第21話 まだ答えられない
「好きになった?」
橘の声は、驚くほど静かだった。
怒っているわけでもない。
責めているわけでもない。
ただ、そこに置かれた言葉。
美奈子はその場に立ったまま、何も言えなかった。
リビングは静かだった。
テレビもついていない。
窓の外から、遠くの車の音がかすかに聞こえる。
橘はソファに座ったまま、美奈子を見ている。
急かさない。
でも、目を逸らさない。
美奈子はゆっくり椅子に座った。
心臓の音が、少しだけ速い。
「わからない」
最初に出た言葉は、それだった。
橘は黙っている。
「好きって」
美奈子は続ける。
「そんな簡単に言えるものじゃないと思う」
それは言い訳でも、逃げでもなかった。
本当にそう思っている。
園田といる時間は心地いい。
帰り道が少し長く感じる。
メッセージが来ると、少し嬉しい。
でも、それが恋なのか。
美奈子にはまだ名前がつけられなかった。
橘は小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけ言う。
美奈子は橘を見る。
怒っている様子はない。
ただ、少し疲れた顔をしている。
橘はテーブルのグラスを手に取る。
水を一口飲む。
「俺さ」
橘が言う。
「最初からわかってたわけじゃない」
美奈子は顔を上げる。
橘は続ける。
「でも最近、なんとなく思ってた」
「何を?」
橘は少し笑った。
「空気」
美奈子は何も言えない。
橘は肩をすくめる。
「長いからさ」
それだけ。
その言葉の重さが、胸に落ちる。
長い時間を一緒に過ごしてきた。
だからわかる。
ほんの少しの変化。
橘は続ける。
「ななし行く回数も増えたし」
「うん」
「帰ってきたときの顔も、少し違う」
美奈子は下を向いた。
嘘ではない。
隠していたわけでもない。
でも、気づかれていた。
橘はゆっくり言う。
「園田、いい人だよな」
美奈子は少し驚いた。
その言葉が出ると思っていなかった。
「うん」
小さく答える。
橘は頷く。
「わかる」
その言い方は、どこか静かだった。
「俺と違うタイプ」
橘はそう言って笑う。
自嘲のような笑い。
美奈子は言う。
「そんなことない」
橘は首を振る。
「いや、あるよ」
少し間が空く。
橘は天井を見た。
それから言う。
「俺さ」
「うん」
「もし美奈子が好きになったなら」
その言葉で、美奈子の心臓が強く鳴る。
橘は続ける。
「止める気はない」
部屋の空気が止まる。
美奈子は橘を見る。
橘の顔は穏やかだった。
怒りも、責める気配もない。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
「でも」
橘が言う。
「一つだけ聞きたい」
美奈子は息を止める。
橘は美奈子をまっすぐ見た。
逃げない目。
そして言った。
「美奈子は」
少しだけ間を置く。
「幸せになれる?」
その質問は、
責める言葉ではなく、
祈りに近かった。
美奈子はすぐに答えられなかった。
恋は、
好きかどうかだけで決まるものじゃない。
長い時間。
思い出。
優しさ。
全部が混ざっている。
その夜、美奈子はまだ答えを出せなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
もう、
今までと同じ夜には戻れない。




