第27話 もう一度、あの店で
その夜、美奈子はゆっくり歩いていた。
恵比寿の駅から、ななしへ向かう道。
何度も歩いた道。
でも、今日は少し違う。
夜風が少し冷たい。
街の灯りがいつもより明るく感じる。
美奈子は一度だけ深く息を吸った。
そして、店の前で立ち止まる。
木の引き戸。
この店から、すべてが始まった。
ほんの少しだけ迷う。
でも、美奈子は扉を開けた。
「いらっしゃい」
マスターの声。
店の中はいつもと同じだった。
低い照明。
静かな音楽。
グラスの小さな音。
そして。
カウンターの中央。
園田が座っていた。
グラスを持っている。
美奈子に気づくと、ゆっくり顔を上げる。
少し驚いた顔。
それから、静かな笑顔。
「こんばんは」
その声を聞いた瞬間、美奈子の胸の奥が少しだけ軽くなる。
「こんばんは」
美奈子は隣に座った。
マスターが聞く。
「いつもの?」
美奈子は頷く。
氷がグラスに落ちる。
カラン。
その音が、店の空気に溶ける。
しばらく二人は何も言わなかった。
ななしの夜は、いつもそうだ。
言葉より、空気の方が大事なことがある。
園田が言う。
「今日は」
美奈子が顔を上げる。
「なんとなく来る気がしてました」
美奈子は少し笑う。
「私も」
その言葉は自然だった。
グラスを持つ。
酒を一口飲む。
冷たい。
でも、胸の奥は温かい。
美奈子はグラスを見つめながら言った。
「橘と」
園田は黙って聞いている。
「話しました」
店の空気が少しだけ静かになる。
園田はゆっくり頷いた。
「そうですか」
その声は変わらない。
静かで、まっすぐ。
美奈子は続ける。
「ちゃんと選べって言われました」
園田は少しだけ笑った。
「橘さんらしいですね」
その言葉に、美奈子も少し笑う。
沈黙。
グラスの氷が小さく鳴る。
カラン。
美奈子はゆっくり言った。
「園田さん」
「はい」
美奈子は顔を上げる。
園田を見る。
逃げない目。
「私」
胸の奥が少しだけ速くなる。
でも、言葉ははっきりしていた。
「あなたと、もう少し歩きたい」
店の時間が一瞬止まる。
園田は何も言わない。
ただ、美奈子を見ている。
その目は驚いていた。
そして、少しだけ優しかった。
美奈子は続ける。
「まだわからないこともある」
「不安もある」
「でも」
グラスを持つ手が少し震える。
「それでも」
小さく息を吸う。
「園田さんといる夜が好き」
その言葉を言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
園田はゆっくり息を吐いた。
それから、静かに笑った。
その笑顔は、今までで一番柔らかかった。
園田は言う。
「美奈子さん」
「はい」
「僕も」
グラスを持つ。
氷が小さく鳴る。
カラン。
「あなたと歩きたいです」
その言葉は大きくなかった。
でも、まっすぐだった。
ななしの夜は静かだった。
誰も大きな声を出さない。
ただ、それぞれの夜が流れている。
恋というものは、
劇的な瞬間から始まるわけじゃない。
ただ、
同じ場所に戻って、
同じ夜を過ごして、
同じ気持ちを確かめる。
それだけで、
未来が少しずつ形になることがある。
その夜、
二人の物語は、
新しい夜へ
静かに歩き始めていた。




