第28話 あなたに、会えてよかった。
春の風が、少しだけ暖かくなっていた。
恵比寿の駅前は、いつもと同じ夜の光に包まれている。
仕事帰りの人。
笑いながら歩く若い二人。
タクシーのライト。
街は変わらない。
でも、美奈子の歩く速度は、少しだけ変わっていた。
急ぐでもなく、
立ち止まるでもなく、
ただ、ゆっくりと歩く。
ななしへ向かう道。
この道を何度歩いただろう。
最初は、ただの店だった。
仕事帰りに寄る場所。
静かに酒を飲む場所。
でも、ある夜から少し変わった。
カウンターで、園田と同じ時間を過ごすようになってから。
最初は会話も少なかった。
ただ、同じ店で同じ時間を過ごす。
それだけ。
でも、夜は少しずつ変わった。
帰り道が少し長く感じたり。
メッセージを待つ夜が増えたり。
そんな小さな変化が、少しずつ重なった。
美奈子は店の前で立ち止まる。
木の引き戸。
最初の夜も、この扉を開けた。
あのときは、こんな未来になるとは思っていなかった。
美奈子は扉を開ける。
「いらっしゃい」
マスターの声。
ななしの空気は、いつもと同じだった。
低い照明。
静かな音楽。
グラスの小さな音。
そして。
カウンターの中央。
園田がいた。
グラスを持っている。
美奈子に気づくと、ゆっくり笑った。
「こんばんは」
「こんばんは」
美奈子は隣に座る。
マスターが氷を落とす。
カラン。
その音が、店の夜に溶ける。
二人はグラスを持つ。
軽く触れる。
小さな音。
「乾杯」
園田が言う。
酒を一口飲む。
冷たい。
でも、胸の奥は温かい。
しばらく二人は何も言わなかった。
ななしでは、それが自然だった。
園田が言う。
「最近」
美奈子が顔を上げる。
「表情が少し変わりましたね」
美奈子は少し笑う。
「そうですか?」
園田は頷く。
「前より」
グラスを見つめながら言う。
「少し軽い顔してます」
美奈子はグラスの氷を回す。
カラン。
その音を聞きながら思う。
いろいろな夜があった。
迷った夜。
苦しかった夜。
橘と話した朝。
全部が、この夜につながっている。
美奈子は言う。
「園田さん」
「はい」
美奈子は少しだけ笑った。
「もし」
園田が顔を上げる。
「この店に来てなかったら」
園田は考える。
それから言った。
「会ってないですね」
美奈子は笑う。
「そうですね」
沈黙。
でも、その沈黙は温かい。
美奈子はグラスを持つ。
一口飲む。
そして言った。
「でも」
園田が美奈子を見る。
美奈子は静かに言った。
「会えてよかった」
その言葉は大きくなかった。
でも、はっきりしていた。
園田は少しだけ驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
その笑顔はとても静かだった。
園田はグラスを持つ。
氷が小さく鳴る。
カラン。
そして言った。
「僕もです」
その言葉は短かった。
でも、十分だった。
恋というものは、
大きな出来事から始まるわけじゃない。
ただ、
同じ店に通って、
同じ夜を過ごして、
同じ時間を重ねる。
それだけで、
人生が少し変わることがある。
ななしの夜は今日も静かだった。
グラスの音。
低い音楽。
そして、
二人の新しい夜。
物語は終わる。
でも、
夜はこれからも続いていく。




