覚えていたかどうかはわからない。
でも少なくとも、同じ言葉を返してきた。
そのことが、胸の奥を静かに揺らした。
マスターが新しいおしぼりを置きながら、「なんか今日、空気いいですね」と独り言みたいに言った。
私は思わず顔を上げる。
園田も少しだけ笑う。
「マスター、それ言わないでください」
園田が珍しく少しだけ早口で言うと、マスターは「失礼しました」と笑って奥へ引っ込んだ。
私はそのやりとりに、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
緊張していたのは私だけじゃなかったのかもしれない。
そう思えただけで、少し救われる。
「園田さんも、緊張するんですね」
「しますよ」
「しない人かと思ってました」
「かなりします」
「見えません」
「見えないようにしてるので」
その答えに、私は小さく笑った。
ああ、こういうことかと思う。
女性が惹かれるのは、完璧な人じゃない。
静かなまま、ちゃんと揺れている人だ。
強引に距離を詰めてくるんじゃなくて、
こちらが踏み出した一歩を、同じぶんだけ受け取ってくれる人。
そういう人に、気づけば深く持っていかれる。
店の時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
でも不思議と、早かった感じはしない。
むしろ、最初に扉を開けて園田の横顔を見つけた瞬間から、時間だけ別の流れ方をしているようだった。
「そろそろ出ますか」
園田が言った。
私は一瞬だけ、その言葉の意味を測りかねた。
同時に帰る、ということだろうか。
それともただの確認か。
でも園田は続けた。
「駅まで、もしよければ」
たったそれだけだった。
誘い文句としては驚くほど控えめなのに、断る理由が見つからない。
というより、断りたくない。
「……はい」
私は頷いた。
返事をしたあと、心臓がまた速くなる。
大げさな約束じゃない。
ただ駅まで歩くだけだ。
それなのに、今夜の中で一番うれしい出来事みたいに感じてしまう。
会計を済ませ、コートを着る。
店を出る直前、私はなぜか一度だけ店内を振り返った。
低い照明。
磨かれた木のカウンター。
グラスの光。
ななしは変わらない。
変わったのは、きっと私のほうだ。
園田が先に扉を開け、私はそのあとに続く。
外の空気は少し冷えていたけれど、あの夜より冷たくは感じなかった。
隣を歩く気配が、前より近い。
でも、まだ近すぎない。
この距離がたまらなく心地いいと思ってしまう自分を、
もうごまかせない気がした。
恋は、こういうふうに始まるのかもしれない。
誰かに抱きしめられた瞬間じゃなく、
わかりやすい言葉をもらった瞬間でもなく、
ただ、もう一度会えてしまった夜に。
来るかどうかわからなかった人が、
本当にそこにいて、
目が合って、
自分の言葉を覚えていてくれて、
帰り道を一緒に歩くことになった。
それだけで、十分すぎるほどだった。
その夜の私は、
まだ知らなかった。
この「駅まで、もしよければ」のたった一言が、
あとから何度も、思い出すたびに効いてくることを。




