第3話 この人は、少し違う
橘と一緒にいると、昔の話を思い出すことがある。
出会ったばかりの頃のこと。
会議室の空気が少し重くなっていたとき、橘がさらりと口にした一行で、その場の全員が顔を上げた夜のこと。
私はあの瞬間、たしかにこの人は特別な人だと思った。
誰かの心を、言葉ひとつで動かせる人。
そういう人を前にすると、自分まで少しだけ別の場所へ連れていってもらえる気がした。
あの頃の橘は、今よりずっと明るく見えた。
自信があって、少し危うくて、でもそれが魅力だった。
いま思えば、私は橘そのものを好きになったというより、
橘がまとっていた空気や、そこから見える世界を好きになったのかもしれない。
同棲を始めて二年。
その世界の輪郭は、ずいぶん変わった。
仕事から帰れば、橘は大抵、家の書斎にいる。
パソコンの画面の光に顔だけ照らされて、椅子に深く座っている。
話しかければ返事はする。
でも、そこから会話が広がることは少ない。
機嫌が悪いわけじゃない。
優しくないわけでもない。
ただ、何かに夢中になっているというより、何かから少しだけ降りてしまった人の静けさがある。
それが嫌いというわけでもなかった。
むしろ私は、そういう静かな時間に慣れていた。
でも、慣れていることと、満たされていることは、たぶん同じじゃない。
その夜、私は少し遅くなってからななしへ向かった。
六本木のオフィスを出たのが九時半過ぎ。
クライアントからの確認待ちで席を立てず、結局、今日やるべきことを片づけるまで帰れなかった。
エレベーターを降りた時には、もう体のどこかが重たかった。
でも真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。
こんな日に部屋へ戻っても、たぶん私は黙ってシャワーを浴びて、冷蔵庫の水を飲んで、書斎のドアの隙間を見ながら寝るだけだろうと思った。
それが悪い夜だとは思わない。
でも、そういう夜ばかりが続くと、自分が少しずつ薄くなっていく気がする。
恵比寿の裏通りは、夜になると少しだけやさしい。
駅前から一本入るだけで、街の輪郭が変わる。
誰かに見せるためじゃない夜が、ちゃんとそこにある。
ななしの赤い灯りは、その夜も静かについていた。
扉を開けると、いつもの空気が迎えてくれる。
ジャズ。
木の匂い。
低い照明。
磨かれたグラス。
私は六席カウンターの④番、いつもの席に座った。
私の右隣、⑤番は空席。
その向こうの⑥番が、園田の席だ。
まだ、園田はいなかった。
「こんばんは」
マスターが私を見て、いつものように穏やかに頷く。
「今日はどうします」
「お任せします」
マスターはワインを選びながら、ちらりと私の顔を見た。
「今日は少しだけ遅かったですね」
「仕事が長引いてしまって」
「お疲れさまでした」
その一言だけで、少し肩の力が抜けた。
私は差し出された赤ワインを受け取って、一口だけ飲んだ。
「……おいしい」
「今日は少しだけ軽いです」
「分かる気がします」
その夜のワインは、最初に広がる香りよりも、あとからやわらかく残る感じがした。
強く主張しないのに、ちゃんと記憶に残る味。
私はグラスを置いて、少しだけ店内を見渡した。
入口側の二席には、会社帰りらしい男性が二人。
小さな声で仕事の話をしている。
奥のテーブル席は、やっぱり空いたままだ。
この店では、それが普通だった。
誰かと来ても、結局みんな静かになる。
お酒や音楽や灯りに任せて、自分の輪郭だけをぼんやり残していく。
扉が開いたのは、その少しあとだった。
私は振り向かなくても分かった。
園田だ。
どうして分かるのか、自分でも不思議だった。
足音でも、癖でもなく、たぶんもう「その人が入ってきた気配」を覚えてしまっているのだと思う。
園田はいつものように、まっすぐ⑥番の席へ向かった。
私との間には、いつもどおり⑤番の空席がある。
マスターが言う。
「いつものですか」
「はい」
ジャックダニエル。
ロック。
氷が落ちる。
カラン。
その音を聞くと、私は少しだけ安心する。
前にも一度、その話をしたことがある。
「その音、いいですよね」と。
それだけの会話だったのに、なぜかあの夜のことをよく覚えていた。
園田は静かにグラスを持ち上げた。
私は横目でその様子を見ながら、ワインを飲んだ。
相変わらず、派手な人ではない。
でも、やっぱり不思議に目が留まる。
きちんとした服を着ているのに、見せつける感じがない。
落ち着いているのに、冷たくはない。
そして何より、店の空気を壊さない。
それは簡単なようでいて、実はすごく難しいことだ。
扉がもう一度開いた。
「こんばんは」
橘だった。
私は少しだけ姿勢を戻して、手を上げた。
「こんばんは」
橘は迷わず⑤番に座った。
私と園田の間の、いつも空いている席だ。
だから並びはこうなる。
④ 美奈子
⑤ 橘
⑥ 園田
橘がいると、その席の意味が少し変わる。
普段は「距離」に見える空席が、その夜だけは「今の私」に戻る。
「ハイボール」
橘がマスターに言う。
「はい」
グラスに氷が入り、炭酸が注がれる。
シュワ、と音が立つ。
「遅かったね」
橘が私を見る。
「今日は会議が多くて」
「顔に出てる」
私は少し笑った。
「そんなに?」
「うん、ちょっとだけ」
マスターがハイボールを置くと、橘はグラスを持ち上げた。
「おつかれ」
「おつかれさま」
グラスを軽く触れさせる。
そのあと橘は、今日あった仕事の話をし始めた。
「いま受けてるインタビュー記事がさ、先方の修正が細かすぎて」
「うん」
「しかも言ってること毎回違うんだよ。最初に言ってたことと全然違う」
私は相槌を打ちながらワインを飲んだ。
そういう話は、別に珍しくない。
仕事をしていれば誰にでもある。
私の方だって似たようなことは山ほどある。
でもその夜の橘は、少しだけ声が大きかった。
店の空気に合わないほどではない。
けれど、ななしの静けさの中では、ほんの少し輪郭が立ちすぎるくらいには。
私はグラスを持ったまま、そっと橘の袖をつついた。
「声」
橘は一瞬だけ私を見て、すぐに笑った。
「あ、ごめん」
そう言ってハイボールを飲む。
その横で、園田は何も言わない。
ただ、静かにジャックダニエルを口に運んでいる。
私はその横顔を見た。
変わらない。
本当に、変わらない人だなと思う。
もちろん、人間なんだから変わらないわけはない。
でもこの店にいる園田は、いつも同じ温度を保っているように見えた。
大きな声を出さない。
必要以上に話さない。
でも、誰かの会話を冷たく切り捨てるわけでもない。
私はふと、どちらが好きかを考えた。
昔なら、たぶん橘みたいな人を選んでいた。
言葉が強くて、場を動かせて、どこか華がある人。
そういう人が、自分を別の場所へ連れていってくれるような気がしていたから。
でも今は、その「動かす力」よりも、ただ同じ場所にいても空気が乱れない人の方に、少しだけ心が向く。
それは年齢のせいかもしれない。
疲れのせいかもしれない。
あるいは、私の中の何かが少しだけ変わってきたせいかもしれない。
「そういえばさ」
橘が急に言った。
「この店、ほんと名前ないの面白いよな」
私は少し笑った。
「正式にはあるじゃない」
「いや、あれは名前っていうか説明だろ」
マスターがグラスを磨きながら、少しだけ口元をやわらげた。
「お客さんが好きなように呼べばいいと思ってるんです」
「ほら」
橘が私を見る。
「やっぱり」
私はワインを飲みながら言った。
「私は、ななしって呼んでる」
橘は「まあ、そうなるよな」と笑った。
そのとき、園田の方から静かな声がした。
「僕もそう呼んでます」
私は少し驚いて、そちらを見た。
園田はグラスを持ったまま、目だけで少し笑っていた。
たぶん、それは今まででいちばん長い言葉だった。
「……同じなんですね」
そう言ったのは、たぶん私の方だった。
「たぶん、みんなそうなるんでしょうね」
園田が言う。
その言い方が、少しだけおかしかった。
おかしいというより、やわらかかった。
私は小さく笑った。
橘も笑った。
「まあ、そうだな。店名がないなら、ななしになるよな」
ほんの短い会話だった。
でもその数秒だけ、三人のあいだに自然な空気が流れた。
私はそのことが、少しだけ不思議だった。
橘と園田は面識がない。
私も、園田とは何度か短い言葉を交わしたことがあるだけ。
それなのに、その瞬間だけは誰も無理をしていない感じがした。
たぶん、マスターの店だからだ。
この空気の中では、余計な強さは自然にほどけてしまう。
それでも、やっぱり違いは見えてしまう。
橘はハイボールを飲みながら、また仕事の話を始めた。
今度は昔のコピーの話だった。
雑誌の見出しのこと。
CMのナレーションのこと。
自分が関わった仕事がどれだけ評判になったか、そんな話を、少しだけ誇らしげに、少しだけ遠い目をして話す。
私は「そうなんだ」と頷きながら、ふと右隣を見た。
園田は相変わらず、静かにグラスを持っている。
人の話に耳を傾けていないわけではない。
でも、そこに入り込もうとはしない。
その姿を見ていると、
私は不意に、息がしやすくなるような気がした。
それがどうしてなのか、そのときはまだ分からなかった。
ただ、思った。
この人は、誰かの気分を乱さない人なんだろうな、と。
それは、強い印象ではない。
むしろ、見落としてしまいそうな静かな長所だ。
でも、毎日を一緒に過ごす相手として考えたら、
本当はそういうものの方が、ずっと大事なのかもしれない。
私はすぐに、その考えを打ち消した。
何を考えてるんだろう、と思った。
ただの常連だ。
この店で何度も顔を合わせる人。
それだけ。
それなのに、比べるようなことを考えてしまうのは、
きっと少し疲れているせいだ。
橘がグラスを空にした。
「もう一杯」
「同じもので?」
マスターが聞く。
「うん」
新しいハイボールが置かれる。
私はワインを飲みながら、少しだけ視線を落とした。
園田のグラスの氷が、また小さく鳴る。
カラン。
なぜだろう。
その音を聞くと、胸のどこかが少しだけほどける。
店を出たのは、橘の方が先だった。
「先、会計しとく」
橘が立ち上がりながら言う。
私は「ありがとう」と答える。
そのすぐあとで、私もグラスを空にした。
「じゃあ、私も」
マスターが伝票を置く。
私はバッグを取って立ち上がった。
そのとき、右隣から小さな声がした。
「お疲れさまでした」
園田だった。
私は少しだけ驚いて、それから笑った。
「お疲れさまです」
それだけのことだった。
でも、その「お疲れさまでした」は、
会社の人に言われるのとは少しだけ違って聞こえた。
労いというより、
同じ夜を過ごした人への、静かな挨拶みたいだった。
店を出ると、夜の空気は少し冷えていた。
橘は先に歩き出していて、私はその少し後ろを歩いた。
恵比寿の裏通りに、タクシーの灯りが短く流れる。
私はふと、さっきの声を思い出していた。
お疲れさまでした。
たったそれだけの言葉なのに、
どうしてだろう。
少しだけ、胸に残っていた。
その夜の私は、まだ知らなかった。
恋というものが、
大きな出来事から始まるとは限らないことを。
誰かに守られた瞬間でもなく、
抱きしめられた瞬間でもなく、
ただ、同じ時間を静かに過ごして、
帰り際に交わしたたったひと言が、
あとからじわじわ効いてくることがあるのだと。




