表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたに、会えてよかった。  作者: 西崎小春


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/30

第5話 返信を待つ夜

それでも、眠るには少し早すぎた。

シャワーの音が、浴室の向こうで一定のリズムを刻んでいる。

橘が先に風呂を使うと言ってから、もう十分くらい経っただろうか。

私はソファに座ったまま、スマートフォンを膝の上に置いていた。

画面は暗い。

さっき自分で送ったメッセージが、まだそこに残っている。

ありがとうございます。

園田さんもお疲れさまでした。

今日は少し冷えましたね。

園田さんも風邪ひかないようにしてください。

無難な文章だと思う。

丁寧で、余計な温度はない。

それなのに、送信ボタンを押したあとから、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。

どうしてだろう。

たった一通のメッセージなのに。

画面を消す。

三秒くらいして、また点ける。

既読はついていない。

そりゃそうだ。

送ってから、まだ数分しか経っていない。

私はスマートフォンをテーブルに置いた。

その瞬間、また気になって手に取る。

自分でも呆れる。

こんなふうに誰かの返信を待つ夜なんて、いつ以来だろう。

昔は、もっと簡単だった気がする。

メッセージを送って、

すぐ返ってきて、

また返して、

そのまま会話が続く。

そんな軽さの中に恋があった時期もあった。

でも、今は違う。

返信が遅いことには、理由がある。

忙しいとか、寝てしまったとか、単純にスマートフォンを見ていないとか。

それくらいのこと、頭ではわかっている。

それでも、心は勝手に意味を探してしまう。

「忙しいのかな」

小さく呟いてみる。

誰もいない部屋の中で、声はすぐに消えた。

浴室のドアが開く音がする。

「終わったよ」

橘がタオルで髪を拭きながら出てくる。

「うん」

私はスマートフォンを裏返した。

橘は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。

プシュッという音が部屋に広がった。

「今日、珍しく飲んだよね」

「そう?」

「うん。あの店では、あんまり飲まないじゃん」

私は少し考えてから答える。

「今日は、ちょっと疲れてたから」

橘は「そっか」と言って、ビールを一口飲んだ。

それ以上、会話は続かなかった。

沈黙が嫌いなわけではない。

でも、さっきまでいた店の空気とは、少し違う沈黙だった。

テレビの音。

ビールの缶がテーブルに置かれる音。

スマートフォンをスクロールする指の音。

それらが部屋の中で、小さく散らばっている。

私は立ち上がった。

「シャワー使うね」

「どうぞ」

浴室に入り、ドアを閉める。

蛇口をひねると、水が一気に流れ出した。

鏡の前に立って、自分の顔を見る。

疲れている。

でも、それだけじゃない。

何かを考えている顔だ。

私は目を閉じて、さっきの店のことを思い出した。

カウンター。

低い照明。

木の匂い。

そして、隣に座っていた園田の横顔。

黒縁の丸い眼鏡。

グラスを持つ手。

ゆっくり話す声。

あまり多くは話さない人だった。

でも、不思議と沈黙が気にならない。

ああいう人は、たぶん珍しい。

世の中には、沈黙を怖がる人が多い。

沈黙があると、すぐに何か言おうとする。

面白い話をしようとする。

場を盛り上げようとする。

園田は、そういうことをしない。

沈黙をそのまま置いておける人だった。

そのことが、なぜか心に残っている。

シャワーを浴びながら、私はふと思う。

もし、あの人と二人で飲んだら、どんな夜になるんだろう。

少し笑ってしまった。

そんなこと、あるわけないのに。

シャワーを止める。

タオルで髪を拭きながら、ふとスマートフォンのことを思い出した。

返信は、来ているだろうか。

浴室のドアを開ける。

部屋はさっきと同じだった。

橘はソファでニュースを見ている。

テーブルの上には、半分くらい減ったビール。

私はスマートフォンを手に取る。

画面を点ける。

通知がひとつ。

胸が少しだけ速くなる。

画面を開く。

園田からだった。

ありがとうございます。

美奈子さんもゆっくり休んでください。

また、ななしで。

たった三行。

それだけ。

絵文字もない。

特別な言葉もない。

でも、その「また、ななしで」という一文が、妙に胸に残った。

また、ななしで。

それは約束ではない。

でも、偶然でもない。

同じ場所で、また会うかもしれない。

そんな距離の言葉だった。

私は少しだけ息を吐いた。

橘がテレビから目を離さずに言う。

「仕事?」

「ううん」

「誰?」

「店の人」

嘘ではない。

でも、本当でもない。

私はスマートフォンをテーブルに置いた。

返信はしないことにした。

さっき返したばかりだし、これ以上続ける理由もない。

それなのに。

その夜、私は何度もスマートフォンを見てしまった。

通知は、もう来ない。

それでも、画面を点けてしまう。

また、ななしで。

その言葉が、静かに残っている。

恋というものが、大きな出来事から始まるとは限らないことを。

誰かに守られた瞬間でもなく、

抱きしめられた瞬間でもなく、

ただ、

帰ったあと、

部屋の中で、

静かな通知を何度も思い出してしまう。

そんな夜から始まることもあるのだと。

そのときの私は、まだ知らなかった。

その「また、ななしで」という言葉が、

これから何度も私の夜を塗り替えていくことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ